10.2

 はっ。と目を覚ます。

 長く筍杢たけのこもくの板を渡した和室の目透かし天井に、古ぼけた和風のペンダントライトがぶらさがっている。明るく光る障子の向こうで、ちゅぴん、ちゅぴんと長閑に雀が鳴いていた。は、は、と荒く息を吐きながら、美郷は己を見回す。寝巻を着て、自室の布団の中に収まっていた。ぐっしょりと寝汗をかいている。

「ゆ、め……」

 悪夢の名残が、引き波のように遠ざかる。だが、何の夢だったかははっきりと思い出せた。どんな悪夢よりも酷い現実を味わった、あの夜の記憶だ。久しく見ていなかったのになぜ今更と首を捻り、胸の重苦しさに気付く。喉元まで被っていた布団を押さえつけて首を起こすと、胸の上に白いものがわだかまっていた。大きな白蛇だ。

 ふう、と息を吐いて、美郷は再び枕に頭を沈めた。両腕を布団から出して、胸の上にとぐろを巻いた白蛇を掴み、ぐにぐにと揉む。寝巻の筒袖がめくれ上がり、露出した二の腕をひんやりと秋の朝の空気が包んだ。寝汗が急速に冷えていく。

 ――いやー!

 声ならぬ悲鳴を上げた白蛇が、慌てて美郷の上から退く。この白蛇こそが、美郷が喰って取り込んでしまった蛇蠱だ。喰い合いを演じた時とは全く姿が異なるが、これはどうも、美郷と融合してしまった都合らしい。

 送り込まれた蛇蠱を自ら喰らい取り込むことで、美郷は蛇蠱を支配する使役主の鎖を断ち切った。

 代表的な蠱毒の魔物の作り方は、ひとつの壺の中に複数のむしを――この場合ならば蛇を入れて蓋をし、数日間閉じ込めることで中で喰い合いをさせて、残った一匹を使うものである。残った一匹は壺に入れられた蟲の中で、最も生命力と、生への執着が強かったものだ。その蛇蟲が勝ち残った壺の中の喰い合いの延長戦のように、美郷は蛇蠱と「生への執着」で勝負し、勝ったのである。

 結果、蛇蠱は美郷に取り込まれ、美郷の一部としてその意思に従った。そして美郷は呪術によって蛇に籠められた敵の怨嗟や悪意に、己の怒りを上乗せして送り返したのだ。倍増しで返しを食らった相手が、どうなったのかなど美郷は知らない。ただ、半年近く経って帰って来た蛇は、何故か真っ白に脱色して大変無害そうな姿になっていた。

 普段、この蛇はよく美郷の就寝中に抜け出して散歩をするが、特に悪さはせず美郷が目覚める頃には体内に戻ってきている。一体なぜ、今日に限って胸の上で眠るなどと悪夢を招くようなことをしたのか。

「なんで帰って来ないんだよお前」

 ――美郷、白太しろたさん入れない。白太さん、美郷出れないイヤ。

 枕元の白蛇が、ぴるる、と舌を出しながら不満を訴えた。ぺちぺちとその尻尾が布団を叩いている。白蛇の名は「白太さん」という。白くなって帰って来た蛇に、美郷がとりあえず付けた名だ。本当は「白太」のつもりだったが、常に「さん」付けで呼んでいたら「さん」まで含めて己の名前と思ってしまったらしい。――普段は、大変ユルい蛇なのだ。あの悪夢のような死闘の相手とは思えない。おそらく蛇の中に入っていた禍々しい情念は、全て蛇の送り主に押し付けてしまった結果だろう。

「入れない……? 出れないって……ああ、そうか昨日……」

 鬼の出没した介護医療院で、鬼の怨気に反応して暴れる白蛇を美郷は無理矢理抑え込んだ。対して、外へ出て鬼を攻撃しようとする白蛇は、内側から美郷を痛めつけたのである。

「久々にお前とやりあったな。まさか、あんなに強く反応するなんて……」

 巴市就職以前は、実はままあったことだ。実家と縁を切って生活を始めた大学時代、美郷は金銭的な事情で狭く壁の薄い学生寮に住んでいた。当然、夜な夜な白蛇を散歩させるわけにもいかない。無理矢理符で封じて暮らしていたので、たまに白蛇が暴れると盛大な返しを食らって具合を悪くしていたのだ。

 布団の傍らに置かれた小さなちゃぶ台の上では、愛用のデジタル時計が午前十時を指している。ボンヤリとそれを見つめ――美郷ははっと我に返った。今日はまだ火曜日、平日だ。

「ちょっ、遅刻ッ――!」

 慌てて飛び起きようとして、半身を起こした美郷の世界がぐらりと回転した。あえなく再び布団に沈む。薄らボンヤリしていた昨晩の記憶が、徐々に甦ってきた。昏倒したのだ。広瀬や怜路の前で。

「最ッ悪だ……!」

 体を縦にした途端襲って来た強烈な吐き気に、美郷は体を丸めて呻く。暴れたおかげで乱れた長い髪が、寝汗で首に貼り付いた。意識を蝕む様々な不快感に這いつくばって、見遣った枕元にメモが置いてあった。

