16.3

 終業後。今日も事務班は定時で帰されたので、広瀬は夕飯を調達するために近くのショッピングセンターに立ち寄った。安芸鷹田市役所から国道五十四号線を挟んですぐの場所、薄暮の街中に煌々と赤い塔屋とうや看板を光らせる安芸鷹田市最大のショッピングセンターは、広島県に本社を置き中四国から九州まで店舗を展開するスーパーマーケットが運営している。広瀬が生まれる前からここに在るその店は、地元の若者にとってほとんど唯一の遊び場でもあった。

 フードコートは広瀬の幼い頃の記憶にあるよりも寂しくなった気がするが、その隣ではおそらく開業時からの喫茶店が営業しており、眼鏡・貴金属店や手芸店、大型のチェーン書店なども入っている。藍色に沈む空の下、同じ敷地に建つファミレスと共有の駐車場に車を駐めた広瀬は、宝くじ販売所の賑やかなアナウンスを右耳に聞きながら、目映い照明が迎える店内へと入った。

 普段は巴に暮らしているためこの店に入るのは久々なのだが、以前立ち寄った時と、店舗入口付近のテナントが変わっている気がする。以前が何であったか思い出せないまま、新しいテナントを横目に眺めて広瀬は書店の方へと歩いた。

 書店があるショッピングセンターというのは良い。帰宅前、仕事に疲れた頭に別の刺激を与えることができる。歩いて、表紙を眺めて、興味を抱いた冊子をぱらりと開く、あるいはグッズを手に取る時間は、自分一人だけの「ねぐら」に帰る前、頭をリセットするのに丁度よいのだ。

 平日夕刻の店内に人はそう多くない。ほとんどの者は今日の夕飯や明日以降の食材を買い求めて、店舗の奥にある食品売り場へと足を向ける。広瀬は人気のない書店の中を、ゆったりとそぞろ歩いた。

 文芸書を嗜む方ではないため、手前に展開された新刊や話題の文芸書コーナーは素通りし、ひとまず雑誌・実用書コーナーを目指す。地域情報誌やスポーツ誌の辺りは、いつでも赤い表紙が目に入る。――広島で「赤い」と言えば、ご当地プロ野球球団だ。現役選手の頃からよく知る顔が表紙の、チーム論・コーチング論書籍のタイトルや帯を目で追って、手に取るまではせずにその場を離れた。普段暮らしている巴市内ではあまり見ないような、珍しい雑誌を見掛けては足を止め、また歩く。

 最奥の壁面に設けられた旅行ガイドのコーナーに辿り着いて、ふと「出雲・松江」と書かれた雑誌が目に留まった。縁結び、パワースポット、美肌といった女性ターゲットと思しき文言が華やかに並んでいる。

(初詣は出雲大社か? って訊いたことがあったよな……)

 高校時代の話だ。宮澤の実家が出雲にあることくらいは本人から聞いていたため、年末年始の話題になった時そう尋ねたのだろう。あの時彼は「いいや」と首を振った。たしか、「もっと地元の氏神にお参りするから、遠くて人の多い大社までは行かない」といった返答だったように思う。当時の広瀬はそれを聞いて、自身と同様に小さな氏神社へ挨拶する、田舎の農家を想像した。だがきっと、本当は全く違ったのだ。

 出雲・松江の旅行雑誌を手に取る。ぱらりと捲って目に入ったのは、海岸を背景にした鮮やかな朱塗りの社だった。表題には「鳴神社なるかみしゃ」とある。どうやら丁度、宮澤の氏神社――否、実家を開いてしまったらしい。

「立派な神社じゃん……って、当たり前か」

 上古や神代と呼ばれるような古い時代から、その地に「特別な力を持つ一族」として根を下ろしてきた一門の氏神なのだ。写真を見れば確かに、大社ほど広大な敷地を持つわけではなさそうだが、誌面に躍るアオリ文句も「神話の時代より佇む古社で歴史ロマンに浸ろう!」とあり、規模こそ小さいが歴史と由緒のあるパワースポットとして紹介されている。それはそうだろう。その神社の宮司はおそらく、国内最高峰の呪術者なのだ。

