夏の日のお参り
街々かえる
夏の日のお参り
「久しぶり」
突然押しかけてきたのは大学時代の同期だった。
外は朝だというのに日差しが強い。
互いの呼吸の音もかき消すほど、蝉の声がうるさかった。
白井友和は大学時代に同じ研究室だった友人だ。そこそこつるんでいた方だと思うし、困った時は物を貸し合う程度の付き合いはしていた。ただ、大学を出てからはさっぱり連絡を取らなくなってしまったが。
「……あー、よく俺がここにいるって知ってたな」
「風の噂でね」
俺は最近こちらに越して来た。他ならぬ仕事のためだ。でなければこんなド田舎にくるはずがない。
「お前はどうしてこんなとこにいるんだよ」
「実は母さんの実家がこっちの方でね、大学出てからここに住んでるんだ」
白井と会うのは大学卒業以来で、もうそれから三年ほど経っている。彼はその時に比べ、雰囲気が少し落ち着いたように見えた。
「今時間あるかい?」
「はあ、あるけど」
「そう、それはよかった! それで、だ」
そう言って白井は手をパンと叩く。奴がこういう仕草をする時は、決まって俺にいい話は続かない。
「君、僕に借金してるだろう」
「……そうだったか?」
誤魔化してはみたものの、確かに思い出した。俺はこいつに数万程ツケがあったはずだ。なるほど、借金の取り立てに来たわけか。
「悪いけど、すぐには用意できないぜ」
「そう言うと思ったよ。……君、車は持ってるかい?」
もちろん持っている、と答えると奴は満面の笑みを浮かべる。嫌な予感がする。
「少し行きたいところがあるんだ。付き合ってくれないか? 君、今、暇なんだろ」
相変わらず、こいつは小賢しい。俺には頷くしか選択肢がなかった。
◇
「そうだな、最初に東の方に行ってくれないか」
ちゃっかり助手席に座った白井は話す。
「最初にって……行きたいところは一箇所じゃないのか」
「まあまあ、今日付き合ってくれたら借金は無しにするから」
「当たり前だ」
隣に座った白井はニコニコと胡散臭い笑顔を浮かべる。こいつは前からこうだ。腹の底で何を考えてるかわかりゃしない。
「さあ、出発進行だ」
白井が高らかに宣言した。
◇
指定された場所は普通のアパートだった。
ここに誰か会いたい人でも居るのだろうか。俺は車から降り、アパートを眺めていたが、白井は一向に車から降りてこない。
「……おい、ここに用があるんだろ」
そう声をかけるが、白井は助手席から動く様子がない。
「悪いんだけどさ、僕の代わりに行って来てくれないか」
「はあ? 何でそうなる」
「そうだな……恥ずかしいから、かな?」
「どういうことだよ」
「ともかく、これを今から言う部屋の人に渡してきてくれよ」
そう言って白井が差し出したのは一枚の白いレースのハンカチだった。
「白井……?」
チャイムを鳴らすと出てきたのは若い女性だった。大学生くらいじゃないだろうか。
ハンカチを渡すとしばらく首を捻っていたが、少しして、ああ、と手を叩く。
「傘の人ですね!」
そう言うと彼女はハンカチを見つめつつ話してくれる。
「ティッシュ配りをしてたんですよね、私」
その時彼女は、街中でアルバイトをしていたと言う。
「突然雨が降ってきて……通り雨みたいなものだったんですけどね。傘なんて持ってないし、ティッシュを濡らすわけにはいかないし、でも近くに雨宿りするところもないし」
ティッシュの入ったカゴを抱え込んで、雨が通り過ぎるまで待とうとしていたのだという。
「その時、傘を差しかけてくれた人がいて」
それが白井だったのだ。
「傘は一本だから、ティッシュのカゴの方を隠すとその人が濡れてしまって……。雨が上がる頃にはびしょびしょでした。それで、ハンカチを貸してあげたんです」
彼女はそこで、ふふっ、と笑う。
「それにしても、随分前の話ですね、それ。一年くらい前じゃないですか」
彼女は困ったように、でも嬉しそうに笑っていた。
◇
車に戻ると白井は先程と全く同じ格好で助手席に座っていた。体が痛くならないのだろうか。
どうだった? と聞いてくる奴に彼女の様子を聞かせれば、それは良かった、と安堵の表情を見せる。
「もっと早く返しに行けばよかったんじゃないか?」
「……ちょうどいい足がなかったんだ。本当はすぐにでも来たかったんだけどね」
