クトゥルフクロニクル 彷徨う屍
@kaniten0713
第1章 事件の兆し
ああ…どうして…
何故、こんなことになってしまったのだろう。
思えば惨めな人生だった。日本有数の大企業の家に生まれながら、家を継ぐ資格も能力も持たず、ただ趣味に没頭する日々。
周りに人間は沢山いた。しかし、誰一人として自分自身を見てくれる者はいなかった。
彼らは僕の家か、持つモノにしか興味を持たない。
その家すらも、もはや僕の事など歯牙にかけない。
しかし、それでも、自分にも何か一つ、出来る事が欲しかったのだ。他人より優れていると、証明したかったのだ。
だが、その結果がこれだ。
目の前には死肉を食らう屍と、それに食われるだけの哀れな死体。
しかし、本当に惨めなのは…どちらにもなれないという絶望を抱えた自分自身だった。
このままただ、死にたくないがために、僕はここでうずくまり続けるだけ。
ああ…誰か、誰でもいい。
僕は助けて欲しい。ここから光ある世界へ帰して欲しい。
そして言って欲しい。君は悪くない、と。
全ての罪は、僕ではなく周りにあると。
そうだ。僕を…許して…くれ…
1 事件の兆し
七月下旬 東京都、目黒区。
暑い。ここ数日、うだるような暑さが続いている。
勿論、この季節に暑いのは当然だが、こうも鬱陶しく感じてしまうのは少し前に来た豪雨のせいだろう。
そのせいで、湿気と熱気がコンビネーションで襲っている。まるでジャングルだ。
今日は一日、事務作業だけが業務なのは幸いだ。
そう考えながら、パソコンの前の青年、咲原賢治はカタカタとキーボードに打ち込んでいった。
ここは仲山探偵事務所、その資料室兼作業室。
国家公認の探偵、仲山 翔が経営している対事件向けの探偵事務所だ。
本来この事務所には所長兼オーナーの仲山、弟子入り中の二人、つまりは自分ともう一人の計三人が所属しているのだが、本日は自分、つまり咲原一人しかいない。
咲原賢治、18歳。否、先日誕生日を迎えたので19歳か。
自身の上司であり尊敬する師の仲山のように、国家公認の探偵になることを夢にこの事務所に助手として弟子入りしているのだ。
だが現在、所長の仲山は一週間前から出張の依頼に向かっており、あと二週間以上は帰らない。
そのため、その間は貯まっていた事件のデータや資料の整理を頼まれていた。
山積みになった資料の山に最初こそ閉口したが、いざ取り組めば一人で集中出来るせいか作業はサクサクと進んだ。
残りはあと四分の一程度だ。これを終えればあと休暇扱いなので、のんびりと夏休みを満喫出来る。(しかも、その間の分も給料は発生するらしい)
今日明日頑張って早く終わらせようと考えたその時、ガチャリ、と入り口から音がした。
「こんちわー」
呼び鈴と共にくだけた挨拶が事務所に響く。
振り返ると、いつもの「彼」がやってきていた。
少し跳ねた髪型と、筋肉質で引き締まった身体の青年。
彼こそが、仲山探偵事務所のもう一人の助手であり咲原の友人、杉山 潤一だ。
「おかえり、早かったな」
出迎えはしなかったが、声はかける。
「おう、今日は早めに終わったぜ」
事務所に入るや否や、そのままシャワールームに向かう。
そこまで焼けてなかった肌が、短い間にすっかり小麦色になっていた。
杉山が身体を流している間に、着替えとタオルは用意しておき、再び咲原は作業に戻る。
しばらくすると、咲原の用意した着替えを着ながら杉山が戻ってくる。
「髪、しっかり乾かせよ」
ドライヤーを点けた杉山に、咲原がパソコンから目を離さず言った。
「はーい」と気の抜けた返事が返ってくる。
「後、水分補給も忘れずにな」
しばらくドライヤーの音を聞きながら、咲原が付け加えた。
すると、咲原の横に缶ジュースがコトン、と置かれる。
「お前もな」
振り返ると、いつの間にやら杉山が立っていた。
「一息つこうぜ」
杉山の誘いに乗り、二人は客間のソファーに座った。
「で、どうだった?工事現場のバイトは」
缶ジュースを一口飲むと、咲原が口を開いた。
「ああ、大変だった。ずっと使いっ走りされてさ」
杉山がバイト先の苦労話を話出す。
彼も当然、普段はこの事務所で働いてるのだが、デスクワークより肉体労働が得意な彼に対し、書類整理は退屈だろうと仲山が友人の職場を紹介したのだ。
確か、今日が最終日なはずだ。
実際、この一週間は事務所にわざわざ寄ることもなかった。
「あ、もうこんな時間か」
杉山が壁にかけてあるアンティークの時計を見て思わず立ち上がった。
「俺、今から後輩との買い物とバイト先の飲み会あるんだ」
そう言うや否や、杉山はカバンを肩にかけ、玄関の戸開ける。
「じゃ、また明日な」
と、そのまま出て行ってしまう。
忙しい奴だな…と思いながら、咲原は再び作業に戻った。
結局、その日のうちに作業は終わってしまう。
そのまま家に帰り、たまには夜更かしも悪くないだろうと自宅でゲームをしていると、充電中のケータイが鳴る。
こんな時間に誰だ…?
画面を見ると、吉田 海斗という名前が映っている。
吉田と言えば、咲原と杉山の友人の一人だ。
咲原達より5歳上の青年で、今は研修医としてかなり忙しくしている。
「もしもし」
何故急に電話をしてきたのだろうか。今日は夜勤のはずだが…。
『もしもし!咲原!?』
間違えなく吉田の声だ。何やら酷く焦っている。
「あ、うん。どうしたの急に」
それまで咲原は、大した気構えも無しに吉田の言葉を待っていた。
しかし、吉田の答えは想像よりずっと重大な話だった。
『大変だ…。いま、杉山が…意識不明の重体で運ばれてきた』
え…?
思わずケータイを取り落としそうになる。
な、何故…。彼は今、飲み会の真っ最中のはずだ。
「ど、どういうこと…?」
何とか声を捻り出し、吉田に問う。
「今言った通りだよ。それ以上の事は分からない…。とにかく、今から緊急で手術が始まるから、何かあったら連絡するね。じゃあね」
そう言うや否や、そそくさと吉田からの通話は切れてしまう。いつもは優しく、人当たりがいい彼らしくない。
もしかしたら、自分なら原因を知ってるんじゃないかと思って掛けてきたのだろうか。
だが、彼を最後に見たのはもう4、5時間前だ。咲原に見当はつかない。
「一体何が…?」
そう口には出すが、考えても答えは出ない。
それから数時間、午前二時を過ぎる頃まで吉田の連絡を待っていたが、いつの間にか気を失うように咲原は眠りについていた。
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