プロローグ
ああ、これがきっと老いの始まりなのだ。
冬休みの高校にて、俺は一人静かに悲しき真実を悟る。
目の前で白熱する職員会議。しかしそれは、絵画の中のどこか遠くの風景を見ているようでもあった。きっと今までなら最前線で熱く論議をぶつけていたのだろうが、今年度は弁を振るう気力が湧いて出ることはない。
さらには、活力に溢れる若さの具体例が目の前に大勢いるのだ。
「生徒の自主性を重んじるのが我が校じゃないですか!」
「教頭先生方もそれはご存知でしょうに、どうしてこんな仕打ちを……」
「そうですよっ! 部員の引退を待たずしてすぐさま廃部だなんて、いくらなんでも酷が過ぎます」
必死な形相で抗議する若手教師たち。
しかし、その声は教頭の心を動かすには至らない。
「自主性を尊重することと、野放しにすることは根本的に違う。自由には大きな責任が伴うのだ。話を聞くに、彼はその塩梅を間違えたようだ。だから、それ相応の責任を果たすのは当然とも言えよう」
「ですがッ」
「部員は彼たった一人、生徒会が設けた制度のおかげで予算は潤沢。これほど自由を謳歌できる環境はそうそうない。しかし、それを与えられた彼の所業はどう見ても問題児のそれではないか。どこに許容の余地があるのかね?」
教頭の正論に、若手教師たちは言葉を失った。
弁論の種が尽きた彼らから、ふいにこちらへと視線が向けられる。藁にも縋る様子で『先生もなんとか言ってくださいよ』と目つきだけで訴えかけていた。
しかしながら、俺にも反論できる言い分も、ましてや気力もない。
若手からの眼差しは次第に期待から失望へと変化する。無茶を言うな、と俺は心の中で毒づいた。
一部始終を微笑みながら静観していた校長が、ゆっくりと立ち上がる。
「これ以上の反論はないようだ。では当初の提案通り、生物部は新年度を待たずして廃部とする。それで構わないかね——」
仕草も口調も柔らかだ。
だが、温和な笑顔の中に跳ね返し難いほどの圧力が込められている。そしておそらく、その矛先に俺は心当たりがある。
「——生物部顧問、
職員会議に参加する全員の目が、俺の方に向けられていた。
おおかた最終決定を委ねられるのは予想がついていた。しかし、いざその時になると想像以上に胸糞が悪い。老いを突きつけられ、会議の渦中に引き摺り込まれ、最終決定の責任を負わされ。不快でないという方が無理だろう。
ひとたび首を縦に振れば、全てが片付く沈黙の地獄。
——段々と腹が立ってきた。
改めて、俺は校長に面と向き合う。周囲には固唾を飲んで見守る若手の教員たち。彼らに、年の功が成せる『本当の戦い方』を見せてやらねばならない。
「自由には責任が伴う。ごもっともです。彼も、ついでに監督不届だった私も、それ相応の責任を負うべきであるとの意見に関しては同意せざるを得ない」
「ふむ」
「ですが、何も廃部だけが唯一の償い方とは限らないでしょう」
胸ポケットから、薄緑色の封筒を取り出す。
しばらく首を傾げていた校長が、驚くあまり「ほう」と声を上げた。元々理科の教員だったこともあり、他の面々に比べて状況の理解が早い。
「なるほど。それは……」
「ええ、校長先生のお考えの通りです。彼が生物部の名義で申請しました」
封筒表面に踊る『研究助成金』の文字。その額を告げたが最後、会議室に動揺が迸った。予想通りのリアクションを追い風に、俺は最後の仕上げにかかる。
「これほど高額な申請が通った以上、生物部の廃部は困難。ですから、ここは一つ彼を信じてみませんか。普段の素行不良を帳消しにできるくらいの研究を、彼ならきっと結実させてくれるでしょうから」
どうかお願いします、と頭を下げる。
校長の口から了承の声を引き出すまで、数秒とかからなかった。『頑張りたまえ』との一言を残し、校長は渋面を浮かべる教頭共々会議室を後にした。
張り詰めていた空気が、途端に緩みを帯びる。ざわめきは次第に大きくなり、歓声へと変わる。
「天谷先生、やりましたね!」
「俺たちもあの頭の硬い教頭にギャフンと言わせたかったんすよ」
「もう、切り札があるなら最初から使ってくださいよ。私たちの抗議が骨折り損じゃないですか」
はしゃぐ若手教員たちがつい先程まで俺に半眼を剥いていたことは、気分がいいので忘れることにする。彼らには教頭に一泡吹かせる計画のエキストラとして役立ってもらったのだ。これ以上文句は言うまい。
さて、ここまでは全て想定した通り。
ここから先は、俺ではなく生物部の正念場だ。
「彼ならきっと見つけてくれるだろうな……」
「天谷先生、何か言いました?」
「いや。なんでもない」
やはり、誰かの期待に応えることは俺には向いていない。
自分ではなし得ないことを達成できる誰かに期待する方が、悔しいことにきっと性に合うのだろう。いや、性に合う合わないではなく、そう感じ始めた頃合いこそが老いへの入り口なのかもしれない。
まあ仕方あるまい。
三十代も半ばを過ぎた。若手の教員や高校生たちが眩しく見えてしまうことも、いくらかは許される歳だろう。
手元の薄緑色の封筒に目を落とす。
その宛名には飾らない明朝体で『
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