十五.辻
15.1
15.辻
怜路は怨鬼に憑かれた少年と相対していた。
鬼女面はその大きな口から屍を吐き出し、かかった負荷に、体をくの字に折って少年が動きを止める。その隙に面を引き剥がせないものかと、怜路はサングラスを下にずらして天狗眼で少年を視た。
(――クッソ。かなりビッチリ憑いてやがるな……無理矢理剥がせば子供の方に負担がかかる。どうやってアレを落とすか……)
先日介護医療院で怜路が視たのは、男の屍とそれを操る鬼女面の姿だった。赤来には翌日釘を刺されてしまったが、怜路の眼に、憑かれた男の死は明らかだったためかなり乱暴な落とし方をしたのだ。だが、憑かれた相手がまだ生きている状態で同じ真似はできない。
目の前の少年は、鬼女面から伸びた細かな触手に全身を搦め捕られている。その様子はさながら、網に掛かった獲物だ。
「おい、聞こえるか。必ず助けてやる。その鬼女面に屈するなよ。俺が助けてやる。必ずだ」
少年に向けて声を掛ける。返事はない。期待もしてはいなかった。ただ、届いていればその方がよい。恐らく、憑かれた少年は苦しいはずだ。相手は怨みの異形と成り果てた鬼である。その相手に憑かれる――すなわち心身を支配される苦痛は相当であろう。更に怨鬼は、憑いた人間の体を大切にする気配がない。無茶な使い方をしているのは先ほども見えた。怨鬼は少年の手足が折れても千切れてもお構いなしなのだ。
「諦めるな。絶対にどうにかしてやるから」
災害救助の際に声掛けをするのと同じである。その身を救けようとする者の在ることを、本人に知らせ、励ます必要があった。
のろのろと少年が頭を上げた。その体が僅かに沈む。腰を落として構える様子に、怜路もまた身構えた。相手が再び無茶な動きをする前に、動きを封じる必要がある。体の痛みも損傷もお構いなしの動きをされれば、少年を保護しながら取り押さえるのは難しくなるからだ。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
障碍を滅し、苦しみの世界に堕ちた者を救うといわれ、子供の守護者ともされる地蔵菩薩の真言を唱えて錫杖を鳴らす。高く響き渡る破魔の音に、少年が両耳を塞いで苦しみ始めた。
「耳を塞ぐな! その苦しみはお前のモンじゃ無ェ。――オン カカカ ビサンマエイ ソワカ。聴け! コイツはお前を苦しみから救う音だ! 両手を耳に押し当てるな、その手で、目の前を覆ってやがる悪魔を引き剥がせ! オン カカカ ビサンマエイ ソワカ!!」
怜路の呼び掛けに、少年が反応する。耳を塞ぐ両手が緩み、鬼女面越しの顔が怜路を向いた。
「――大丈夫だ。絶対にその苦しみは終わる。俺が絶対に助ける。だから頑張れ、そいつに屈するな」
地蔵菩薩の真言と錫杖の破魔の音によって、鬼女面による少年の支配が弱まっているのだ。少年の震える指が、顔を覆う鬼女面に掛かった。その様子を注視しながら、怜路は錫杖を鳴らし地蔵菩薩の真言を唱え続ける。天狗眼の視界に、少年の抵抗によって怨鬼の縛めが引き千切られていく様子が映った。怜路は少年との距離を詰める。少年が怨鬼の支配を振り切った瞬間に、鬼女面を引き剥がして少年の安全を確保するためだ。
「裕也!」
しかし、怜路が鬼女面に手を伸ばす寸前、怜路の背後で女の金切り声が上がった。びくりと体を震わせて、少年が動きを止める。
「さがってください。今は近付いたら危険です!」
声の主を制止しているのは、どうやら守山だ。それに派手に噛み付く金切り声が、警察署の窓の無い廊下を震わせた。曰く、自分は少年の母親だ、と。しかし目の前の少年は、母親の登場に安堵した様子とは到底思えない。再び鬼女面の触手が息を吹き返し、少年を縛め始めている。
怜路の背後では守山の他に、警察官らしい男の声が少年の母親を説得していた。怜路はそちらを振り向くことも、嘴を挟むこともできない。ただ、少年が怨鬼に抗えるように錫杖を鳴らし続け、真言を唱え続ける。
(――警察署の廊下に、学生服姿の子供……補導されたトコを狙われたか……んで、呼ばれた親が到着した。万引きだか何だか知らねえが、補導と縁なんざなさそうな、大人しそうなガキだ。家族関係か何かがきっかけの、突発的な行動だったら――親の登場は、逆効果ってワケか)
保護者は本来援軍のはずだが、明らかに形勢が悪くなっている。
(多少手荒になるが、灼いちまう方がいいかもしれねえ)
灼くというのは、不動明王の火焔で鬼女面の触手を、という意味だ。その火焔は人間を傷付けることのない浄化の炎である。だが、少年は怨鬼と感覚を共有している様子だ。その状態のまま怨鬼の触手を灼くのはリスクに思える。そう怜路が逡巡している間の出来事だった。
背後に気配がもうひとつ増えた。成人男性らしき重たい足音と不機嫌そうな低い声が、背後を飛び交う会話に加わる。少年の母親を叱責する声の直後、怜路の背後に近付いて来たその男は――少年の父親は言い放った。
「裕也、なにをふざけている。こんな騒ぎを起こして恥ずかしくはないのか!」
瞬間、怨鬼の触手が力と勢いを増した。少年はその細い両肩を、化物にでも相対したかのように震わせ始める。これは、駄目だ。怜路はそう判断して真言を止めた。少年の両親は、今この場では鬼女面を祓う障害にしかならない。
(開口一番くらい心配してやれ――っつのーは、贅沢な要求かねェ! くそったれ!!)
