11.2
――眠るなら、深い、深い、淵がいい。
暗く静かで、冷たく、どこまでも蒼い淵の底で、覚めない眠りにつきたい。
それは身も心も疲れ果てた夜に、美郷がひとり抱いて眠る夢想だった。
いつか本当に、どうしようもなく疲れ果てた時には。うつし世を生きるのはもう無理だと思ったら。その時は、淵に身を沈めよう。寂しさも苦しさも何も感じないほど、暗く冷たく静かな場所へ。
(だから、今はまだ大丈夫だ。望めばいつだってそこへ行ける。自分で苦しみを終わりにできる。だから、今はまだ――)
そんな風に己に言い聞かせるのは、今日が初めてなわけではない。鳴神を捨ててから、ずっと己に言い聞かせてきたことだった。
つるべ落としの夕日が沈み、瞬く間に薄闇に沈んだ狩野の中庭にて。しゃがみ込んだ美郷は、雑草に埋もれた小さな池を覗き込んでいた。目を覚ましてふと池を覗きたくなり、髪も括らず寝巻一枚のまま、裸足で――果たして、どのくらいの時間こうしているのか、美郷自身にもよく分からない。ただ、出て来た時よりも随分と視界は暗くなった気がする。
もとより日当たりの悪い中庭の、さらに木陰にある池は、夕闇の中では底の見えぬ黒い淵だ。稀に、何かの立てる小さな波紋が薄っすらと青く浮き立つ。淡く水面を蹴る者は、アメンボの類か、はたまたもののけか。――気付けば、初夏には聴覚を埋め尽くしていた蛙の恋歌は、ひとつも聞えぬ季節である。
山水と共に転がり落ちてくる、小さなもののけの気配が辺りに満ちている。人の目には映らぬ小さな蟲たちは、時に羽虫のような、時に蜥蜴や蛙のような姿を取りながら、美郷の寝巻の裾や肩にもまとわりついていた。もののけたちの天敵である、白蛇が美郷の中に居ないからであろう。
この場所はうつし世にありながら、とても「あちら側」に近い。元より山の端で、長らく人に忘れられていた場所だ。手入れのされぬ空家だった十年ほどの間に、「こちら側」――人の住む世界からは遠くなっていた。そして、美郷が傍らで暮らし始めてからも、この中庭は変わらず曖昧な、
気の良い大家は「妖怪ビオトープ」と笑い飛ばしたが、普通、人が寝起きする場所のすぐ隣に置くようなものではない。喋ったり、悪戯を仕掛けてくるような大きさのもののけは居ない(というか、すぐに白蛇の腹に収まってしまう)が、冷たい陰の気が溜まる場所そのものが、人が暮らす場所には適していないからだ。
(そもそも、来るもののけを白太さんが喰ってる時点で、おれは人間の範疇からもう外れてる気もするけど)
でなければ無防備に、結界のひとつも張らずに「妖怪ビオトープ」の隣に暮らすことなどできない。――だが、美郷にとってこの中庭は、日々の暮らしの中で疲れささくれた心を癒すために必要な場所だった。
(結局、おれは――)
美郷を「白蛇の君」と呼ぶ龍の姫君は、美郷が望めば迎え入れてくれるのだろうか。そんな、埒もない空想に耽る。彼らの目に、美郷はどう映っているのだろう。自分で思っているよりもずっと、美郷は異界の住人に近しい存在になっているのではないか。
そうだとしたら、「宮澤美郷」は本当にこの先、うつし世で当たり前に生きて行けるのであろうか。
(もし、この『おれ』が……うつし世に拒絶されるんなら……)
鳴神美郷として、生まれ育った立場を疎んじられて殺されかけ、それを逃れて生き残った「宮澤美郷」が、今度は妖魔を飼う者として、うつし世に拒絶される日が来たならば。
(その時は、もういいや)
これも、何度もなぞってきた思考だ。
白蛇の暴走に振り回されて、隣人の視線に怯えていた大学時代。無理矢理抑え込んだ白蛇の「返し」に内側から打ちのめされて、誰にも言えぬまま一人部屋の中で呻くたびに。もしも――もしも、いつか全てが決壊して、うつし世に美郷の席はないと突きつけられた時には、もう諦めようと。
そんなことを考えるのも随分久々な気がして、不思議な気分に浸っていると背後で気配がした。ここ一年以上、根暗なことを考えずに済んだ「理由」、その人物だ。
「おう、目ェ覚めたか」
振り返った美郷の、寝間に上がり込んだ大家が問うた。いささか低く沈んで草臥れた口調だ。その肩に、当たり前のように巻き付いた己の白い半身を見て、美郷は思わず苦笑いする。
「うん。心配かけてゴメン。色々ありがとう、ゼリーとか、ドリンクとか」
朝に一度目を覚ましてスマホやメモを確認して寝落ちた後、二度目に覚醒したのは約一時間後だった。多少体が軽くなっていたので起き上がって用を足し、ドリンクとゼリーをありがたく頂いて再び眠りに就いた。それから、次に目覚めた時にはもう、空は暮れなずむ時刻になっていたのだ。
