第十一話

【10月28日 水曜日】


 文化祭を二日日後に控えた平日の放課後、僕はまた、図書室で秋月さんに勉強を教えてもらっていた。


 誰もいない図書室に秋月さんの明るい声が響く。


 週末に出掛けて以来、僕と秋月さんの関係性は一段と親密になったように思う。


 秋月さんは自分から話しかけてくれるようになったし、よく笑うようになった。


 その変化が、気を遣わない自然体の反応が、僕は嬉しかった。


 言葉だけではなく、態度や行動でも僕を認めてくれたみたいで、受け入れてくれたみたいで、信頼されていると実感したからだ。


 けれど、真実を知っている僕は、秋月さんが受け入れてくれたそれが醜い偽りだと知っている僕は、素直に喜べず、後ろめたさに駆り立てられていた。


 覚悟は決めた。


 秋月さんに今までの全てを懺悔し、偽りのない本物の繋がりを結びなおす覚悟だ。


 しかし、それを言い出すタイミングが中々見つけられずに、僕は焦っていた。




「……遊佐君? 大丈夫ですか?」


「え!? な、何が?」


「いえ、その……何か難しい顔をしていたので……」


「そ、そうかな? えっと……だ、大丈夫だよ、ありがとう」




 どう言いだそうかと考えていると、秋月さんにそう心配された。


 僕の嘘が悟られてしまったのかと、余計に心臓が飛び跳ねた。




 週末、秋月さんと遊園地に遊びに行った帰り道。


 僕は嘘を、告白は罰ゲームだったという事を、秋月さんに正直に打ち明ける覚悟を決めた。


 偽りを白状し、罪を詫び、もう一度関係を作り直すと決意した……はずなのに。


 二日経った今日、僕はまだ秋月さんにその真実を伝えられずにいた。


 昨日も一昨日も伝えられるチャンスはあったはずなのに。


 秋月さんに嫌われたらどうしよう、この関係性がなくなってしまったらどうしようと怖気づいて、結局言い出せずにしまっていた。


 言い出せずにいる時間が長くなるほど、今の状態のまま秋月さんと言葉を交わすほど、罪は重なり、罪悪感は重くなっていく。


 分かっているのに、理解しているのに、それでも、心は、体は、動き出せずにいた。




「お疲れのようですし、今日はお開きにしましょうか」


「あ、うん、そうだね」


「文化祭も近いですし、あんまり無理をするのも良くないですしね」


「あー文化祭……そっか……もうそんな時期か……忘れてた」




 秋月さんのその言葉で、僕は文化祭の存在を思い出した。


 元々、この罰ゲームの期間設定、秋月さんと仲良くしなければいけない期間は文化祭までの三週間だった。


 秋月さんと過ごす日々を“罰”だと思った事がなかったので、すっかり忘れてしまっていた。


 けれど、つまりはどちらにしろ、あと二日立てば、僕達のこの歪な関係性にも何らかの清算をつけなければならないという事になる。


 このまま何もしなければ、秋月さんと一緒にいる事を弓野達に不審がられる可能性だってある。


 そして、良からぬ事が起こる可能性。


 具体的に言えば、僕以外から秋月さんに罰ゲームの真実が伝わる可能性だってないわけじゃないんだ。


 それだけは、他人の口から僕の本当の気持ちが込められていない捻じ曲がった真実が明かされるのだけは嫌だった。


 秋月さんとの関係はもちろん、弓野達と折り合いをつける必要もある。


 そうしなければならない義務が、責任が僕にはあった。




「……あ、秋月さん」


「遊佐君」




 僕が重たい口を開くと、秋月さんも僕に言いたい事があったみたいで、僕と秋月さんの声が重なった。


 慌ててどうぞと秋月さんに手を差し伸べると、秋月さんは困ったように笑いながら、ペコリと一礼をして話し出した。




「遊佐君は文化祭の展示、誰かと見て回る予定とかあるんですか?」


「文化祭の展示? いや、ないけど……」


「そうなんですね……えっと……あ、あの、良かったら、私と一緒に見て回りませんか?」


「え!?」




 秋月さんのその質問に、僕は首を傾げながらNOと返事を返す。


 すると、秋月さんはまごつきながらそんな提案をしてきた。


 秋月さんの提案に、僕は二重の意味で驚いてしまう。




 文化祭の展示とは、各文化部の作品紹介の事だ。


 空き教室にそれぞれの作品が展示してあり、生徒は空き時間を使ってそれらの作品を鑑賞する事ができる。


 けれど、鑑賞できるからといって本当に鑑賞する生徒なんて存在せず、完全に置物と化している文化祭のスケジュール一つだった。


 秋月さんが自分から何かに誘ってくれた事にもびっくりしたけど、それ以上に文化祭の展示を見て回るのに誘われた事に驚いてしまった。


 ……何を……見て回るんだ……?


