十二日目 幻術士って悪役っぽいよね

「聞こえますかレイジさん」

(聞こえるよリラ。カルゲノの近くは魔物だらけになってるけど、何か知ってるかな?)

「魔物だらけ……ですか。ごめんなさい、わかりません。私は塔の頂上の部屋に閉じ込められているので……」

塔の上か……。なんとなく地下牢のような場所を想像してたけど、それよりも厄介そうだ。

(順調に行ければあと三日でカルゲノに着くと思う。塔は見ればわかる位置にあるのかな?)

具体的な場所を確認しておいた方がいいよね。

「窓から見る限り、カルゲノ城には四本の塔があります。私が閉じ込められているのは東の塔です」

(わかった、東の塔だね、状況は変わらないかな?)

「伯爵が焦っている様子です。まだ召喚術は完成しないのかと沢山鞭を入れられました」

鞭で打たれるリラを想像して心が傷んだ。

「伯爵が関わっているのはカイタリアケイアスという名前の悪魔です。実はもう、私はその悪魔を呼び出す糸口を掴んでしまっています……」

それで鞭を打たれてるわけか……。

「大丈夫です、鞭で打たれることには慣れてますから。伯爵は召喚術の使える私を貴重品だと考えているようなので、今のところはまだ拷問される様子はありません」

拷問……。急いだ方が良さそうだ。

「いざとなったら〈魂燃たましいもやし〉で命を絶ちます。悪魔の召喚だけは阻止するので安心してください」

そう言って微笑んだ。そんなのいけない。

(必ず助けにいく。リラが無事でいられるよう、シャナラーラ女神に祈るよ)

「ありがとうございます。私もレイジさんの無事を女神に祈ります」


 目が覚めると、セラ姉と抱き合って寝ていることに気付いた。顔が一気に熱くなる。姉と弟ということになってるけど、女性とひとつの布団で寝て、しかもしっかりと抱き合っていた……。刺激的すぎる。セラ姉を起こさないように、そっと離れてベッドから降りた。心臓がばくばくいっている。深呼吸をして気持ちを落ち着けてると、セラ姉が起きた。レイ君おはようと優しく声を掛けてくれる。おはようセラ姉と挨拶を返したけど、声が上ずってしまった。

「弟と一緒に寝るって、すごく幸せだね。はぁ、レイ君の匂い」

そう言って布団の匂いを嗅ぐ姿を見た途端にドキドキが治まった。ついさっきまで甘酸っぱい気持ちに満たされていたはずなのに、今はちょっとした恐怖心を抱いている自分がいる。人の心って、けっこう繊細なんだな……。

セラ姉が髪をとかすのを待って廊下に出ると、エトナさんと行き合った。おはよーと元気に挨拶をしてくれたエトナさんだったけど、俺に続いてセラ姉が出てきたのを見て真顔になった。いや、これは、その……。

「辛くなったら相談してね」

あ、変な誤解はしてなさそう。良かった。


 食堂に集まって干し肉スープと堅パンを食べる。ルソルさんに〈魂燃やし〉という魔術を知っているか尋ねる。エトナさんがぎょっとした顔をする。ルソルさんは難しい顔をして、はいと答えた。