「あの程度のモンしか置けなくて悪ィな。俺じゃ霊符湯も用意できねえ」
気まり悪そうに眉を顰め、口元をひん曲げた大家が、濡れ縁の下に置き去りにされていたサンダルをつっかける。美郷は立ち上がり、それを迎えた。
「十分だよ。それに、職場の方も」
怜路の襟巻になっている白蛇は、美郷の傍まで来ても怜路の肩から動かない。
(何が起きたのか……もう怜路にはばれちゃってるだろうな、これ)
気まずさに、どくどくと動悸が胸を打つ。巴市に来てからというもの、白蛇と美郷の間でトラブルが起きた時は、毎回怜路に面倒を掛けている。何度も心配をしてもらって、ようやく折り合いを付けられるようになったと思ったのに――また、やらかしてしまった。
情けなさや恥ずかしさ、ばつの悪さに美郷は俯く。
「――怜路、あの、白太さんのこと……」
絞りだした問いは、自分でも情けないくらいしょぼしょぼとしたものだった。
「ああ、ケンカ中か? まあ、まだ明日は休めっつー係長からのお達しだからな、落ち着くまで俺ンとこでも……」
怜路はそれに、サッパリと明るく返す。
全く、いつものことであるように。
何の特別さもなく、ただ、本当にペットの世話の相談でもしているかのように。――ごく普通の、明日の天気の話と同じようなトーンで。そこには、美郷が恐れるような呆れや苛立ちも、気遣うような、美郷を窺うような気配もない。
(そう、か……もう、一人で抑え込んで呻かなくてもいいんだ)
――白蛇のことは、美郷と怜路の間にあって、隠し立てすることでも、「特別」でもない。
突然、何かが心に染み渡るように気が付いた。
寝込んでいれば、食事を運んでもらえる。寝込んだ理由を隠す必要もない。そして何より、一人で自分の中に白蛇を抑え込まなくとも、白蛇に居場所を与えてくれる相手が、いる。
恐ろしく今更、だが唐突に「理解」してしまった。思い返せば、本当にあまりにも今更な事実だった。なぜ分かっていなかったのか、ということの方が不可解なほどに。それは、古びて朽ちかけていた錠前が、折れて外れるような心地だった。
「……どした?」
怪訝げな声音に、美郷は顔を上げた。既に、美郷の視界はだいぶ暗い。その中央で、明るい色の髪をしたチンピラが珍妙な顔をしているのが辛うじて見えた。向こうは美郷よりもだいぶ夜目が利く。真ん丸にしている緑銀の眼に、一体何が映ったのか。
にわかにその目元が真剣味を帯びる。「美郷、」と、低く静かな声が呼んだ。その右腕が伸びて、筋の張った大きな手が美郷の肩の上をはたく。まとわりついていた、小さなもののけが散らされて転がり落ちた。
少し躊躇うように宙を泳いだ怜路の右手が、美郷の左肩に置かれた。何か痛みを堪えるように、怜路が眉根を寄せて口を引き結ぶ。そこでようやく、美郷は己の頬を流れるものに気付いた。
目頭を熱く濡らして、あとからあとから涙が頬を伝い、顎先から滴っている。気付いて、はは、と間抜けな笑いが漏れた。
「――ずっと、思ってたんだ」
それは、美郷が独りで抱え続けて来た夢想だ。美郷のことを心配し、親身になってくれる人にほど漏らせない――だからきっと、墓まで独りで抱えて行くものと思っていた夢想だった。
「もし、全部に疲れた時は……深い、深い水底に眠りたい」
掠れる涙声は無様に縒れて、震えている。
なぜそれを、今、怜路に漏らしているのか。なぜ、言いたいと思ったのか。口を閉じられないのか。美郷自身にもよく分からない。明らかに返答に迷うような、面倒な言葉だ。心配してくれている、目の前の相手を拒絶すらしている。
こんな夢想は、親しい人たちを拒絶し、傷つけるものだ。そのことくらいは、美郷にも分かっている。――だから、誰にも言わずに来た。
そうか。と、怜路が言った。美郷とは真逆の、低く、静かで深い声音だった。
「だったらその時は、俺にひと声かけろ。――独りで、行こうとするな」
一緒に行くから、置いてくんじゃねえぞ。最後だけ小さく早口に付け加え、怜路が美郷の肩から手を離す。
咄嗟に、手首を捕まえることでそれを止め、美郷は小さく頷いた。
――するり、と白蛇が動く。
怜路の肩から、その右腕を伝って美郷の左肩へ。
(もう、大丈夫だ)
白蛇を受け入れられる。昼間のように、拒絶する心配はない。
白蛇は寝巻の襟元に潜り込み、怜路の手の真下を滑って、美郷の背へと沈んでいく。
布越しに滑る鱗に、怜路の右手が一度強張り、そっと弛緩して触れた。美郷が掴んでいた手首を離すと、掌はわずかに背中へと回る。――蛇が、美郷へ潜る場所を確かめるように。
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