 そんな疑問が、頭の中を占めていた。




「え、えっと……ごめんなさい、私と回るなんて嫌ですよね……迷惑なら断ってもらっていいんです」




 僕の反応を見て、秋月さんは慌てて自分の発言を撤回しようとした。




「私はただ……面白みのない文化祭でも、遊佐君と一緒に見て回れたら楽しいのかなって思ってしまっただけなので……」




 けれど、その後の発言、秋月さんの口からポロっと零れ落ちた本音を聞いて、僕は思わず笑ってしまった。




「……嫌なんかじゃないよ。いいね、何か面白い物も見つかるかもしれないし、一緒に見て回ろう」


「え……いいんですか?」


「うん」




 笑うと同時に、一緒に見て回ると秋月さんに返事をした。


 秋月さんは困惑しながら、いいのかとまた僕に尋ねてくる。


 それに対して、僕はゆっくりと、優しく頷いた。




「えっと……あの……遊佐君、期末試験の国語のテストは大丈夫そうですか?」


「え? うーん……秋月さんに沢山教えてもらったから大丈夫だと思うけど……」




 受け入れてもらえた事によほど驚いたのか、それとも照れ隠しか、秋月さんはテンパりながら脈絡のない話をし始めた。


 そんな秋月さんに戸惑いながら、僕も返事をする。




「……あの、もしよかったら、遊佐君用にテストに出そうな所をまとめたノートを作ったので……使ってもらえませんか?」


「えっ!? そんなの作ってくれたの!?」


「はい……迷惑だったかもしれないですけど……」


「え、全然迷惑なんかじゃないよ! むしろ助かる!」


「そ、そうですか……」




 秋月さんの申し出に、僕は驚いた。


 僕が大げさにリアクションを返すと、秋月さんは胸を撫で下ろしながら息を吐き、はにかみながら言った。




「よかった……喜んでもらえて私も嬉しいです」




 秋月さんのその笑顔を見て、僕の心は決まってしまった。


 あぁ、ダメだ。


 僕にこんな笑顔を向けてくれる女の子に、僕をこんなに想ってくれる女の子に、僕をこんなに大切にしてくれる女の子に、嘘なんかついたままじゃダメだ。


 伝えよう、真実を。


 僕の口から、偽らずに、今までの全てを。


 そして、今の、本当の気持ちを、嘘じゃない言葉を伝えよう。


 秋月さんが大切だという気持ちを、これからも仲良くしていきたいという気持ちを伝えよう。


 心の底から、精一杯の誠意を込めてそう伝えたのなら。


 きっと、秋月さんも僕の気持ちに応えてくれると、そう思うから……




「秋月さん!」


「は、はい!」


「今日、この後時間ある!?」


「え、えっと……大丈夫ですけど……」


「じゃあ、ミセドに行こう!」


「ミ、ミセドですか……?」


「そう! ミセド! いい?」


「は、はい……」




 突然大声を上げてそう提案する僕に、秋月さんは驚き、戸惑っていた。


 それもそうだろう。


 おかしな奴だと思われたしてもおかしくはない。


 けれど、僕は気にしない。


 完全に吹っ切れていた。


 それくらいに、秋月さんを想う気持ちが心の中を占めていた。




 ×       ×        ×        ×      × 




 下駄箱に寄りかかりながら、秋月さんが戻ってくるのを待っていた。


 僕に渡すはずだったテスト対策用ノートを教室の机の中に忘れたらしく、取りに戻ってくれたらしい。


 明日でいいよと僕は言った。


 けれど、秋月さんは良くなかったみたいで、一日でも早く僕に見せて、分からないところを解説したいと意気込んで自分のクラスに戻っていった。


 そこまでしてくれなくてもいいのにと思ったけれど、その言葉とは裏腹に、自然と顔の表情は緩んでいた。




 大丈夫、秋月さんなら分かってくれる。




 大一番を前に、僕は心のどこかでそう確信を持っていた。


 秋月さんの行動が、秋月さんの言葉が、僕にそう思わせてくれた。


 秋月さんならきっと受け入れてくれるはず。


 今だって、僕のためにこんなにも尽くしてくれているんだ。


 だから、真実を告げたとしてもきっと許してくれるはず……




「よう、遊佐」




 だなんて余裕をかましていると、不意に、誰かが僕の名前を呼んだ。


