四.高宮由紀子
4.1
4.
ふあぁ、と隣の助手席で大きく貧乏下宿人が欠伸をした。
彼岸を過ぎた秋の夕暮は日に日に早くなっている。黄昏時、まだ「暗い」と感じるほどではないが、怜路はロービームのヘッドライトを点灯させた。見えている、と思っていても存外に、歩行者の輪郭が背景に融けているものだ。
「お疲れさんだな。先週のやつ、超速で片付けてきたのか」
うん、と眠たそうな声が返す。職務熱心な公務員殿は、休日返上で巴の案件を片付けて安芸鷹田へ乗り込んできたらしい。建前は「大家と下宿人」という関係ながら、怜路と美郷はほぼほぼ同居しているのでその辺りは筒抜けである。
「べっつに、俺と広瀬に任せときゃアいいのによ」
愛車のセダンを家に向けて運転しながら怜路は零す。美郷も自分の車を持っているが、どうせ二人一緒に行動するのだからと同乗出勤したのだ。己の薄っぺらい軽自動車よりはよほど座り心地が良いのだろう、今更遠慮もないとばかりにシートを倒した貧乏下宿人が、寝る体勢で「良く言うよ」と笑った。美郷の巴就職と同時に、ひとつ屋根の下に暮し始めて一年半、慣れた距離感に落ち着いた静寂が漂う。
怜路は一年半前、この美貌の貧乏公務員を公園で拾った。
何の誇張でもなく路頭に迷っていたので、だだっ広い一人暮らしの一軒屋に招き入れたのである。なんでも、入居契約したアパートがダブルブッキングされていたそうだ。そんな漫画のような話があるのか耳を疑うところだが、やらかした不動産屋が怜路の得意先だったため、宿無しが確定した美郷が魂の抜けた顔で不動産を出るのとすれ違ったのだ。
気に入らなければすぐにでも別の物件を探せただろうが、同年代の同業者で居心地も良かったのか、格安家賃が気に入ったのか(恐らく主な理由は後者だ)、美郷はそのまま怜路の家の離れに住み着き、そのうち怜路との共用リビングが母屋にでき、なんやかんやと理由をつけては一緒に食事をとることが増えて現在に至る。実家とはゴタゴタがあり断絶したまま苦学したらしく、奨学金という名の借金苦(プラス車のローン)を背負っているため光熱水通信費まで込みで破格な家賃も時々滞納する貧乏人だ。
「時間外勤務ちゃんとつけて稼ぐからいいんだよ。広瀬もお前のお守が大変そうだったし」
ふふふ、と機嫌の良さそうな美郷に怜路は片眉を上げた。赤信号で停車し、傍らを流し見る。
「お守って何だ、俺ァ有能な拝み屋さんだぜ」
「知ってるよ。けど広瀬と組むのなんて初めてだろ? あいつ常識人だからお前相手じゃ余計な気苦労多いだろうと思って」
目元は腕に覆われ、形の良い唇だけが笑んでいる。広瀬は怜路や美郷のような「業界人」ではない――という意味ではないだろう。「ンだとォ」と返したところで信号が青に変わった。この交差点を過ぎて、次のカーブで脇に入れば家までの近道だ。辺りはあっという間に暮れてライト無しでは走れない暗さになっている。
「――そうだ怜路。
「ンだよ、まーだ働く気か」
脇道を入らず、このまま幹線を走って暫くすれば
「明日でよくね?」
「こういうのは早めに動いとくほうがいいよ、何となく。……っと。なんか凄い嫌な感じがする。何にも伝説が残ってないのが凄くイヤ」
やる気が起きてしまったらしく、シートを起こして公務員陰陽師がフロントガラスを睨む。崩れた纏め髪を一度解いて手櫛で梳き、ひっつめ直す様子がガラスに透けて映った。日本人形のように白く整った顔が、切れ長の目に鋭い眼光を宿す。普段はすっとぼけた顔ばかりしている貧乏公務員だが、実は大きな神道系一門出身のエリート様なのだ、宮澤美郷という男は。――便宜上陰陽師と呼んでいるが、本人はこの呼び方を嫌う。正確に表現すれば、民間陰陽道の流れを汲む神道系呪術者、といったところか。