「自分の魂に残された力をすべて魔力に変換する生命術です。簡単に言えば寿命をすべて費やして膨大な魔力を発生させる魔術です。使用者は死にます」

「リラはそれを使って自害してでも悪魔の召喚はしないと言っていました」

そう言うと、ルソルさんは少し考え込んだ。そして「レイジ様はそのリラという少女と会話が可能なのですよね?」と確認してくる。はいと答えた。

「でしたら〈魂燃やし〉は使ってはいけないと伝えてください。発生した魔力を利用して悪魔が自力で顕現する可能性も無いとは言い切れません」

そんな厄介な可能性があるのか……。

「心配するなと伝えろ、悪魔が召喚されても、この私が倒してみせる」

カダーシャさんが心強いことを言う。でも、悪魔の強さがわからないので信じていいかわからない。

「あっと、そうだ、忘れるところでした。伯爵が召喚しようとしている悪魔の名前がわかってるそうです。ええと……カイタリ……なんだったっけ、えっと……」

「カイタリアケイアスですか?」

「たしかそんな名前です、長くて覚えきれませんでした」

ちょっとでも覚えてた自分を褒めたい。

「カイタリアケイアスは第四戦役で英雄ヴァリスを討った狡猾な悪魔です。三千年ほど前にも地上に姿を現し、当時の魔族の都ケイルンガスを廃墟に変えたと言われています」

クレイアさんが興味津々な様子で話に加わる。

群青ぐんじょうのカイタリアケイアスですか。呪術で人を操り配下にするのを好むとか。英雄ヴァリスも操られた盟友テオルによって追い詰められたと伝説に語られています」

そう言って、くいっと眼鏡を上げる。

「わざわざそんな手を使うということは自身はそれほど強くないな」

カダーシャさんはあくまで強気だ。

「どうでしょうか、悪魔の力は未知数です。召喚が行われる前に少女を救出できるよう女神に祈りましょう」

悪魔は最終的に神々が地獄に封印したって前にルソルさんが言っていたのを思い出す。わざわざ隔離したのはどうしてだろう? もしかして不死身?

「都を廃墟に変えるぐらいなら、もし勝てるとしても被害甚大って感じだね。召喚されちゃったら私は逃げるからよろしく」

エトナさんの言うとおり、召喚されるだけで大変なことになりそうだ。

「召喚に成功されてしまえばもはや我々だけでどうにかできる状況ではありません。速やかに周辺の寺院と諸侯に事態を伝えられるよう準備しておいた方がいいでしょう」

そうだよね、六人でなんとかなるわけないよね。

「想定済みです。ナクアテン寺院は私が狼煙を上げればそれを実行します」

あれ? クレイアさんにそんな準備する時間あったっけ?

「……旅の目的までは託宣に無かったのでは?」

「事実を明かすか試したまでです」

「やだねー、腹の探り合いとか。人のこと言えないけどさー」

神官たちの会話に入っていけない。俺とセラ姉は黙々と食事を続ける。

「ところで、レイジに個人的に聞きたいことがあるんだけど、ちょっといい?」

エトナさんが俺に? ちょっと身構えてしまう。

「なんですか?」

「ちょっと、別室でよろしく」

そう言って食堂を出ていったので慌てて追いかける。なんだろう、どの件についてだろう……。エトナさんを追いかけて空き部屋に入る。


 さて。エトナさんはわざとらしくそう言うと、気軽な雰囲気で尋ねてきた。

「ルソルさんから、この世の真実的な話、聞いてる?」

「人族と魔族が戦い続けないといけないという話ですか?」

あれ? 思ってた話と違う。

「そう、それ、でね、今回の悪魔の件だけど、神々の中の誰かが人族の社会に混乱を起こして魔族に反撃の糸口を握らせようとしてるんじゃないかなーと思うわけよ」

思わず絶句してしまう。神々ってもっと善良な存在じゃないの?

「クレイアはシャナラーラ女神を疑ってるみたいだけど、そこんとこどうなのか、女神の使者に聞いてみたいなと思って」

「女神はリラを助けるように俺に言いました。……そんなに熱心な雰囲気じゃありませんでしたけど。でも、悪魔が召喚されることが望みなら、俺に協力してくれなかったと思います」

ふぅんと言うエトナさん。

「協力って具体的に何してくれたの?」

「言葉が通じるようにしてくれましたし、野垂れ死なないよう寺院に転送してくれて、シャナラーラの神官たちに託宣も下してくれました」

「わぁ、至れり尽くせりじゃない。シャナラーラ女神は阻止したい側ね。少なくともそういう姿勢は見せてるわけだ。わかった、ありがとう」

……待てよ、俺が異世界から来たってばらしちゃったようなものだよね、今の。まずい、ルソルさんは他の神官に言ってはいけないって……。

「あぁ、異世界から召喚されたのがバレたと思って焦ってる? エトナさんを甘く見ないことね、そんなのとっくにお見通しだから。まっ、今ので確信を得たんだけどさ」

やっぱり油断ならないな、この人。

「気にしないで、私はルソルさんの邪魔しないから。ここは恩を売っといた方がお得な場面。私は利に聡い女なのよ」

ウィンクまでしてそんなことを言う。エトナさんはルソルさんの言う、事件解決後について、予測がついてるってことか。一瞬、教えてもらおうかと思ったけど、ルソルさんが教えてくれるのを待った方がいいよね。うん。