(というか、陰陽師なのに神社の宮司なのか……? よく分かんないな、その辺は)

 知らない事だらけだ、と溜息を吐いて、広瀬は雑誌を棚に戻した。市役所で再会して、同じ部署に勤務して、多少は彼のことを知れたと思っていた。少しは距離が近くなったとも。だがそれはきっと、広瀬の妄想だった。彼我の暮らす世界はあまりにも違う。その距離を埋めることが正しいとも、もう思えなくなっていた。

 不意に、底抜けに明るいメロディが耳に届く。店内に流れる、スーパーマーケットのテーマソングだ。耳に馴染んだ綺羅綺羅しいイントロの後、恐らくは「それ行けカープ」の次くらいに人生で多く聞いてきた歌詞を、柔らかく明るい女性ボーカルが歌い上げる。それらは閑散としているフロアの片隅によく響いた。ここはあまりにも、広瀬にとって幼い頃から身に馴染んだ「日常」の只中だ。ただ、その真ん中に立つ己だけが、日常とはかけ離れた心地でいる。

 広瀬が物心ついた頃から変わらぬ歌声が、スーパーマーケットの店名を軽やかに歌う。来れば幸せになれる夢のまち。あなたと私の夢のまち。その歌詞はあまりにも聞き慣れていて、あまりにも今の気分に不釣り合いだ。

「……適当に、惣菜買って帰るか」

 コミックスも物色しようかと思っていたが、そんな気力は残っていなかった。何が食べたいという気持ちも湧かないが、何も買わずに帰ると夕飯がない。実家はこの店からほんの車で十分程度だが、自身の暮らすアパートまでは国道を四十分ばかり走る必要がある。それを億劫に思い出しながら、広瀬はのろのろと生鮮食品売り場へ足を向ける。

 ほぼ無人だったテナントエリアよりは賑やかな、食品売り場の惣菜コーナーへと歩く。すると広瀬の目指す先に、妙に見慣れた黄色い後ろ頭が見えた。思わず「げっ」と声が出る。共に安芸鷹田へ出向しているチンピラ拝み屋だ。警察署に出入りする都合か、比較的大人しめなモスグリーンのフライトジャケット姿である。その周囲に、長い黒髪の青年の姿はない。

 咄嗟に方向転換しかけたが、二、三歩ほど緩めた歩調を敢えてもう一度速める。何となく、逃げて避けるような真似は嫌だったからだ。火曜以降、宮澤とは挨拶程度しか言葉を交わしていないが、怜路とはいくらか話もしている。一声掛けて用事を済ませてしまえばいいだろう。

「お疲れ」

 熱心に揚げ物を物色している背にそう声を掛けると、振り向いた怜路が目を丸くした。

「おわっ、広瀬じゃん」

「そっちも晩飯か? 宮澤は一緒じゃないんだな」

 牛肉コロッケを手に驚く怜路に、広瀬は問いかけた。二割引きのシールが貼られたパックを空のカゴに突っ込み、怜路が「ああ」と頷く。

「美郷は直帰。俺ァ明日の昼飯でも買っとくかと思ってな。つかお前、定時で帰ったんじゃなかったんか。何してたんだ今まで」

 呆れ気味に問われて時間を確認すると、いつの間にやら職場を出た時刻より一時間以上経っていた。「本屋でぶらついてた」と返すと、本など読むのかとからかわれる。雑誌か漫画しか読まないのだが、それを正直に述べるのも癪なので「うるさい」とだけ返事して、広瀬も揚げ物コーナーを見回した。残念ながら、今の気分に合うものは見当たらない。

 会話が途切れる。ここで「じゃあな」と別れても良かったのだが、広瀬はそれをする踏ん切りが付かず、そそられる物のない棚をボンヤリと見回す。怜路は「鳴神家」がどんなものであるか、知っているのだろうか。尋ねてみたいが糸口も見付けられず、広瀬はただ「揚げ物って気分じゃないな」と洩らした。

