第93話 離反者すら想定の内

 返り血で汚れた身体を、指を鳴らして綺麗にしたメフィストが牢の外に出た。同時にバールも外に出ようとするが、兄バラムの我が侭で中に残る。曰く「離れるなら解呪しない」と脅されたとも言える。


 解呪師とその妹、贄とされた2人、依代となった1人と1体……かろうじて息をするアベルの顔は爪によって引き裂かれ、その面影すらない。耳の近くまで裂かれた口から、大量の血と唾液が喉に流れた。砕かれた顎はだらしなく垂れ下がる。


 牢から出されたため治癒が働かない手足の付け根は、火で焼いて乱暴な止血が施されていた。死なせないぎりぎりの手加減をされた男の姿に、バールが首をかしげる。


「メフィスト、よくエリゴスが許したわね」


 こんな状態にされると知って、エリゴスが駆け付けないわけがない。彼の依存は明らかで、アベルを幽閉した塔に侵入を試みて罰せられること、数十回の常習犯だった。その男が鉄格子の檻という鼻先に餌を置かれて、何もしない理由はない。


 駆け付けて、傷つけるメフィストの邪魔をしたはず。バールの見解に、メフィストは何でもないことのように答えた。


「許される必要はありません。我が主君の邪魔をするなら、誰であれ敵です」


 さらりと吐き捨てた男は、灰色の前髪を指先で払った。ごくりと喉を鳴らしたバールだが、彼女がメフィストの立場なら同じように仲間を罰しただろう。主君を優先するからこそ、ゴエティアの称号を賜るのだから。与えられる特権と報酬に比例し、義務は重く受け止めなければならない。


「エリゴスは……」


 どうなったの? 気づいてしまった女将軍へ、鉄格子に歩み寄った灰色の悪魔はくつりと喉を鳴らして口角を持ち上げた。わかっていて尋ねるとは、変な女ですね。


「バラバラにして、代わりに牢へ捨てました」


 イヴリースの勅命に逆らう愚か者は、相応の立場が相応しい。そう言い切った後、思い出したように付け加えた。


「彼はアベルに執着していますから、後であげましょう」


 さぞ、いい声で鳴くでしょうね。悪びれず吐き捨てるメフィストだが、その右手に新たな赤が伝う。エリゴスの本気の抵抗は、傷の痛みとなって残った。治癒まであと少し、この痛みを愉しむのも悪くない。それ以上尋ねるのをやめたバールは賢明だった。メフィストの右腕の代償は、安くない。


「解呪をする間、何があっても動かないこと。動いたら結果に責任持てない」


 最低限の注意だけする。何ということはない言葉の意味を、彼らはすぐに知ることになった。


「アゼリアっ!」


「動くな」


 発動した魔法陣は時計仕掛けと同じ。淡々と刻む刻が逆転していく。その途中で遮れば、誰が死んでもおかしくなかった。


 苦しみや痛みすら逆転する。それは一度乗り越えた痛みを、もう一度味わうことだった。呻きを漏らし、激痛に身を捩る最愛の姫に伸ばした手を握りこむ。長い爪が突き刺さった手のひらは血を滴らせた。

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