「レイジ、キミは素直で真面目だね。セラエナが入れ込むのもわかるわ」

褒められてるんだよね? 不意にエトナさんが真面目な顔をする。

「ここからが正念場だけど、その後も頑張ってね」

そう言って食堂に戻っていった。ルソルさんといいエトナさんといい、その後って何なんだろう。



 セージさんに見送られてイルセヤロカを出発する。宿場町が見えなくなってすぐに、さっそくラゴが襲いかかってきた。カダーシャさんが俺に目配せする。新しく習得した幻術を使えってことだと思う。俺は頷いて魔力をラゴの頭に送り込んだ。カダーシャさんはラゴの拳を華麗に避けている。今かけようとしているのは〈恐怖の喚起〉。成功すればラゴは動きを止めるか逃げ出すはずだ。術式展開、起動! ……おかしい、術式は合ってるはずなのにラゴの攻撃が止まらない。もう一度、念のため術式を使わずすべての手順を時間を掛けて丁寧に仕上げる。それでも効果が無い。

「〈恐怖の喚起〉が効きません!」

カダーシャさんは、わかったと言うと、斧に炎をまとわせ、ラゴの腹部を切り裂いた。魔物はガシャンと倒れて動かなくなる。

「レイジさん。〈恐怖の喚起〉が効かないと言いましたか」

クレイアさんが確認してくる。

「はい、時間を掛けて二度試しましたが失敗しました」

「術式が間違っている可能性は?」

「……あります。初めて試すので」

クレイアさんが眼鏡をくいっと上げた。

「私の仮説では魔物は恐怖をはじめとした感情を持っていません。ですがこの予測が正しいか、自分で確かめる術はありませんでした。レイジさん、あなたの幻術が正しく作用しているのか、確認させてください」

確認って言われても……。俺がどうしたらいいのかまごついていると、クレイアさんはとんでもないことを言い出した。

「早くしてください。私に〈恐怖の喚起〉をどうぞ」

そんな、トラウマ級の恐怖を与える幻術のはずだけど……。

「配慮は無用です。さあ!」

ルソルさんに視線を向けると、難しい顔をしながらも頷いた。仕方ない。クレイアさんの頭に魔力を送り込む。クレイアさんが想像しうる最も恐ろしいイメージを引き出す。

「うっ……うぁ……ああああああぁ!!」

クレイアさんが虚空を見つめたまま絶叫して膝をついた。勢いで眼鏡が転がり落ちる。慌てて幻術を解除すると、我に返ったクレイアさんが眼鏡を拾って何事も無かったように立ち上がる。眼鏡を掛けてくいっと位置を直した。少し涙がにじんでいる。

「これで確認できました。魔物に感情はありません。私の研究は先に進むことができます」

「だ、大丈夫でしたか?」

他のみんなも心配顔だ。カダーシャさん以外。

「問題ありません。ご協力感謝します。さあ、行きましょう。新種が待っています」

エトナさんなんて、おろおろしてる。

「本当に大丈夫? 少し休まなくてもいい? 水飲む?」

「無用です。そんなことより新種の確認を済ませましょう」

目的変わってない!?


 ……それにしてもこんなにクールなクレイアさんが、一体何を見たらあんなに取り乱すんだろう。怖いもの見たさって言葉があるけど、あの姿を見てしまったら、自分に使って試す気にはなれない。というか、〈恐怖の喚起〉ってすごすぎないかな、これだけ使えればもう誰にも負けないんじゃ……。あれ? 逆に敵から使われたら終わりじゃない?

「ルソルさん、もし敵から幻術を使われたらどうすればいいんですか?」

「幻術への対策ですか。三種類の方法があります」

あれ? 意外とあった。

「ひとつめが破術の使用です。〈幻術破り〉や〈精神保護〉、〈感覚遮断〉などを使うことで、幻術を無効化できます」

そんなピンポイントな対策があったのか……。破術が使える相手とは相性最悪ってことだね、覚えておこう。

「ふたつめは魔力による防護です。魔術に変換されていない魔力同士は互いに干渉して打ち消し合います。例えば〈聴覚の撹乱〉が来ることがわかっていれば、耳に魔力を集めておけばいいのです」