 聞きなれた低い声。


 心臓が脈打ち、悪寒が背筋を襲った。


 僕は昔からそうだった。


 運が悪いと言うか、不幸体質と言うか。


 調子に乗ると決まって、希望を持つと決まって、必ず良くない事が起きる。




「今から帰んのか?」




 ゆっくりと後ろに振り返ると、そこには弓野がいた。


 弓野の後ろでは根本、大森の二人がじゃれ合っている。


 ゴクリと生唾を飲んだ。


 最悪のタイミングだと、心の中でそう思った。


 頼むから秋月さんと鉢合わずにこの場を去ってくれと、心の底から願った。




「いや、職員室によってから帰る。弓野達は?」


「俺らは帰るわ……そういや、今日も地縛霊と勉強してたのか?」


「う、うん……」




 帰ると、素直にそう言ってしまうと弓野達と一緒に帰るはめになってしまうので、咄嗟にそんなウソをつき、弓野達の興味関心を別の何かに移そうと質問を投げかけた。


 けれど、結局弓野は秋月さんに関する話題に触れ、僕は微妙な表情で頷き返した。




「お前、罰ゲームとは言え良くやるな。俺なら絶対に無理だわ」


「だよな、あんな根暗女、絶対に無理」


「たしかにw、遊佐、マジスゲーわ!w」




 すると、弓野達は苦笑いをしながら僕を憐れみ始めた。


 自分たちがそうしろと言い出したくせに、何を言っているんだコイツらはと呆れてしまう。


 それと同時に、お前らに秋月さんの何が分かる、秋月さんは根暗なんかじゃないと、そんな苛立ちも感じていた。


 けれど、その憤った気持ちを吐き出す事は決してしなかった。


 変に噛みついて、この場所に弓野達が留まる時間が長くなるのが嫌だったからだ。


 秋月さんと弓野達が鉢合わせになるのだけは、何としてでも避けたかった。




「週末も遊びに行ったみてーだし、遊佐、本当にソイツの事好きになっちまったんじゃねぇのか?」


「えっ!? マジ?」


「嘘だろ」




 弓野が続けてそう言うと、大森が驚き、根本が理解できないという反応を示した。


 そして僕自身も、弓野の言葉に混乱してしまっていた。




 ……僕が、秋月さんを異性として好いている?




 ……僕は、秋月さんが好きなのだろうか?


 いや、違う。


 たしかに、友達としては大切だと思っている。


 かけがえのない、心を許せる存在だと、そう思っている。


 それは確実だ。


 なら、異性としては?


 僕は、異性としての秋月さんをどう見ている?


 ……分からない。


 分からなかった。


 自分にとって秋月さんがそういう存在なのかどうかは、僕にはまだ分からなかった。


 というか、そういう存在として秋月さんの事を考える事が、僕には気恥ずかしくて無理だった。




「そ、そんなわけないじゃん……」


「ははは! だよな!」




 僕が否定すると、弓野が上機嫌で笑った。


 対称的に、根本と大森はつまらなそうにしている。


 僕はと言うと、少し憂鬱な気分になっていた。


 自分で言った言葉に対して、何故かショックを受けてしまっていたからだ。


 僕の返答は間違っていたのだろうか。


 いいや、間違っていたわけではないだろう。


 僕自身ですら答えが分かっていないんだ。


 それなら、そう答えるのが正解なはず。

 

 でも、なんでだろう。


 それを弓野に肯定されるのは、僕の秋月さんに対する気持ちを笑われるのは、とてつもなく嫌だった。


 はぁ……もう何でもいい。


 何でもいいから、三人とも早く帰ってくれ……




「地縛霊……秋月だっけ? ソイツに告白したのも罰ゲームで、嫌々だったもんな!」




 続けて弓野がそう言った。


 弓野の低い声が廊下に響き渡る。


 やめてくれと、そう思った。


 周りの迷惑になるのもそうだけど、一番はその真実を聞かれたくない人物が存在したから。


 もし、秋月さんに聞かれたらどうするつもり……




「えっ……」




 弓野達の後ろから、パサリと何かが地面に落ちる音が聞こえてきた。


 緑色のタイルが張られた廊下の地面を見る。


 地面には赤いノートが二冊、緑のタイルに映えるように落ちていた。

 