「なるほど、俺はちょうどいい足ってことか」
「はは、気を悪くしたならごめんよ。感謝してるよ」
白井はそう言うが、ここは公共交通機関を使えば、車でなくとも来られる場所だ。……まあ、こいつにも何か事情があったのだろう。
「それで、次はどちらに? お客様」
「はは、そうだね。じゃあ、次は南に」
◇
車を走らせつつ、ふと生じた疑問を俺は何気なく口にする。
「そういや、よく住所を知ってたな」
「え?」
「さっきの彼女のことだよ」
たかだか道端で会った程度、連絡先を交換したわけではないだろう。すると白井は少し考えた後、口を開いた。
「……実は、僕、オーラが見えるんだよね」
「……はあ?」
俺が思わず聞き返すと、奴はそれはとても楽しそうににやにやと笑いながら返してくる。
「その人の持ち物から、自分の持ち主はこっちだよって、ふわふわと立ち上るんだよ……煙のようにね」
「……お得意の冗談ならよそでやれよな」
「あはは、ばれた?」
白井はいまだににやにやとしている。馬鹿らしくて、何を聞きたかったのかも忘れてしまった。
こうして奴とくだらないことを話していると、大学時代を思い出す。あの時が一番楽しかったと、今なら思う。
「そういえば、君はどうしてこっちに? 確か東京に就職したんじゃなかったっけ?」
ふと奴が発した疑問に俺は少し戸惑った。
「……まあ、俺にも色々あるんだ」
「そうかい。まあ、あまり詮索はしないけどね」
別にこいつに対して言葉を濁す必要はないのにな、と俺は次の瞬間に思っている。白井はそれを話しても、笑うような奴じゃない。
だが、俺はきっと話すことはないだろう。上司に逆らって地方に飛ばされたなんて話は、面白くもないのだから。
◇
到着したのは少し高級そうなマンションだ。
これを渡してくれないか、そう言って奴が差し出したのはピンクのド派手なキーホルダーのついた鍵だった。どうやら部屋の鍵のようだ。
「またお前は行かないのか」
白井は助手席から動く様子がない。
「恥ずかしいのか?」
「いや、彼女とはちょっと会えないんだ」
悪いね、と、白井は言うと顔をしかめた。
「友和はどこにいるの⁉」
玄関から飛び出してきた女性に俺は襟元を掴まれ、向かいの壁に押しつけられる。突然のことで何が起こったか理解できない。さっきインターホンを押した時は普通だっただろ、あんた。
「近くにいることは分かってんのよ。私に何の断りもなく消えたあの男は、どこにいるの!」
「……ちょっと待て。俺は何も聞かされてないんだ。悪いがあんたのことも全く知らない」
そう口早に言えば、彼女は俺の襟元から手を離す。女性は化粧が濃く、二十代後半ほどに見えた。彼女は少し息を整えると話し始める。
「あの男はね、私に散々世話になっておきながら、半年前、突然。……いなくなったのよ」
聞けば彼女は白井の会社の同僚で、白井と仕事を共にすることも多かったのだという。
「自然とそういう関係にもなるじゃない」
「いや、それは知らないが」
彼女はため息をつくと感情を吐き出すように話し始める。
「彼はね、急に会社を辞めたのよ。それ以来音沙汰なし。……信じられない」
「付き合ってるなら連絡すればよかったじゃないか」
そう言うと彼女は訝しげな顔をする。
「……? 私と彼は付き合ってなんかないわよ」
「……はあ?」
「別に恋人とかではなかったわ。彼がそういうことに無頓着なのは分かってたし。……そうね、彼と私はずっと協力関係にあったのよ」
「……はあ」
もう、よく分からなかった。白井もそうだし、彼女の考えてることもよく分からない。だったら何をそんなに怒っているんだ。
「突然いなくなったのよ? 私に何の断りもなく。教えてもらった連絡先に電話もかけたわ。でも繋がらない……。そんなのは聞いてないわ」
「何か事情があったんだろ」
「事情ってなによ」
彼女はふと考え込むとこちらを見つめた。
「ねえ、貴方がこれを渡してきたってことは、友和はもう私と会う気は無いってことね」
「あー……知らねえよ。俺はただ頼まれただけだ」
「誰に頼まれたの?」
「……あー」
「友和ね」
女はこういうところで察しがいい。いや、俺が誤魔化すのが下手なだけかもしれないが。