「ノウマク サンマンダ バザラダン カン!!」
荒療治となるが致し方ない。常人の目には映らぬ不動明王の火焔が、少年ごと鬼女面を包んだ。少年の口を借りて、怨鬼が化物じみた悲鳴を上げる。怜路は錫杖を横へと投げ置いて、ポケットから独鈷杵を取り出し少年を正面から抱き込んだ。錫杖の廊下に転がる音が響く。
藻掻く細い体を捕えた怜路は、狙い違わず鬼女面のこめかみ辺りに、少年の側から独鈷杵を打ち込んだ。
面が引き剥がされて宙を舞う。少年を庇いながら、怜路はそれを目で追った。
「怜路!」
屍たちを処理したらしい美郷が、廊下の奥から走り寄ってくる。怜路の腕の中の少年はぐったりと脱力していた。
「美郷、鬼女面を抑え――」
ろ、とまで言わぬ間。万有引力に逆らった鬼女面は廊下の床を拒絶し、目の前に立つ男へ飛び掛かった。裕也少年の父親だ。
「うわっ! うわああああああ!!」
鬼女面が、男の顔を覆う。狂乱した男は廊下を取って返し、外階段へと飛び出してゆく。美郷がそれを追って走った。怜路は、意識を失ったらしき少年の保護が最優先だ。
再び場の混乱する中、怜路は意識のない少年を廊下の端に横臥させる。脈を取り、外傷の状態を確認した。無茶に振り回された――鬼女面が警察官から逃れるために振り回した腕は、おそらく負傷している。
守山も美郷の後を追う姿が見えた。その傍らで、少年の母親らしき中年女性を抑えていた年若い男性制服警官がこちらに歩み寄ってくる。
「アンタ、視えてるタイプかい?」
その足取りの迷いの無さに、怜路は思わず訊ねた。もののけの類いに慣れていなければ、もう少しおっかなびっくりになるだろう。しかし青年警察官は首を横に振る。
「いいえ。本官は全くのゼロ感人間であります。ただ、先日お見かけした貴方や相棒の方に少し興味を持っておりました。ひとまず彼を医務室へ運びます」
なるほど、ごく稀に存在する――おそらく、怜路よりも美郷の方が遭遇率の高い、「好意的な一般人」だ。たしか、先ほど美郷を抱き上げていた青年である。
「任せていいか。もうこの子に関して、俺の仕事は残ってねえはずだ。――そうだ。あと、あんたらの決まりに触れなけりゃ、コイツをこの子に渡してやってくれ」
場を譲るように立ち上がり、怜路は名刺を一枚、青年警察官に差し出した。少し首を傾げて、警察官は名刺を受け取る。
「アフターケアですか」
「いや……まあ、それもあるが……後遺症やらトラウマやら見るのはあんたらでやってくれや。もし俺らの出番がありそうなら、西野サンなり守山サンなりから連絡をくれ。それよりも……そうだな。何だって構わねえから、誰かに聞いて欲しいコトがある時には、連絡寄越せと伝えてくれ。あとそれから、他人がくれる優しさは所詮『他人事の優しさ』かもしれねえが、ソイツは嘘でも偽物でも無ェと。伝言頼んでもいいか」
胸に残った苦々しい気持ちを押し殺して、怜路は青年警察官に頼む。言ったところで、意図が少年に伝わるかは分からない。だが、目の前で実父から理不尽に詰られる少年を見てしまった怜路が、彼にできる精一杯だ。そして怜路は彼と同じ年頃の時分、その他人事の優しさを端々から掻き集めて生き延びたのだ。
一旦名刺に視線を落とし、少年の傍らにしゃがみ込んだ青年は、怜路を見上げて苦笑した。
「承知しました。ですが――その言葉はぜひ、直接掛けてあげてください。それこそ、市役所経由で容態や経過を報告するよう具申しておきます」
そりゃどうも。怜路はそう決まり悪く項を掻いて、傍らに転がっている錫杖を拾い上げた。
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