第55話 父の心、娘知らず

 いつ戻ったのか。目が覚めたアゼリアは、抱きしめる腕の主に頬をすり寄せた。ひどく怠い。動くのが億劫で、全身の力を抜いたまま身を委ねた。


 ここ数日で慣れたイヴリースの匂いがする。すっきりしたハーブに似た香りと、柔らかな猫の腹に顔を埋めた時の匂い。どちらも好きな匂いで、だからとても落ち着いた。


「起きたのであろう、アゼリア」


 狸寝入りしようとしたのに、指摘されたら目を開けないわけにいかない。目蓋を押し上げると、外は明るかった。眩しくて目を閉じて、数回瞬く。光に目を慣らしたアゼリアに、イヴリースは穏やかに微笑んだ。


 整った顔が浮かべる笑顔は透き通った感じがするのに、何かを隠していた。わずかに違う。口元の角度、目元の柔らかさも足りなかった。


 彼の頬に手を滑らせ触れながら選んだのは、この一言。


「イヴリース、ごめんなさい」


 彼は見てはいけないと警告したのに、その約束を破った。心配だからなんて、言い訳にもならない。謝罪して、自分より体温の低いイヴリースの頬を撫でる手を引いた。怒ってるんだわ、きっと。


 嫌われてしまったかもしれない。不安に引っ込めようとした手を、イヴリースが握った。許してもらえる期待に顔をあげれば、イヴリースは眉間にシワを寄せていた。


 ああ、やっぱりダメなのね。この婚約がダメになるなら、あの時に噛み殺してくれればよかった。食べられたら、彼の一部になれるのに。


「ごめ……なさい」


 他に浮かんだ言葉はなかった。もう、名を呼ぶことさえ怖い。二度と呼ぶなと言われたら、心臓が止まればいい。握った手を再び頬に戻された。


 イヴリースの頬に触れる手は、小刻みに震える。泣くのは卑怯だから、堪えるために唇を噛もうとした。


「噛むと傷になる。そなたは余の物だ」


 意味を捉えかねて、何度も瞬きする。ダメだわ、涙になってしまいそう。そう思った目元にキスが降り、柔らかな唇が重ねられた。最後のキスに覚悟を決めて、唇を薄く開き舌を招き入れる。


「ん……ぅっ」


「愛していると言ったであろう? 余に愛を告げて逃げるなど、許さぬ。我が愛しのアゼリア」


 謝罪を繰り返すアゼリアの眦に集まった涙も、淡いピンクに色づいて誘う唇も、余の物だ。独占欲を露わに告げるイヴリースの声が、アゼリアの強張った身体を解していく。


「そこまでにしていただきたい」


 ベルンハルトの声に、びくりと肩を揺らしたアゼリアが慌てて身を起こした。義兄になるベルンハルトがいるため、何とか襲わずに我慢したイヴリースは、堪えようと力の入った眉間を緩める。


「ぐぬぬぅ、離せ! ベルンハルト! こやつは、我が娘の唇を……キスを奪ったのだぞ!!」


 全力でアウグストを押さえるベルンハルト。右目に眼帯をしたアルブレヒト辺境伯が、大恩人であるアウグストを必死に掴んでいた。離したが最後、隣国となる魔国サフィロスの王に斬りかかるだろう。


 ユーグレース国の王や王子を捕まえ侵攻を防いだ立役者を前に、それは何としても阻止しなければならない。歯が折れそうなほど噛み締めた父の姿に目を見開き、アゼリアは苦笑して残酷な一言を放った。


「お父様、イヴリースは婚約者ですわ」


「俺は認めないからなぁ!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る