『ヒロセとオレと係長で、サツと話してくる。オメーはねてろ。 怜路』

 非常に画数の少ない省エネなメモを手に取り、美郷は「マジか」と呟いた。傍らにはスポーツドリンクのペットボトルと、ゼリー飲料のパウチが置かれている。痒みを感じて触れた額には、冷却ジェルシートが貼られていた。久しく受けた記憶のない、手厚い看護に驚きとむず痒さを感じる。

 すっかり乾いているジェルシートを剥して、美郷は改めて枕元を確認する。目的の物――スマートフォンを見つけて、ひとまず着信やメッセージがないかをチェックした。上司である芳田からショートメッセージで、美郷は病気休暇である旨を怜路から聞いたと連絡が入っていた。元より家賃滞納気味で立場は弱いのだが、当分大家には頭が上がらないなとぼんやり思う。

 状況が分かったら気が緩んだのか、はたまた体力が限界を迎えたのか、急速に気分が悪化する。頭の中がぐにゃりと回転を始め、美郷はスマホを放り出して布団を被った。怜路と芳田が動いてくれているのならば、美郷が無理を押す必要はないだろう。何より、到底押せるような体調ではない。

(こんな酷いの初めてだ……あんな怨気に当てられたのなんて、『あの時』以来だもんな……)

 怜路が来たのは覚えている。広瀬を庇って白蛇を出し、驚く広瀬から回収して立ち上がった。その間に、怜路が鬼を倒したのも視界の端で見ていた。そこで限界が来てしまい一度は倒れたが、病院から担ぎ出されたところで目は覚めたのだ。既に緊急応援として芳田が到着しており、体を起こしているのも難しかった美郷は、ただ怜路に回収して帰られただけになってしまったが。

(にしたって、情けない…………)

 具合の悪さに自己嫌悪も重なって、気分は最低最悪である。

 こんな程度のことは、今後いくらでも起こりうるだろう。凶悪な怨気や瘴気にあたることも、誰かに白蛇を――宮澤美郷のありようを拒絶され、忌避されることも。広瀬に悪気があったわけでもない。むしろ当然の反応、一般人としては自然な反応だ。いちいちそれを恐れて反応を窺ったり、迷って物事の対処を誤っていては命がいくつあっても足りない。

「白太さん、帰って来いよ……」

 いまだ傍らにとぐろを巻いたままの半身に呼びかける。この蛇は美郷が喰った蛇蠱であると同時に、美郷自身の生への執着そのものでもある。そして、美郷の呪力の本体とも言うべき存在だ。白蛇が美郷を離れていた半年間、美郷は呪力のほとんどを失っていた。当時は呪詛を返した代償とばかり思っていたが、蛇と一緒に戻って来た――というより、呪力を取り戻したいと願ったら白蛇が現れたのだ。

 今更美郷は、この白蛇と自分を切り離すことなどできない。はずだった。

 ――白太さん入れない。美郷、イヤ。

 掛け布団の上に乗った白蛇が、するりと寝巻の合わせに滑り込みながら言う。白蛇は美郷の背中辺りから出入りする。冷たい蛇体が首から背中へと潜り、寝巻と背中の間に頭を突っ込んだまま停止した。

「……嘘だろ」

 呆然と、美郷は呟いた。白蛇はしばらく入り口を探して背中を這いずった後、諦めたように引き返して再び美郷の傍らにとぐろを巻く。

「おれが、拒絶してるのか? 今更お前を?」

 受け入れたと思っていた。何をどう足掻いたところで「宮澤美郷」という存在は、白蛇を体内に飼っている。美郷は人間とも妖魔ともつかぬモノで、それでも現世こちらがわで人として暮らし、現世こちらがわの人々を守る番人としてその力を使うのだと。それなのに。

(恐れて、拒絶してるのか。たった、あの程度のことで)

 鬼の怨気に白蛇が暴れた。蛇が苦手という友人が、白蛇に怯えて悲鳴を上げた。どちらも、これからいくらでも起こりうることだ。美郷が、宮澤美郷として生きて行く限り避けられず、きっと何度でも直面する事態、だ。その度に倒れて仕事に穴を空け、人に迷惑をかけていたのではどうしようもない。

「なんでこんな、弱っちいかなあ……」

 思わず漏れた泣き言は、あまりにも情けなく響いた。白蛇に手を伸ばす。蛇は抵抗せず、美郷に撫でられている。ひんやり、さらさらとした感触が少しだけ美郷を慰めた。

 生きて行く上で、当然引き受けなければならない現実に対して、自分はあまりにも弱い。そのことに絶望的な気持ちになる。ただ生きるだけで、美郷はこれから、どれだけ自分に失望しなければならないのか。

(ああ、嫌だ……。疲れるなあ……)

 殺されるのが嫌で、必死に生にしがみついた。だが、そうしてもぎ取ったのちの人生は、以前に比べて格段に不自由で、難儀なものになった。美郷自身が、耐えうるものか怪しいと思ってしまうほどに。

(疲れる……ああ、気持ち悪い……)

 気分の悪さに耐えきれず目を閉じた。どの体勢でも苦しくて何度も寝返りを打つ。苛立ちまぎれに溜息を吐き、更に枕を抱えて唸る。

 具合が悪いというのは、惨めなものだ。これでは到底、眠ることもできそうにない――そんなことを考えながら、美郷は意識を手放した。

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