「第六感、か。しゃーねえな」
呪術者の感じる虫の知らせを無視はできない。それに、伝説が何もないのは怜路にとっても嫌な感触だった。
言っている間に、既に近道への入り口は過ぎた。大きなカーブを車は曲がる。しばらくその後直線が続き、トンネルをくぐれば目的地だ。道路脇にひっそりと佇む史跡を示す案内板と、苔むした鳥居がヘッドライトに照らされる。コッチ、コッチ、コッチとウインカーの音が車内に響いた。
路側帯に停車する。目指す鳥居は道路のすぐ傍に、コンクリートブロックの垣根に守られて慎ましく建っている。背の低い鳥居を潜り上る石段は木々に隠れ、もうすっかり暮れたこの時間では真闇の奥へと続いて見えた。
余人にはおどろに見えても、怜路らにとっては勝手知ったる場所だ。トレードマークのサングラスを外した怜路は、明かりもつけず石段に足をかける。『天狗眼』と呼ばれる怜路の特殊な両眼は日常生活には視え過ぎて不便なのだが、闇を視るにはうってつけだ。急で凹凸の激しい石段を苦もなく数段上ると、鎮守の木々に天を覆われ一度真っ暗になった視界が薄明りに包まれる。――『異界』へ入った証拠だ。
ここから先は、
御龍山を支配するのは龍の姫君だ。室町時代、ここに居を構えた領主に請われて顕現し、御龍山に湧水を与えた姫神、それが美郷の「顔見知り」だった。領主に与えられた桜の世話をするのが生き甲斐という、穏やかで気の良い姫君である。
光源の判然としない薄明りが、少し靄のかかった空間を浮かび上がらせている。足元にも影は落ちず、天を見上げても木立が闇を作って空は見えない。まるで曇天の日の夕刻のような、仄かに紅く、ぼんやりとした明るさが周囲を満たしている。
「――ッ!?」
不意に殺気が怜路のうなじを撫でた。
反射的に出所を探りながらポケットに手を突っ込む。
頭上から飛来した何かを、怜路の握る
「美郷伏せろ!」
狙いは自分ではない。振り返った怜路の指示に、美郷が慌てて頭を庇ってしゃがみ込む。
天狗を名乗る男に山野と路地裏を連れ回されて育ち、十五、六の頃から場末の拝み屋をやってきた怜路と、苦学とはいえ当たり前に大学を出て公務員になった美郷では踏んだ荒事の場数が違う。素直に怜路の指示に従った下宿人を守るように、怜路は独鈷杵を構えた。
独鈷杵とは密教僧や修験者等が使う法具――すなわち、呪術的な武器である。独鈷杵は片手で握る柄の両側に槍の刃がついている、仏教とともに天竺から渡って来た武器だ。
きぃん、と高く金属音が再び響く。更にもう一撃。
怜路に弾かれた攻撃のひとつが、石段傍らの木の幹に突き立った。
「――
驚いたように美郷がその名を呼ぶ。別名チャクラム、環状の金属の外縁が刃になっている、殺傷能力の高い
「クソっ、誰だンなもん投げつけて来やがって!!」
言って、傍らに落ちた円月輪を掴み、怜路は敵の気配がする方へそれを投げた。木々の小枝を刈りながら奥の人影を狙った円月輪が、木立の奥で何者かに弾かれる。
「俺が炙り出す。構えとけ」
「う、うん」
陽動を買って出て、一段上の石に足を掛けた怜路の後ろで、美郷が体勢を立て直す。それを確かめ、怜路の意識が木立の奥の敵に逸れた一瞬だった。
「うわっ!?」
突然横から飛び出して来た小さな影に、美郷が石段を突き落された。
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