「そんなことができたんですね……」

「魔物は魔術を使えないので関係ありませんが、人間相手に戦う必要が生じた場合は非常に重要です」

重要すぎる……。

「カルゲノに着いたら人を相手にすることになるので、そろそろお教えしようと思っていたところでした」

要は生のままの魔力をぶつけ合うってことかな。魔覚が鋭い俺は有利かもしれない。

「最後の方法ですが――」

「気合いだ」

カダーシャさんが口を挟む。こういう話に茶々を入れるなんて珍しい。

「……精神力で打ち克つという、非常に難しいものです」

本当に気合いだった……。

「そうそう成功しませんが、人間、追い詰められると信じがたい力を発揮することがあります。幻術をかけることに成功しても油断は禁物ですよ」

火事場の馬鹿力っていうやつか。そういえば漫画でもよく悪役の幻術とかを主人公が気合いで振り払ったりするよね。……俺が悪役側のポジションだけど。

「どうしたのレイ君? なんだか悲しそうな顔してるけど」

「幻術士って悪役っぽいなあと思って」

さっきのクレイアさんの恐怖に満ちた顔を思い出す。別にヒーローになりたいわけじゃないけど、ちょっとショック。

「レイ君は正義の味方だよ。囚われの女の子を助けに行くんだもの」

「そっか……。そうだよね。ありがとうセラ姉、ちょっと元気出てきた」

そうだった、幻術は手段。目的はリラを助けることだった! 変なこと悩んでないで、前に進まなきゃ。



 結局、昨日の夜に覚えたふたつの中等幻術は魔物相手には役に立たない。襲ってくるラゴはカダーシャさんに任せてどんどん進んでいった。そして――

「これが新種!」

クレイアさんの顔が少し赤い。きっと新種の発見っていう学術的にすごい出来事に興奮してるんだと思う。

「マルトヴァの古代語で巨人を意味するベルギアと名付けます!」

名前が無いと呼びにくいのは確かだけど、そんな勝手に名付けていいものなのかな。

「カダーシャさん! どのような行動をするか観察しましょう! 挑発しながら攻撃を避け続けてください!」

「いいだろう、私もこいつの強さを見極めてみたい」

ベルギアは直立すると俺の四倍ぐらい背の高いゴリラみたいな魔物だった。腕がやけに太くて長い。人型なのに四足歩行していた。腕を振り回したり、叩き付けたり、かなり激しい攻撃を繰り出してる。間違いなくラゴより強いと思う。カダーシャさんはしっかり避けてるけど、攻撃の速度が今まで見たどの魔物より速い。

「セージさんは硬い奴と呼んでいました。カダーシャさん、腕を斬ってみてください」

「任せろ」

青銅の斧が燃え上がり、横に一閃、装甲が切り裂かれた。ベルギアは金属が擦れあうような雄叫びをあげる。カダーシャさんが心底面白そうな声で、ほう、と言った。よく見えないけど、装甲が分厚くて斬撃が肉まで届かなかったみたいだ。

「硬いとはこういうことでしたか。腕以外もよろしくお願いします。レイジさん、補助を」

「え、あ、はい!」

突然振られて驚いた。ベルギアに〈眩暈〉を試みる。成功したみたいだ、暴れまわるベルギアはバランスを崩して横転。すかさずカダーシャさんが足に斬りつける。続いて背中、最後に頭。脳天をまっぷたつにされたベルギアはさすがに動かなくなった。死体の検分を始めるクレイアさんとルソルさん。あ、ルソルさんも興味津々だったのか。

「クレイアさん、見てください、発達した腕と違い、足はラゴとほとんど変わりありません」

「そのようです。観察した限りでは太く発達した腕と、瘤のように盛り上がった背中が特別に装甲が厚いようです」

セラ姉とカダーシャさんもふたりの指摘した点を見て回る。エトナさんは興味無さそうだ。

「正面から挑むには可動域の広い長い腕が邪魔で腹部や頭部を狙うのが難しいでしょうね」

「後ろに回り込んでかかとを狙うのが有効と見ました」

「同意見です。一人で戦うのは危険ですね」

なんだか生き生きとしてるなあ。

「私なら攻撃の隙に正面から懐に潜り込む」

「うーん、私は奥の手を使わないと一人じゃ無理かも」

戦士の二人も、どう戦うかを考えてるみたいだ。もし俺が一人の時に出会ったら……〈視覚の封印〉をして逃げるのがいいかな。

「見てください、ラゴ同様に絶縁体を備えています。〈稲妻〉は有効ではありませんね」

装甲まで剥がし始めた。

「ラゴとの共通点が極めて多い……。これはもしかすると……。ルソルさん、少しいいでしょうか」

クレイアさんがルソルさんを呼んで、こそこそと小さな声で会話を始めた。セラ姉とカダーシャさんは装甲の検分に夢中だ。エトナさんはただ立ってるだけに見えるけど、魔力が耳に集まってる。きっと〈聴覚の強化〉で聞き耳を立ててるんだと思う。……俺もセラ姉たちのところに行って装甲のこと教えてもらおう。