「……わかったわよ。未練がましいのはみっともないし、彼がそのつもりなら、私も手をひく。彼のことは、もう忘れる。……だから貴方も、もう私の前に現れないでね」
そう言って俺に睨みをきかせた後、彼女はバタン、と音を立てて戸を閉めた。
なんだか、どっと疲れてしまった。
車に戻るところで、白井が窓の向こうからこちらを伺っているのが見えた。
「お前……」
「ほんとごめん」
助手席に座った奴は申し訳なさそうに手を合わせた。
◇
今度は西に行ってくれ、という白井の言葉の通り、俺は車を走らせる。話題は自然と先程の女性に移る。
「お前さぁ、会いに行ってやれよ」
「やだよ。絶対怒られるじゃないか」
「そんな理由かよ。……つか、会社辞めてたのか」
「ああ……色々と、あってね。会社に迷惑はかけられないと思って」
こいつにもやはり、なにかしらの事情があるらしい。まあ、無用な詮索はしないが。
「君、まだタバコはやってるのかい」
横を見ると白井が灰皿を開けて中身を確認している。灰皿の中は少し灰が残っている程度だ。
「今は禁煙中だ……誰かさんのせいでな」
いつだったか、持っていたそこそこ値の張るライターを白井に奪われてから、タバコを吸っていない。新しいライターを買ってまで、それを吸う気にはならなかった。
「それが正解だよ。わざわざ死に近づく必要はない」
「ニコチン中毒者は無理にやめると体に悪いらしいぜ」
「君は平気そうだし、いいじゃないか」
すんなりやめられたのは、結局、タバコが雰囲気だけの道具だったからだ。別にあれが美味しいとは一度も思ったことがなかった。
「命は大事にすべきだよ」
そんな話だったか? 今。
◇
今度の家は古びた一軒家だった。
「今度は降りてくれよ」
「言われなくてもそのつもりさ」
いやに素直な白井の視線の先を追うと、そこには人がいた。背の曲がった老人だ。白井は車から降りると彼女の方に歩いていく。庭の花に水をやっていた彼女は、近づいてくる奴に気がつくと目を丸くした。
「久しぶり、おばあちゃん」
「……あれまあ……ともちゃん?」
「はは、驚いた?」
「驚いたなんてもんでねえだよ、ともちゃん、てっきり死んだと思うたに」
どうやら、旧知の間柄らしい。白井と昔話に花を咲かせている。部外者は立ち入らないほうがいいだろう。そう思い、車に戻っているぞ、と声をかければ、白井はありがとう、と笑った。
車の中から庭先で話す彼らの姿が見えた。話の内容は聞こえなかったが、和やかに談笑しているのが分かる。しかし突然、老婆の目から涙がこぼれ落ちた。白井はそれに気づいているのかいないのか、先程と変わらず笑顔で話している。俺は訳もわからず、ばあさんがぼろぼろと涙をこぼすのをただ見つめていた。
しばらくして、ばあさんが何かを思い出したように家の中へと入っていった。それを見送った白井がこちらへ戻ってくる。
「行こうか」
「……今、何か持ってきてくれるんじゃないのか? 待ってた方がいいだろ」
あの様子は実家の母がお茶を出してくれる時の仕草に似ていた。
「ううん、いいんだよ。ここにいるとずっと居たくなっちゃうからね。踏ん切りがつかなくなる前に行かないと」
そう言う白井はすでに助手席に座っている。その顔はいつになく悲しげだった。
「……そうか」
俺は車のエンジンをかけた。
次が最後だ、という奴の指示に従って北へと車を走らせる。少ししたところで俺は白井に声をかけた。
「さっきのは……お前のばあちゃんか?」
「……ああ。血は繋がってないけどね。子供の頃に住んでた家の、近所のおばあちゃんだよ」
奴は窓の外に視線を向けたまま答える。
「おじいちゃんもおばあちゃんも早死にでさ、僕のおばあちゃん代わりになってくれてたんだ」
本当に、いいひとなんだ。窓の方を向いて発したその呟きはどこか震えていて、俺はそれにただ、そうか、とだけ返した。
◇
「そろそろ終点かな」
何気なく発した奴の言葉に俺は、ああ、と適当に返事をする。
最後だと奴が指定した場所は俺の家のすぐ近くだった。今度はどんな奴がいるんだ、と聞けば、白井の今いる所だという。奴の実家は意外と近所だったようだ。
「君がいてくれて本当によかったよ」
「へえへえ、足としての役割は果たせましたかね」
「それだけじゃないさ、僕はずっと前から君に感謝してるよ」
いやに真面目な口調で言うので俺は奴の顔をうかがう。それは冗談を言っているような顔ではなかった。