「お前、実家近いんだろ? わざわざ巴帰ンのか」

 思いがけず、怜路が話題を振ってくれた。驚きながらも、広瀬はそれに「ああ」と頷く。狩野怜路がその近付き難い見た目に反して、よく気の回る男であるのは知っていたが、ここ数日の広瀬は決して彼に良い印象を持たれてなどいなかっただろう。ぞんざいにあしらわれているとは思わないが、友好的に話題を振ってきてくれるとも予想していなかった。

「……実家は妹が居るから。あんま帰りたくないんだよ」

「あー、仲悪ィんだっけか」

 ぽつりぽつりと会話をしながら、何となく店内を移動する。中華惣菜コーナーで、怜路が五目春巻を手に取った。他に並ぶのは酢豚、麻婆豆腐、レバニラに餃子。どれも濃い。

「仲が悪いというか、俺がやたら邪険にされる。――あのさ、」

 そういえば、宮澤は弟と仲が良かったな、と思い出す。それを糸口に話題を振ろうかと一瞬考えたが、宮澤本人ならばいざ知らず、赤の他人である怜路に言っても仕方がない気がして結局言い淀んだ。怜路は「あん?」とおざなりな返事をして、チラリと広瀬を見遣る。その視線に押されて、広瀬は無理矢理続きの言葉を紡いだ。

「鳴神って――どんな家なんだ?」

 結局、出て来たのは何の脈絡もない唐突な問いだった。案の定、怜路が「はァ?」と目を眇める。

「いや、今日やたらあの……県の職員が呼んでたじゃん。そんな特別な家――なんだろうけど、さ……」

 場所は、いつの間にか寿司コーナーの前だ。厚焼き卵の主張も激しい田舎巻のパックを、見るともなしに眺めながら広瀬はぼそぼそと続ける。

「さっき本屋で、出雲とか特集した雑誌見てたらソレっぽい神社があって……」

 惣菜探索の歩を止めた怜路が、広瀬を振り返って面倒臭そうに頭を掻く。結局ただその後ろを追って歩くだけになっていた広瀬も立ち止まった。

「――アイツの実家は、東京で場末の拝み屋やってても耳に入ってくるような超名門だ。んで、デカい分だけお家騒動も華々しい。俺から言えンのはその程度だ。それ以上の事ァ、アイツ本人が言ってねえなら俺から言える話じゃ無ェ」

 深い溜息のあと、思いの外柔らかな口調で怜路はそう広瀬を諭した。本人の同意も得ずに、あれやこれやと洩らしてよい事情ではないのだろう。そうか、と広瀬も頷く。

 怜路と同業の、国内有数の名門出身。姓と母親の違う弟がいる。実家の姓は、「彼」自身の名乗る姓ではない。それらから、ある程度の事情は想像できるが、広瀬はその答え合わせをしたことも、結局「彼」の高校卒業間際に、一体何が起こったのかを訊いたこともない。それは広瀬自身、当の友人が自分から言い出すまでは何も訊かぬ方がよいことだろうと思っていたからだ。今更、他人から又聞きしようとするのが褒められたことでないのは分かっていた。

(けど、そんな日は来ないかもしれない)

 広瀬は火曜日以降――といって、実際に顔を合わせたのは昨日の朝と今日の午後程度なのだが――宮澤との距離を測りかねている。下手に立ち入って、余計な言葉や態度で傷付けたり、嫌われたりしたくはない。彼の複雑な事情を全て汲めるほど、己は出来た人間ではないのだと。

 はあァ、と、もう一度大仰な溜息が聞こえた。

「あのな。だから、知りたきゃ自分で本人に訊け。何悩んでンのか知らねえけど――、あー、いや、そうだな……しょーがねェなあ……」

 空いた手で頭を引っ掻き回しながら、何事かブツブツと唸った怜路が天井を仰ぐ。そのやたらにオーバーアクションな仕草の後、口をへの字に曲げて、渋柿でも齧ったような顔のチンピラはこう誘った。

「飯、まだなんだよな。食ってこうぜ、うどんでも」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る