十一.薄闇
11.1
11.薄闇
安芸鷹田署を出た怜路が愛車に乗り込んだのは、午前十一時を回った頃だった。下宿人がもう起きているかと電話をかけてみたが応答はない。署から最寄りのスーパーマーケットで弁当を買い、怜路は帰路についた。
帰って覗いてみた離れの和室では、美郷がまだ布団に埋もれるようにして眠っていた。起こす真似はせず、怜路は茶の間に帰って弁当を掻っ込む。スポーツドリンクと、ゼリーのパウチがひとつ空いていたので一度は起きて口にしたのだろう。
午後の予定は何もなかった。市職員でない怜路には、残務処理も回ってこない。芳田の言う通り、美郷の看病が一番の仕事になるだろう。さりとて、病人の部屋に上がり込んでいるのも憚られるし、茶の間に籠っていたのでは美郷が目を覚ましても部屋が遠すぎて分からない。
悩んだ挙句、怜路は母屋の風通しを始めた。一番土間寄りの客間は、現在は怜路と美郷の共用リビングとしてテレビやゲーム機、クッションなどが置かれている。二人で飲み食いするためのローテーブルもあり、取り込んだ洗濯物を投げ入れる場所にもなっているため生活感にあふれていた。一方で、続く二の間、三の間は閉め切っており、中には何も置いていない。
幸いにして、天気は良い。それに浮かれる気分でも全くなかったが、美郷の気配がわかる場所での時間つぶしとして、風通しをするには丁度良かった。縁側のサッシを開け、奥側の部屋――元々は家の住人の寝室であった二部屋の襖も全開にする。裏庭側の廊下も掃出しを開けると、爽やかな秋の風が母屋を通り過ぎて行った。
家の裏は相変わらずの荒れ地である。前庭では、冬野菜の苗に何組もの紋白蝶がひらひらとたかっている。虫除けをしなければ、菜っ葉の類が穴だらけになるだろう。
(あーー、眠てェ……)
南に遠のいている太陽の、柔らかな日差しが深く客間に差し込んでいる。焼けた茶色い畳に転がり、秋の風と陽光を浴びているとあくびが出た。大の字になって伸びをする。思えば、昨夜は睡眠時間も短いし大して夢見も良くなかった。
いつもと変わらぬ庭の風景を――昨日までの日常の延長線にある畑の様子を見て、ようやく家に帰ってきた心地になる。同時に、どっと疲労感が押し寄せた。体が重い。サングラスを外して頭の向こうへ放り、腕を枕に目を閉じる。
行き過ぎた疲労感が、眩暈のように脳を掻きまわす。これは相当だな、と苦笑いする意識を、あっという間に睡魔が呑み込んだ。
――ふと、寒さに震えて目が覚める。ひとつクシャミをして起き上がると、もう太陽は山の向こうへ隠れた後だった。急速に辺りを浸しはじめた夕闇に、虫の声が賑やかだ。母屋を通り抜ける風は冷たく、怜路の体も芯から冷えていた。失敗した、と起き上がって怜路は体を丸める。
まだ淡い黄昏時の外は明るいが、家の中は随分と薄暗い。その、薄闇の端に何か白いものが小さくわだかまっている。
「……白太さん?」
怜路は、そのわだかまりの名を呼んだ。部屋の隅で、まるで怜路の様子を窺うようにとぐろを巻いていた白蛇がおずおずと――なんとも、そうとしか表現しようのない遠慮がちな動きで怜路に寄ってくる。普段、無邪気に突進してくる印象しかなかった白蛇の常ならざる様子に、怜路は不安感を覚えた。白蛇の宿主である美郷は、昨夜倒れている。白蛇にもなにか良くない影響があったのではないか――あるいは、白蛇が怜路の元へ来るのは、美郷に異変があったからではないか。
白蛇に向かって手を差し伸べながら、怜路の脳裏を嫌な想像が巡る。普段よりも倍以上の時間をかけて怜路の元へたどり着いた白蛇は、鎌首をもたげてしばらくそれを、怜路の手に乗せるのを躊躇った。
「おい、どうした。触んねーとわかんねーだろ」
焦れて、怜路は白蛇の顎を触る。びくりと怯えたように震えた白蛇が、今まで聞いたこともない、不安げな思念を漏らした。
――りょうじ、白太さん、すき?
