(夏)
白瀬直
第1話
暑い。
寝苦しい室温に耐えかねて、咲坂楓は目を覚ました。
宙を舞うホコリが差し込むに陽光に照らされ輝いている。
寝汗をかいて湿っぽくなったタオルケットをはがし、側のテーブルからペットボトルをひったくるが中身はない。蓋を閉めず雑に放るとカラカラとフローリングを転がった。
ベッドを抜け出し、フローリングの床をまだ曖昧なままの足取りで歩く。冷蔵庫を開けて心地よい冷気を感じるも、買い置きのウーロン茶も切れていた。ばたんと強めに閉じてキッチンの蛇口をひねる。コップを出すようなこともせず、手で受け止めてそのまま口へと運んだ。
味も匂いもほとんど感じない。ただ冷たさだけが喉の奥へ滑っていく。
一掬い飲んだところで喉は一向に潤わなかったが、それでも自分の体の感覚はだいぶんつかめた。
冷蔵庫の上に置いてあるサプリメントを取り、二杯、三杯目の水道水と一緒に流し込む。
栄養が回ったわけではない。プラシーボであるのを十分承知で、それでも脳は少しずつクリアになってくる。
そしてクリアになった頭で、改めて室内に漂うへばり付くような重さの熱を実感する。
夏。
とはいえまだまだ太陽は余力を残している6月頭。熱中症だとか脱水症状だとかそんな言葉が浮かぶ危険な室内を少しでも是正せんとエアコンを22度で起動させる。
たまの休み。平日に休みなんかなく、土日も平気で仕事の入る今の会社に勤めてから、休みの日は「体力の回復」に当てるのがほとんどだった。
休みの日に何をしているのかと聞かれ「何もしてない」と答えられる勇気は楓にはない。
何かしなければ。
そう思いながらも自室から抜け出すことができない楓は、スマホで見れる動画サイトで映画を見たりして、かろうじて趣味と呼べるものを保っている。
大学を卒業してから5年。疎遠になった友人たちからの連絡が震わせることのないスマートフォンは、繋げる世界を狭くしてしまっていた。
自分で開くこともほとんどない連絡帳は、ホーム画面でも3ページ目の隅に置いてある。
部屋が冷えるのを待ちながら、またベッドに横になる。枕に頭を乗せ、スマホを横にして適当な動画を流したまま意識を手放していく。
燻る。
自分の中に焦りを感じて、それでもなお立ち上がることはできていない。
つまらない人間になってしまったな。
今の自分を見てそう感じることはできても、じゃあ面白い人間になってやろうという気概はもう湧いてこない。
それが、大人になるってことなんじゃないすかね。
年を重ねることが成長だった時期はとうに過ぎ去ってしまい、現状を受け入れることができる「ただの大人」になってしまったという自覚だけが身体と一緒に横たわっている。
そんな風に。
焦りにすら慣れてしまった楓の意識は、ゆっくりと、部屋が冷えるのに合わせて頭の奥へ沈んでいった。
サイトの勝手なおすすめ機能が、その動画を流した。
薄い意識の中に差し込むような懐かしい音。
不思議なメロディと、聞き覚えのある声。
『ニ~コニコ動画♪』
「時報」である。
日付が変わる瞬間、見ている動画に割り込んで聞こえるメロディ。そのサイト独特の文化で、これを聞いたことのないユーザーの方が少ないと言っていい。耳に残る中毒性もあり、いつしか楽曲に昇華されたそのメロディは、ユーザーになじみにあるメドレー曲の冒頭に使われている。
流星群。
オワコンだとか衰退期だとか今となっては色々と言われる動画投稿サイトだが、その存在はやはり伝説であり、もはや「文化」ですらある。
その、あまりの懐かしさに思わず笑みが出る。楓は数年前からこのサイトを利用していない。今だってスマホで開いていたのはYouTubeだ。
微睡んだままの目で、その画面を捉える。
どうやら、「歌枠」に飛んでしまったらしい。
メドレーになっている懐かしい曲と一緒に画面左側をコメントが流れていく。その早さは、同時に見ている人の多さを物語っていた。
一つ一つの曲で、それぞれの思い出がよみがえる。
楓も、離れてしまったとはいえ好きか嫌いかで言うならやはり好きなのだ。
あそこには熱があった。様々なジャンルのエンタメがあり、日常の全ての物がエンタメになっていく様を見るのは本当に楽しかった。
ユーザー間の交流もあった。さまざまな活動を始める人がそこにいて、インターネット上のその場所そのものが文化であり、また新しい文化の発信地でもあった。
見る側でも、やる側でも、その熱にうかされている空気そのものを楽しんでいた。
なにより、楓もその一人だったのだ。
学生という立場もあったのかもしれない。あの頃の楓は、面白いとか、好きとか、そういう熱に動かされていた。
自分の知らない面白さが見つかるたびに心躍ったし、それを探す楽しさもあった。面白さを知っていくのも好きをぶつけ合うのも、何もかもが面白く、自分で発信する側に回ったこともあった。
そんな風に、思い出が駆け巡って、冷え切った部屋の中にいた楓に新しい熱を点す。
きっかけにしたい。そんな風に思った。
跳ね起きるほどの元気はない。それでも、ゆっくりと上半身を起こす。
「……出かけるか」
買い物なんていつもやっている。仕事に行くとき、いつもこの玄関から外に出ている。でもそれはしないといけないからであって、自分の意思で外出しようと思って行動に起こすのは、かなり久しぶりな気もした。
何を着ればいいんだっけと5分くらい真面目に悩む。ここのところ、部屋着と仕事用のシャツくらいしか着た記憶がない。
チェストの奥の奥から、学生の時に着ていた薄手のパーカーを引っ張り出して、Tシャツの上に羽織った。
おしゃれのかけらもない軽装。でも、これくらいの軽さで良いのだ。
あの頃、このくらいの気分で一歩を踏み出していたのだと思い出すためには。
しばらく履いていなかったクロックスを引っ掛ける。
毎日開けているはずの扉が、ほんの少しだけ重い。それでも力を込めて押し開ける。
一歩出た先にある熱を浴びて、涼しい部屋に慣れた全身が一斉に汗を噴き出した。
日の光も強く、目の奥にわずかな痛みを感じる。
思わず手をかざして空を見上げると、雲一つない一面の蒼が広がっていた。
ほんの少し残った鬱屈を飛ばすように、風が、肌を撫でてゆく。
「どこ行こうかね」
踏み出した一歩に、重さは無かった。
(夏) 白瀬直 @etna0624
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