15.2
一方の美郷は、怨鬼に憑かれた男の後を追い掛けて外階段へと飛び出した。男――少年の父親は、口からは盛大な悲鳴を上げ、両腕はバタバタと振り回して鬼女面を拒みながらも、その脚だけは怨鬼の意思に従って全速力で逃亡を試みている。男は十メートルに満たない廊下を上半身の動きに見合わぬ速さで走り抜け、飛び降りる勢いで階段へと躍り出た。
(怜路なら追い付けるかもしれないけど――!!)
その常軌を逸した動きについて行けず、悪態を吐きながら美郷は階段を駆け下りる。辺りは既に宵闇の中で、向けられた投光器が美郷の網膜を灼いた。先日同様、建物の周囲には赤い回転灯がいくつも光り、物々しい雰囲気が辺りを包んでいる。警察官らが建物を包囲しているのだ。鬼女面を憑けた男を追って見回す視界には、機動隊らしき武装警察官の姿も見えた。彼らもまた鬼女面を――否、恐らく、彼らは鬼女面ではなく男を取り押さえるために慌ただしく動く。
(彼らが足止めする間に緊縛呪を――)
美郷が地上に足を着けた時、鬼女面を憑けた男は警察官らと揉み合いになっていた。「止まれ」と鋭く制止する警察官らを前に、男が声を張り上げる。
「やめろ!! 助けてくれぇ!! なんで俺が警官に囲まれなきゃならないんだ! 俺は何もしてない! やめろぉ……俺は何も悪くないィィィ!!」
その声音は、かなり錯乱している様子だ。彼らの近くまで追いつき、印を結ぼうとした美郷に警察官の一人が気付いた。
「君、どういう所属だ?」
問いかけと同時に右手首を掴まれる。内心舌打ちしながら美郷は警察官へ顔を向けた。
「市役所の者です、詳しくは西野刑事に。今はあちらを取り押さえないと」
美郷の言葉に、壮年の警察官は「市役所ぉ?」と怪訝な顔をした。説明の時間が惜しい。周囲に知った顔が居ないか見回すと、ちょうど後ろから追い掛けて来た守山が状況に気付いてくれた。守山は警察官と美郷の間に入り、やんわりと警察官の手を外す。「こちらは任せろ」と目配せをされ、美郷は目顔だけで頷いてその場から数歩離れた。
そうしている間も、警察官に囲まれた男は逃走を試みている。しかも、奇声じみた訴えの声――俺は悪くない、という主張が大きく激しくなるにつれて、その動きは力強く俊敏になっていた。
(まずい……警官に包囲されたショックで精神を追い詰められて、怨鬼の支配が強まってるのか――早く足止めをしないと)
面に憑かれた篠原は、徒歩ではありえない速度で広瀬らのいた高校から介護医療院までを移動していた。おそらくは、怨鬼の力で異界を渡ったものと思われる。ここで取り逃がして、異界に逃げ込まれてしまえば厄介だ。
街中で、最も身近にある異界の入口は「辻」である。道と道が交差する辻は、魔のモノの出入り口、あちら側との接点なのだ。そして大変具合の悪いことに、安芸鷹田警察署は、三叉路に接して建っていた。つまり、署の敷地のすぐ外が辻なのである。そして鬼女面を憑けた男の体は、既にあともう数歩で警察署の敷地を逃れ、辻にその足を踏み出せるところまで来ていた。
ここから悠長に、不動金縛りの呪を唱えている余裕はない。
焦って周囲を見渡す美郷の目に、思いがけぬ足止めの
「走り人 その行く先は真の闇 後へ戻れよ アビラウンケン!」
影を縛られ、男の動きがピタリと止まった。男を取り押さえに警察官たちが群がる。男は引き倒されて捕縛された。鬼女面を、不用意に他の者へ触らせるわけには行かない。美郷は駆け出す。
「鬼女面を確保します。どいてください!」
何事かと美郷の方へ顔を向ける者が数名。「面?」と怪訝げに顔を歪める者と、驚きながらも場を譲ろうとする者とがあった。その奥で、捕縛された男が――その顔に憑けた鬼女面が視線を上げ、美郷を向く。
と、次の瞬間。――めりっ。と、まるで顔の皮そのものを剥ぐかのような湿った音を立てて、男から外れた鬼女面が宵闇の空を舞った。男の体が頽れる。
「しまっ――」
た、という音が美郷の口の中に消える頃には、鬼女面は自らを、警察署が面している三叉路へと投げ出していた。
その姿が、ふわりと闇に溶ける。
(逃がした――!!)
思わず屈み込んで膝を掴む。
(って、へこたれてる場合か! すぐ隣の辻に移動してるかもしれない。追わないと!)
ひとりでに宙を舞った鬼女面と、失神したらしい男に周囲はざわついている。美郷はすぐさま顔を上げて、視線を巡らせた。辺りはここが毛利の城下町であった頃から続く古い街並だ。歴史建築の保存度はあまり高くないのだが、細かく小路が交叉している。つまり、隣の辻が近く、そして多い。既に辺りが宵闇に沈んだ中、肉眼で隣接する辻を確認することは叶わないが、どうにかして鬼女面を追えないものかと美郷は考える。
「やはり辻を渡りよりましたか……」
警察官の説得に成功したらしい守山が、美郷と並んで悔しげに言った。
「すみません、逃げられました……辻を渡っているなら、近隣の辻を封鎖すれば抑え込めるでしょうか」
美郷も悔しさに拳を握りながら訊ねる。気持ちは焦るが、闇雲に動いたところで鬼女面を捕えられるとも思えない。守山もまた、遠く向こうの辻を見透かすように、長く垂れた眉の下で目を細めながらそれに頷いた。
「署の鑑識係からここまで大した距離じゃない中を、どうにも人に憑いて移動した言うことは、人間を足に使わねば長距離動けんのんやもしれません。憑かれた
見張りですか、と、美郷は守山に問い返した。ちょうど怜路が、建物から飛び出して来るのが視界の端に映る。
「ええ。私の部下は夜目が利きますし、何より、人間の怨念に憑かれる心配は無ァですけえな。今晩はそれで、明日以降のことは改めて作戦を練りましょう」
守山の部下――とは、つまり郡山に暮らす狐の一族だ。「ひとまず手配をしてきます」と言い置いて美郷の傍を離れた守山は、するりと辺りの闇に溶けて消えた。こちらへ向かってきていた怜路が、それを視線で追って目を丸くする。
「守山サンどこ行くって? 狐ンなって全力疾走してたが」
「鬼女面に、辻に逃げ込まれたんだ。だから近隣の辻に立てる見張りの手配。今夜は守山さんの部下たちが見張ってくれるらしいから、おれたちは明日以降の方針と、役割分担を決めないと……最初に憑かれた男の子は大丈夫そう?」
美郷の問いに、少し苦々しげな顔をしつつも怜路は頷く。
「ああ。ひとまずは問題無ェはずだ。――しかし、俺とお前だけで……ケーサツ巻込んだ作戦立てろってなァ、なかなかキツいぜ?」
言われて、美郷は思わず周囲を見回した。守山が席を外した現状、美郷らと話ができるのは西野のみだ。
「仕方ないよ。やれるだけのことをやろう。警察の人たちも全員が全員、何も知らないわけじゃなさそうだし」
美郷の「鬼女面の捕縛」という言葉を、了解した雰囲気の者も中にはいた。それに、先ほど美郷を抱え上げてくれた警察官のように、詳しい事情は知らずとも協力してくれる者もいる。怜路も仕方なさそうにそれに頷き、二人はひとまず守山の帰りを待つために署内へと引き返した。
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