窺うような問いに、咄嗟に怜路は答えを返せなかった。
迷ったからではない。今ここで、わざわざ白蛇がそれを問うのは――それも、酷く不安げなのはなぜか、様々な可能性が頭の中を埋め尽くしたからだ。
「当たり前だろ。俺ァ、好きでもねー奴に貢ぐようなマゾじゃねーぞ?」
言って、今は常識的なサイズをした白い蛇体を抱き上げる。最近は、この白蛇の「おやつ」を得られそうな仕事があれば率先して受けている。どんな厄介な物でも、安全に最終処分できて割が良い――白蛇の口に放り込めば良いだけなので、怜路の負担が少ないのも理由ではある。だがなにより、「おやつ」にはしゃぐ白蛇を餌付けするのが楽しいのだ。怜路にとっての白蛇は、無邪気で可愛いコンパニオンアニマルだった。
白蛇は迷うように頭を揺らした後、躊躇いがちにその身を怜路に預けた。
――ひろせ、白太さんきらい。
やはりそのことか、と内心深くため息を吐く。昨日の昼間、広瀬が蛇を苦手だと口走った時から、嫌な予感はしていたのだ。そうしたら、夜にはあの事態である。嫌な予感というのは侮れない。
――みさと、白太さんイヤ。
続いた言葉に、怜路は眉根を寄せた。思わず白蛇の胴を持つ手に力が籠り、白蛇が悲鳴を上げる。
「悪ィ、ビックリしただけだ……美郷がなんだって?」
この白蛇は美郷の分身だ。特殊な事情で得た、特殊な分身に思い悩んでいたことも知っているが、最近はすっかり和解したものとばかり思っていた。
(まあ……考えてみりゃあ、そんなに簡単にサッパリ割り切れるワケもねーか……)
――何度克服して、受け入れたつもりになっても、ふとした拍子に耐え難く感じる。そんな、自身の「特殊さ」を疎んじる気持ちは、怜路にも馴染みのあるものだ。美郷にとっての白蛇や「蛇喰い」という過去同様、怜路は天狗眼や「天狗の養い子」という特殊な成育歴は、怜路の人生に常に「普通でないこと」として付きまとって来た。それらを全く気にせず――疎んじずに生きるということは、口で言うほど容易ではない。
――白太さん、鬼きらい。白太さん、鬼、あっちいけする。みさと、めっ、って。
「白太さん、鬼嫌いか」
――きらい。鬼、黒いのいっしょ。
黒いの、というのが何のことかは分からないが、元々白蛇は人間の情念や霊を好まない。鬼は白蛇の好む自然霊・器物霊とは異なり、人間がその強い情念を以て現身を捨てた姿――つまり、人間の情念の塊だ。当然「おやつ」ではない。だがそれ以上に、白蛇はあの怨鬼が嫌いなようである。
――鬼、みさと食べた黒いの、おんなじ。みさと、黒いのきらい。みさと、蛇きらい。白太さん、みさと、おんなじ。白太さん、黒いのきらい……。
狩野家の貧乏下宿人は「鳴神の蛇喰い」と、大変華々しい二つ名を持つ。彼はその名の通り、蠱毒の蛇を喰った。美郷の喰った蛇は、送り主の怨念や憎悪を宿して真っ黒いものだったと、怜路も以前に聞いている。己を突然、理不尽に死の縁まで追いやった蛇蟲を、美郷が嫌うのは当然だろう。
白蛇の思念は、怜路に伝えようとしているというよりも、戸惑いと悲しみのままにただ呟いているようだった。
美郷と白蛇は「同じもの」だ。その美郷が忌む怨念と憎悪の塊を、白蛇もまた忌む。しかし、美郷が忌むそれは「蛇」でもあった。
美郷と白蛇は同一の存在である。しかし、美郷は――蛇を、忌んでいる。
(自己否定、か)
怜路の腕に遠慮がちに胴を絡め、白蛇は途方に暮れた様子だ。怜路はその胴をそっと掴んでいる親指で、優しく白蛇の腹を撫でた。
「……大丈夫だ、白太さん。美郷が白太さんを嫌いでも、俺ァ白太さんが好きだよ」
春先の公園で初めて見た時から、怜路にとっての「宮澤美郷」は白蛇込みの存在である。その当初、美郷の中に隠れているものが「何」なのかは分からなかった。だが怜路はその「何かを飼っている存在」としての宮澤美郷を――狗神に対する煙幕という打算も含めて望み、この家に招き入れたのだ。
加えて、単純にこの白蛇は、
刻一刻と薄闇に浸されてゆく何もない部屋で、怜路はしばらく白蛇を慰め……そして、流れ込む秋の夜風に、ひとつ盛大にくしゃみをした。
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