第50話 暴走する本能

 高揚する気分を持て余す。久しぶりに解放した姿は、第三形態までだった。これ以上は必要ない。そう告げる理性に従い、解放されたがる魔力を抑え込んだ。


 普段から第一形態しか見せない魔王の態度を、魔族は余裕だと考える。第二形態を取らずとも振るう魔力に遜色なく、素晴らしい王なのだと。その誤解を放置したのは、自分にとって都合がいいからだ。


 イヴリースは第二形態以降のすべて変身を嫌っている。憎悪している、そう表現しても過言ではなかった。一定以上の魔力を使うと、第一形態は解けてしまう。あれはすべての魔力を強制的に抑え込んだ状態であり、全身を拘束された窮屈な姿だった。好んで第一形態を纏う魔族はほぼいない。


 窮屈さや動きづらさを我慢しても、第二形態を人に見せたくなかった。過去の母の言葉が蘇る。悲鳴に似た叫びに含まれた嫌悪と恐怖が、脳裏を過った。


 あの痛みを味わうくらいなら、我慢する方がいい。多少不自由であっても、心の痛みはないのだから。そう考えて過ごした。


 必要に迫られて第二形態を取ったことはあるが、魔王になる最終戦以外でそれ以上の変身を他者の目に触れさせなかった。前魔王を倒して魔王位を譲り受けた日から、イヴリースは己の魔力を封じて襲撃者を撃退し続けた。それは圧倒的な強さによる余裕と受け取られ、幸いにして批判の声は上がらない。


 数百年封じた魔力が暴走し、獣の体中を引き裂くように駆け巡る。高揚感が湧き出て、自然と口元が笑みを浮かべた。居心地が良かった過去を、本能が踏みにじる。本当はこうしたかったのだろう? そう告げる本能に、理性は引きずられて沈黙した。


 獲物が来る。街道の先、まだ見えぬ距離の人間の群れに目を細めた。あれらは我が婚約者アゼリアに害を為す敵だった。メドゥサがかけた暗示が導くまま、自我のない人形として攻め込む生贄――思う存分引きちぎり、噛み殺し、叩き潰しても構わない。


 3対の羽と翼を広げ、ゆらりと尻尾を揺らした。そこで気づく。高まった魔力が凝ったように、尻尾が1本増えたのだ。誇らしげに8本の尾を揺らし、一気に目の前の壁を駆け下りた。足音も振動も不要だ。狩りは静かに近づき、怯える獲物を甚振る時間だった。


 真っ直ぐに向かってくる距離を測り、飛ぶように近づく。蛇の暗示があろうと、命の危険に人の本能は反応するらしい。悲鳴を上げて逃げようとする獲物を一網打尽にするため、結界で彼らを囲い込んだ。


 恐怖を教え込むために、透明の結界を半透明に曇らせる。逃走を阻む壁の存在に気付いて叩く男の頭を潰した。真っ赤な血がべたりと半透明の白を汚す。


「さあ、足掻け。余を楽しませよ」


 理解できる言葉を響かせた魔物に、意を決した数人が剣を向ける。震えて腰の引けた剣など、武器ではない。爪の先で弾き飛ばし、男を地面に叩きつけた。


「まだだ」


 足りない、残虐な本能が咆哮を上げる。まだ殺し足りない。悲鳴が聞きたい。赤い血の鉄錆びた臭いが、ここまで芳しいとは知らなかった。


 ぐしゃりと獲物をひとつ潰し、爪から滴る血を舐めた。


「……陛下が完全に理性を失っています」


 止めに入るのも危険だ。敵の排除に向かう意識を損なうと、暴走した魔王の凶行が街に向かう可能性があった。魔族は強い敵を倒すことに本能的な喜びを覚えるのだ。メフィストを認識できないほど興奮していれば、イヴリースは嬉々として襲いかかるだろう。


 困ったと呟くメフィストの脇をすり抜け、ベルンハルトは塔の下に繋いだ愛馬に跨る。震え嘶く馬をなだめ、新たな国の王となる青年は、人影のない街を疾走した。

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