 ブクゼに着いたのはもう日が沈みそうな時間だった。新種のベルギアも結局はカダーシャさんにかかれば一撃で倒せる雑魚だった。いや、カダーシャさんが強すぎるんだけど。

腕を掻い潜って斧を振り上げ、胸から喉にかけて斬り裂く方法で五体ぐらい倒してた。ちなみにラゴは十一体も倒してる。セージさんが言ってたように、何回か複数のラゴに同時遭遇したけど、俺の幻術で足止めすることで問題なく戦えた。


 事前に聞いていた通りブクゼの城壁はどこも壊されてなかった。魔物が町の中に入った形跡は無い。物音ひとつ、明かりひとつ無い様子はまさにゴーストタウン。

「一番いい宿屋をタダで借りちゃいましょ」

エトナさんに連れられて立派な宿に到着する。食堂を借りて晩御飯を食べる。イベルコットだ。

せっかくだからと、セラ姉が全員一人部屋で寝ることを提案した。味をしめたらしい。エトナさんと俺以外はなんの疑いも無く賛成する。

「まぁ、いいんじゃないの」

エトナさんも別にとがめる気は無いみたいだ。


 ということで、昨日と同じく、魔導書を読む俺と、ベッドに座るセラ姉がいた。

「今日はどんな幻術を覚えるの?」

「うん、この〈幻惑放心〉にしようと思う。光と音で一時的にわけわかんない状態にするんだって。特に対策してないと、この術にかけられたことにも気付かないみたい」

〈恐怖の喚起〉と違って、これなら見張りに気付かれずに前を通ることだってできそうだ。

「これは魔物にも効きそうだね」

光と音で幻惑するわけだから、そうかも。詳しい内容を読んでみると、〈聴覚の撹乱〉と〈幻像の投影〉を特殊なパターンで繰り返す幻術だった。催眠術みたいなもので、このパターンが重要みたいだ。独特のクセがあって術式が覚えにくい。たぶん、ちょっとでも間違えるとただの撹乱にしかならないんだと思う。結構難しい。

「覚えられた……かな?」

「やっぱりレイ君すごい! これは危険な幻術じゃないんだよね、お姉ちゃんにかけてみてよ」

「う、うん」

本当に危険が無いかちょっとだけ心配だったけど、ぶっつけ本番で使うには不安だからセラ姉にかけてみることにする。術式を展開。発動した途端にセラ姉の視線が虚空に固定される。無防備な表情で微動だにしない。試しに名前を呼んでみたけど反応が無い。体をゆするような強い刺激で目覚めるらしいけど、逆に言えば少し触れたぐらいでは術は解けないということでもある。……触っても気付かれない。……邪念が湧く。触れてみたいという欲求。葛藤。ダメだダメだダメだ。ちょっとぐらいなら……。いや、卑怯すぎる。絶対にダメだ。セラ姉は俺を信頼してるんだ。うん、よし、解除しよう。セラ姉を〈幻惑放心〉から解放する。結構な時間、悩んでいた気がする。

「どうしたの?」

ドキッとする。

「な、何が?」

「何がって、幻術試さないの?」

あ、そうか、この術は掛けられたことに気付かないんだ。

「もう掛け終わったよ。本当に掛けられたことに気付かないんだね」

「えっ!? ほんと!?」

本当にわからないらしい。

「うん、セラ姉、ぼーっとして一点を見つめてたよ」

「うわー、なんか恥ずかしい。変な顔してなかった!?」

「大丈夫だよ」

俺が邪念と戦ってたことにも当然気付いてない。弱い心に負けなくて本当に良かった。ホッとしていると、セラ姉が、にっと笑った。

「イタズラとかしてないよね?」

「してないよ!」

声がうわずった。やばい、怪しまれる。

「えー、本当にー?」

よし、正直に言おう。

「実はちょっと迷った。でも思い止まったよ」

まぁ、ちょっとどころじゃなく葛藤してたんだけど、このぐらいの嘘なら許されると思う。

「もう、レイ君のそういうとこ可愛いなー」

「からかってるの?」

「ごめんごめん、ちょっと意地悪してみたくなっただけ」

そう言ってチラっと窓から空を見る。「わっ、本当に結構時間が経ってる! もう寝よう」

そう言いながら先に布団に入るセラ姉。

「う、うん」

俺も、背中を向ける体勢で布団に入る。セラ姉は俺の背中にぴとっとくっついた。

「広い背中。なんかくっついてると安心するんだよね」

俺はドキドキして安心からは程遠い。もしかして、くっついてるからこの心臓のドキドキ伝わってるんじゃ……。気を紛らわすためにも、〈幻惑放心〉の術式を繰り返し復習する。魔力を操り続けるうちに眠りに落ちた。

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