六.守山狐

6.1

 6.


 運転手の怜路すら巻き込んで、物の怪の酒盛りが始まる寸前。ギリギリのところでそれを止めたのは山への闖入者だった。四つ足で山を駆け上がり、姫神の庭に二本足で立ちあがった闖入者は――立派な尾を持つ大きな狐だった。慌てた様子で、御龍姫の従者が狐を止めに飛び出す。

「きっ、狐っ……!」

 思わず歓声を上げた美郷は、はっと口に手を当てた。こんな仕事をしているが、美郷は狐狸こりの類に知り合いはいないのだ。既に冬毛らしい豊かな黄金色の毛並と胸元の白い襟巻、見事な太い尾に美郷の心はときめいていた。一身上の都合により、美郷は普段犬猫の毛皮を触れない。生きたモフモフ毛皮は憧れなのだ。

「あらまあ。どうなさいましたの? そんなお急ぎになって」

 狗面鳶翼の山伏姿をした従者――狗賓という物の怪を下がらせ、御龍姫が親しげに尋ねた。

「随分と只事でない様子だな」

「なんでェ、アンタ。何かあったのか」

 草っ原のただなかに作られた宴席から、司箭、怜路も口々に問い掛ける。その相手をよく知った様子に、美郷は目を瞬いた。姫と司箭はともかく、怜路もこんな立派な大狐と知り合いだったのか。

「――鬼が現れました。宮澤さん、狩野さん、お楽しみの所申し訳うありますが、今すぐ私と一緒に来て下さい」

 大狐が美郷らにそう告げる。まじまじと、美郷は目の前の大狐を凝視した。立派な犬歯を見せる大きな口から発せられたのは流暢な人語だ。その声は確かに、美郷にも聞き覚えがあった。

「えっ……その声まさか」

「まあ大変。それで郡山こおりやまから、その御姿で走って来られたのですね。守山狐もりやまぎつね殿」

 まさしくその大狐は、安芸鷹田市職員、守山の声をしていた。

 守山狐。それは毛利元就の時代、尼子との戦で郡山城が攻め込まれた際に毛利の兵士に代わって城を守り、尼子軍を退ける手伝いをしたと伝説に残る狐一族の長だ。その戦功により守山狐は毛利より領地を与えられ、郡山を守っているといわれている。

「……なるほど、毛利氏が長州に減封されてもそのまま郡山に残られて、ずっとこの地を護っておいでだったのですね」

 守山狐は安芸の有名な伝承だ。気付かなかった己を恥じながらも美郷は深く納得した。

「ええ、しかし恥ずかしながら、緑里みどりのような奥里の事情には疎うございましてな。皆様方のお手を煩わすことになっとります」

「い、いえそれは全然……それより、鬼が出たというのは」

 己の不甲斐なさを責める様子の守山に首を振り、美郷は尋ねた。探していた鬼女面が向こうから現れてくれたのか。だとして、守山の様子は司箭の言う通り只事ではない。美郷の問いに我に返った様子で、守山が低く唸るように言った。

「鬼女面に憑かれた男が私らの行っておった高校に現れて、高宮さんのお父上が襲われました。広瀬さんが応戦されて大事には至らんかったようですが、鬼は取り逃がしております」

「広瀬が!?」

 応戦、という単語を口の中で転がす。自分たちが大きなミスを犯したことに気付き、美郷は蒼くなった。獣面でもそれと分かる悔しげな表情で守山が頷く。よりにもよって、チームのなかの「一般人」二人を彼らだけで敵の前に晒してしまったのだ。奥に籠っての調べ物と聞いて、完全に油断していた。

「申し訳ありません。私が先に帰ってしもうたばっかりに……」

 同行していた守山は他の事務仕事を片付けるために、一足早く引き揚げていたそうだ。獣の拳を握り、ぶんっ、と大きく守山が尾を振る。

 広瀬は元々体育会系で、美郷より身体能力も高いだろう。だが、彼はあくまで一般事務職員だ。呪術の心得があるわけでも、武術経験があるわけでもない。一応、護身用の式神は渡していたが、それひとつで鬼と渡り合えるような代物では到底なかった。美郷も拳を握って臍を噛む。

(なにやってるんだ、おれは。何のための専門職だよ……)

「にしたって、なんだってまた高校に……だったよな? なんで由紀子チャンの親父さんよ。偶然か? それともコッチの動きを察知してやがんのか」

 あともう数センチの距離で飲み損ねた盃を御龍姫に返し、酒宴の座から立ち上がった怜路がコキコキと首を鳴らす。

「詳細は分かっておりませんが、鬼はご父君の高宮先生を狙っておったようです。今は警察が先生や広瀬さんから聴取をされて、面に憑かれた男の捜査を始めております。男は己の血の付いた武器をその場に取り落として逃げました。私の鼻で追えるやもしれません、お二人には今すぐ戻られて、広瀬さんと高宮さんの護衛をお願いしとうあります」

 守山の要請に、視線を合わせた美郷と怜路は頷き合った。美郷たちは呪術者、広瀬や由紀子ら「現世こちらがわ」の人々と、その外側に広がる「あちらがわ」の境界を護る番人だ。闇を視る目を持ち、闇と渡り合う力を持つ呪術者は、現世うつしよを背にみぎわの薄闇に立っている。

「あの鬼女面は、不遇な人間を唆してはそれへ憑いてゆかりの者を襲う。面そのものに鬼が憑いておるのだ。この世の全ての怨み、呪って現身うつしみを滅ぼし面へと乗り移った怨鬼えんきがな。その高宮とやらを仕留め損ねたとあらば、高宮を再び襲うやもしれぬし、別のゆかりある人間へと標的を変えたやもしれぬ。某も鼻の利く手下を出そう」

 そう引き受けたのは司箭だった。そこで初めて司箭に気付いた様子の守山が、ピンと大きな耳を立てて目を見開く。

「――司箭殿か。まさかこちらへ帰っておいでとは……御助力頂けるならば心強い。何卒お願いいたします」

「うむ、昔のよしみでな。なにぶん我が領外のこと、あまり大きな手出しはできぬであろうが、出来る限りの手伝いはしよう」

 司箭の言葉に深々と頭を下げ、顔を上げた守山が己の駆け上って来た薄闇へと向き直った。大きくひとつ尾を振ると、辺りに無数の狐火が浮き上がる。狐火は等間隔に整列して、御龍山の異界を包む茫漠とした薄闇の奥へと連なっていく。

「こちらと私の領地を繋がしてもろいました」

 御龍山と郡山にある守山の領地、ふたつの異界を繋ぐ縄目なまめ――物の怪の通り道を使って、車で二十分の距離をショートカットするのだ。縄目の筋を示す狐火を示して、守山が美郷らを促した。

「行きましょう。今は広瀬さん一人に高宮父娘をお任せしております。はよう帰って差し上げませんと」

 広瀬には今まで、妖異との交戦経験などないはずだ。恐らく美郷の渡していた式神を使ってその場をしのいだのだろうが、あれは耐久性のある呪具ではない。次が来る前に誰かが広瀬の援護に行かなければ、と美郷は拳を握る。

「急ぎましょう」

 言って、再び四足で駆け出す大狐の背を追って、美郷らは走り出した。


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