「君のその意思の強いところとか、行動力のあるところとか、僕はとても頼もしかったよ」
「……急に何言ってんだよ、お前」
友人のらしくない言動に俺は戸惑っていた。奴がまるで今生の別れのように言うものだから。
「君と友達になれて良かった」
俺はまともに返事を返すことができなかった。
「あ、ここに停めてくれるかい」
言われて車を停めた駐車場は、明らかに一軒家のそれではない。場所を間違えてるんじゃないか、と俺が問えば、白井は目の前に手を伸ばす。
「いいや、ここだよ」
そう言って示したその先には、墓地が見えた。
「おい、お前、何言って……」
振り向いた時、すでに助手席には誰もいなかった。
シートの上には、俺が昔持っていたライターだけが、落ちていた。
◇
車を降り、墓地に入る。墓石のひとつひとつを見て回り、そして見つけてしまった。
『白井家』
「まさか、な……」
その時、声をかけられた。
「あの、もしかして、兄のお友達ですか」
そこには喪服を着た若い女性が花束を抱え、立っていた。
「私は白井友和の妹です」
静かに語る彼女は抱えていた花束を二つに分け、墓石の脇に差す。
「去年の冬……癌でした。発覚した時にはもう、もって数ヶ月の命だろうって言われたそうなんです。会社を辞めて、そのあとすぐに病状が悪化して……。だから、やり残したことたくさんあっただろうなって思うんです」
手早く墓を掃除していく様子は、若い女性のものとは思えなかった。あまりに手馴れていて、大人びていた。
彼女は一通り掃除を終えると、墓石の方を見つめる。
「人っていつ死ぬか分からないんだなって……いつ死んでもおかしくないんだなって。……父や母の件で分かっていたはずなんですけど……、改めて、思ったんです」
彼女の口調には、強い意思を感じた。それは、俺に言っているわけではなく、自分自身に言い聞かせているようにも感じた。
「葬儀は近親者のみで行いました。それが、兄の意思でしたので……。両親も病気で亡くしていますから、私の負担にならないようにと思っていたんでしょう。……本当に、そういうところはマメですよね」
ふと、彼女は寂しげに笑う。少し俯いた彼女には、年相応の幼さが見えた。そうして、俺の方に真面目な顔をして向き直る。
「皆さんにご連絡が遅くなって、すみませんでした」
そうやって頭を下げた後、もう一度上げた彼女の顔には、これから何が来ても乗り越えて見せるだろう、そう思わせる、強さがあった。
◇
彼女が水を汲みに行っているその間、俺は墓石の前でただ突っ立っていた。考えていたのだ。
なぜ死んだ白井が俺のところへ来たのか、よく分からなかった。俺と白井は大学ではそこそこ仲が良かった程度の関係なのだ。思うに、奴は幽霊になって、自分一人で移動することができなかったのだろう。それで、俺に運転手を頼んだ。
やはり俺が都合よくそこに居たから利用した、という風に考えるのが妥当だ。俺がここに越して来たのは偶然だし、白井の実家がここだったのも偶然だ。
その程度のことだったのだ。
奴がもうこの世にいないことを知った時、どうしようもない虚しさが込み上げてきた。なんだ、あいつはもうここにはいないのか、もう会えないのか、と。
人の死とは、そういうものなのだろう。あまりにあっけない。生きている時に、もっと話しておけばよかった。死に後悔はつきまとう。そうかもしれないが。
俺もお前に感謝してたんだぜ、これでも。先程まで会話していたはずの奴の顔が、今はもう思い出せない。思い出せるのは大学の頃のあいつの顔だ。それでも、さっきあいつが言った言葉だけが、俺の頭に残っていた。
『君と友達になれて良かった』
手に持っていたライターに火をつける。タバコを取り出そうとして、持っていないのに気がついた。線香入れから火のついていないものを取り出して、火をつける。墓石の前に置いてやると少しそれらしくなった。
線香から細く煙がたなびいている。強い香りが辺りを包む。蝉の声が遠くで響いている。俺は静かに手を合わせた。
終わり
夏の日のお参り 街々かえる @matimati-kaeru
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