鬼女の慟哭~クシナダ異聞~

歌峰由子

 道と道の交わる辻は、異なる世界の接合点、魔のモノが現れる特別な場所とされる。

 がれ時の交差点で、歩行者信号の青が点滅を始めた。盆地に広がる市街地を迂回して山際を走る国道バイパスに、街から出るための橋が交わる十字路だ。市街地から帰路に就く車が押し寄せて、なんとか信号をすり抜けようとブレーキランプの赤を明滅させる。空は薄紫色から濃藍へとグラデーションを描き、歩く人影は背景と車のライトの陰影に輪郭を溶かしていた。

 歩行者信号が赤になった。

 車両用信号が変わる前に何とか国道に折れたい車が、車間距離をギリギリまで詰めて交差点に突っ込んでゆく。

 不意にけたたましいブレーキ音が響いた。どんっ、ガシャン。と、衝突音が続く。右折に焦っていた車が、向かいから直進する原付に気付かなかったのだ。正面から撥ね飛ばされた原付が横転して交差点を滑る。急ハンドルを切った車は赤信号で停車している国道側の対向車に突っ込んだ。更に後続車の追突が重なる。

 死者二名、重傷者三名。軽傷まで合わせれば十名近くの被害を出したその事故は、管轄した県警にとっても数年に一度の大事故だった。




 薄暮に歩行者信号の青が明滅している。

 逢魔が時の交差点に車の影はひとつもない。田舎街、通勤ラッシュのない日曜とはいえ、幹線道路と市街地の接点を全面通行止めにしたのだ。他の道は相当混雑しているだろう。

「――制限時間、十五分……か」

 あまり長い間は止めていられない。

 異様な静寂に沈む交差点の真ん中で、腕時計を見ながら青年が呟いた。白くつるりと整った顔立ちの、細身の男だ。

 季節は春、桜の蕾もほころび始める頃合いだが、日が暮れれば一気に気温は下がる。いかにも事務所の作業着然とした真っ赤なジャケットの肩をひとつ震わせ、青年は信号を見上げた。

 歩行者信号は、まだ青を点滅させている。

 一段と冷たい風が一陣舞って、青年の濡れ羽色の髪を煽った。後頭部でひとつに括られた、丁寧にくしけずられた長い髪が翻る。

 ――あんなことが起きなければ。

 風の音に悲痛な嘆きが混じる。

 ――巻き戻せればよいのに。

 道路端には、いくつもの献花が重なっている。

 ――止まれ、止まれ、止まれ――!!

「もう、遅いんです」

 目を伏せ、風の悲鳴に耳を傾けていた青年が静かに言った。歩行者信号はヒステリックに青を点滅させたままだ。青年は、悲鳴を上げている「本体」を探して注意深く周囲を見回す。

「時間は戻らない。起きてしまったことは消えない。亡くなった人は、戻って来ません」

 静かに、静かに、凪いだ声音で青年は諭す。男性としては少し高めの、澄んで涼やかな声音はどこか、嘆きの主を慰めあやす色を持って響いた。

 ――嫌だ!

 ――こんな、こんなことは……!

 献花を吹き散らしてつむじ風が起こる。傍らの桜から花芽を引き千切り、身を捩って駄々をこねるように交差点を吹き荒れる。その中心に、青年は騒動を引き起こしている「核」をみつけた。

(小さい……人形、ぬいぐるみのキーホルダーかな。原付に乗ってた女性のものか……)

 右折車に撥ねられて死亡したのは若い女性だった。彼女が大切にしていたキーホルダーに、その事故に居合わせた人々と、事故で大切な相手を亡くした人々の無念が凝ったのだろう。派手に散らばった原付の荷物を、全て回収できなかったのが直接の原因か。

(場所が場所だし。四つ辻で、しかも橋のたもとで、逢魔が時って条件揃い過ぎでしょうよ)

 内心、呆れ半分の溜息を吐く。

 中国山地のなだらかな山々に囲まれ、水源豊かな盆地に発展したこの街は歴史が古く、山霊の気配が濃い土地柄だ。しかしそれゆえ管理もされているし、人の出入りや変化も緩やかで空気が荒れることも少ない。これだけ条件が揃わなければ、いかに片田舎では珍しい大事故といっても化けて出るものはなかっただろう。

 あの事故からしばらくして、歩行者信号が頻繁に故障するようになった。いつまで経っても青を点滅させたまま、赤に変わらないのだ。交換してもすぐに同じ現象を起こすし、ならばいっそ電源を切って手旗で対応しても勝手に電源が入って明滅する。

 その現象が起こるのは夕方のほんのひと時だけ、元々あまり歩行者利用のない交差点ではあるが、流石にいつまでも放置はしておけない。

 そんな依頼が警察署から届き、解決のため青年が出動したわけである。

「そうやって、大勢の無念ばかりを背負い込んでいては苦しいだろう。楽になりなさい、その無念は、お前のものではないよ」

 言って右手の二指を立てて刀印を組み、四縦五横の九字を切る。

「臨兵闘者皆陣烈在前! 清く陽なるものは仮初めにも穢るることなし。祓い給い、清め給え。天火清明、天水清明、天風清明、急々如律令!」

 ぱんっ! と高らかに柏手を鳴らす。乾いた音に吹き散らされて、とぐろを巻いていたつむじ風が解けた。中からぱさりと、小さく草臥れたぬいぐるみのキーホルダーがアスファルトに落ちる。ふう、と安堵の息を吐いた青年がぬいぐるみを拾い上げた。

「ご家族の所へ届けてあげるから、今度はちゃんと持ち主のところで眠るといい」

 言って、ぬいぐるみを懐に納める。再び腕時計を確認して頷いた。

「よし。十二分で完了! ッ……へっくしょん!! あーさむさむ。やっぱもう一枚着て来るんだった……」

 体を縮めて両腕をさする青年の胸ポケットで、顔写真付きの名札が揺れる。

 巴市役所 総務部危機管理課 特殊自然災害係主事しゅじ宮澤美郷みやざわみさと

 温和に整った容貌に長い黒髪の彼は、広島県北の田舎町「ともえ市」に勤める公務員であった。

「――でも時間外手当付くし、来月ちょっと楽かな」

 ちなみに、貧乏である。

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