第89話 魔王の地位より望んだ居場所

 バールは兄の背に躊躇いなく剣を突き立てた。こぼれ落ちた赤い血が、腹に抜けた剣先から床に伝う。地についた途端、決められた水路を辿るように魔法陣が描かれた。走る赤い線の1本すら無駄がない。


 すべての線が繋がり、文字を形成し、特殊な紋様を浮かび上がらせる。魔王イヴリースも目を瞠る緻密さで描かれた魔法陣が、牢の内側を侵食した。足元に広がる魔法陣から、さらに壁に魔法陣が展開される。驚く量の血を使い、天井まで魔法陣で覆い尽くした。


「っ、はあ……も、いい」


 兄の言葉を得て、バールは乱暴に剣を抜いた。途中で引っ掛かったのか、兄の背に足をかけて抜く姿は容赦がない。ゴエティアの強烈な個性あふれる魔族を束ねる女将軍ならではだが、当のバラムはぶつぶつと不平を漏らす。


「もっと優しく」


「治りかけのくせに、何を甘えてるのよ。早くしないと、添い寝してあげないから」


「すぐにやる」


 いきなりやる気を出したバラムに、満足げなバール。どちらもどちらだ。メフィストは顔を引きつらせながら、彼らの会話を聞いた。まさか、魔王とその番を苦しめる呪術の解除の代償は、妹の添い寝ですか……。ちらりと視線を向ければ、羨ましいだろうと言わんばかりのバラムがいた。


 次に彼へ頼みごとをする時は、バールを利用しましょう。頭の中に刻み込んだ宰相は、軽い咳払いをして場を誤魔化した。


 イヴリースは見事な魔法陣をじっくり観察していた。足元のエルザが苦しそうな声を出すたびに、それはアゼリアの響きと重なる。困惑しながらも、手を差し伸べるのが間違いだと理解した以上動かない。誘われる意識を無理やり、魔法陣へ固定した。


 いくつも並ぶ魔法陣はすべて種類が違う。フェニックスであるバラムの血は、魔法陣を生き物のように脈打たせた。


「必要なものはあるか」


「……当事者を全部揃えるのが理想かな」


 考えながら呟いた言葉に、メフィストが一礼する。


「御前を失礼し、アベルを回収して参ります」


「任せた」


 牢から出たメフィストが歩き出すのを見送り、その場で転移しようとしたイヴリースが動きを止める。ぐるりと牢内を眺め、肩を竦めて牢の外へ足を運んだ。設えた解呪の場を、転移魔法陣で壊すことはない。廊下に出た魔王が消えた途端、バラムは大きな息を吐いた。


「あの威圧はすごいな。あれが当代か。しばらく安心して眠れそうだ」


「バラムもゴエティアに入ればいいのに」


 唇を尖らせる妹バールを手招きし、まだ赤い血で濡れた手を彼女の頬に滑らせた。


「僕はいいよ。お前の活躍を聞くだけでいい」


 それは眠り続けるひとつの理由でもあった。バールは知らない。バラムが眠る際、そのほとんどの魔力はバールを守るために使われていた。彼女が女将軍としての地位を固める一因となった、強固な結界の大半はバラムの援護なのだ。


 彼女を傷つけるものから守る盾となれれば、それ以上は望まない。魔王候補から降りるとき、自ら定めた魔力の使い道だった。汚れたとぼやきながらも、赤い手を引き剥がそうとしない妹の優しさにつけ込む兄は、まだ激痛の走る傷口を手で撫でた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る