 落ちている二冊のノートから視線を上げていくと、そこには人影があった。


 見慣れた女子の制服、癖のある黒髪、大人しそうな顔筋。


 そこにいたのは、ノートを落としたのは、今、僕が一番そこにいてほしくなかった人物だった。


 そう、僕が罰ゲームで嘘の告白をした相手。




 秋月文乃だ。




「お!? 本人登場じゃんwウケるw」


「マジかよ! リアル地縛霊じゃん」


「あー……すまん、遊佐」




 弓野達が振り返り、笑いながらそう言った。


 けれど、弓野達の言葉は僕には届かなかった。


 ただ、頭の中で、秋月さんにどこまで聞かれていたのか、それだけを、その事だけを考えていた。


 秋月さんを見る。


 今にも泣きだしそうな顔をしている。




「あー……面倒臭いから、ネタばらししちゃうか」


「ちょ、やめ……」




 弓野が頭を掻きながら、気だるげそうにそう言った。


 弓野の言葉の意味を数秒遅れで理解して、僕は必死にそれを阻止しようとした。




「秋月さんだっけ? この前遊佐が告白したと思うんだけど、あれ、全部嘘なんだわ。罰ゲームで俺らがやらせたんよ」


「秋月さん、違っ……」




 弓野がヘラヘラとした態度で、秋月さんにそう言った。


 弁明しようと声を挙げたけれど、結局、僕はそれに続く言葉を紡ぐ事ができなかった。


 弓野が言っている事は間違いじゃないし、嘘でもない。


 偽りのない真実だ。


 だから、僕はそれ以上の言い訳をする事ができなかった。




 秋月さんを見る。


 秋月さんは弓野が言った言葉をすぐに理解したみたいで、涙目になった瞳を手で隠し、落としたノートを拾い上げ、弓野達に頭を下げて下駄箱に向かって走り出した。


 僕の横を通り過ぎる時、小さな声で「ごめんなさい」と秋月さんが言った。


 それに反応して、秋月さんの横顔を見る。


 頬に、涙が伝っていた。




 僕は、言葉を失った。


 秋月さんが悲しんでいる。


 そんな事は分かっていた。


 けれど、それを知っていてもなお、僕は秋月さんを引き留める事も、追いかける事もできなかった。


 それをする資格が、僕にはなかった。




 秋月さんが昇降口を出ていくと、弓野達は大きな声で笑いだした。




「弓野サイテーだな! 泣かしてやんの!」


「えぐ過ぎだろw」


「いや、まさか泣くとは思わなかったわ!」




 ヘラヘラと、興奮気味に話す弓野達。


 そんな三人に対して、僕は声を荒げた。




「どうして……どうしてそんなひどい事ができるんだよ!」





 誰もいない廊下に、僕の怒声が響く。


 大森と根本は驚いたような表情をしている。


 けれど、弓野だけは、冷めた視線でこちらを見下していた。




「は? 何キレてんだよ? 遊びだろ、遊び。それに、わざわざ言いにくい事を俺が言ってやったんだぞ? 逆に感謝してほしいくらいだわ」




 弓野のその一言で、僕は一瞬にして頭に血が上った。


 弓野に飛びつき、弓野の胸ぐらを掴みながら叫んだ。




「そういう事じゃない! あんな風に言ったら秋月さんが傷つくと思わないのか? 悲しむと思わないのか?」


「何だよお前!」


「どうして人に優しくできないんだよ! どうして相手を想ってあげられないんだよ! 秋月さんはお前らのおもちゃなんかじゃないのに! どうしてそんな事も分からないんだよ!」


「離せ!」




 弓野に肩を掴まれて、思いっきり突き飛ばされた。


 そのまま下駄箱に激突し、僕はその場に倒れこむ。


 背中を強打し、上手く息が吸えなくなった。


 地面の近くから、僕を見下す弓野と、弓野を気遣う根本と大森の姿が目に入る。




「お前馬鹿じゃねぇのか! 根暗者とバカで仲良く乳繰り合ってろ! 一生俺に近づくんじゃねぇぞ気持ちわりぃ!」




 弓野はそう言うと、イライラしながらシャツを直し、下駄箱で靴を履き替えて、勢いよく昇降口のドアを閉めて出ていった。


 根本と大森は、横たわる僕を嘲笑うかのように軽蔑して、そのまま弓野の後を追っていった。




 昇降口に、冬の、寂しげな夕日の光が差し込む。


 眩しくて、顔を制服の袖で覆った。


 袖口が、目から出た良く分からない液体で湿る。


 情けない声が、放課後の廊下に響いた。




 その日、僕は全てを失った。




 今まで努力して、我慢して作り上げた、維持してきた“普通”という名の青春。


 手に入るかもしれなかった望み、渇望していた理想の“普通”。


 自分の中にあったはずの“普通”という価値観。




 その全てを、僕は、大切な人との繋がりと一緒に失くしてしまった。

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