毒牙

猫之 ひたい

毒牙

 湯気を立てるティーカップにミルクを入れてゆっくりとかきまぜる。

 静かな部屋に冷房が駆動する小さな音だけがあった。

 国語科準備室。

 そう言われると狭い部屋に色々と授業に必要な資料や本で溢れかえり、非常に雑然とした部屋をイメージしそうなものだけれど、ここはそのイメージからは大きく離れていた。

 広いとは言えないが、圧迫感を覚えるような狭さはない。ドアとは反対の窓からは五面のテニスコートが見え、左手には書架が二本。右手にはちょっとした作業が出来るくらいの広さをもった机が置かれていた。

 紙や本を扱うことが多いから本来はあまり褒められたことじゃないけれど、ここの主となっている国語科教師、[[rb:桐ケ谷 > きりがや]][[rb:奏 > かなで]]はここにティーセットを持ちこんでいた。


「あまり紅茶の種類を知っているわけでも詳しいわけでもないから、味や風味のことは少し大目に見てね」


 言って、桐ケ谷はゆっくりと自分のティーカップに口をつける。

 目の前の少女は、「はい」とだけ返事をしたが、やはり心ここにあらずの様子だった。

 [[rb:笹倉 > ささくら]][[rb:真奈美 > まなみ]]。この[[rb:清翔 > せいしょう]]女子学園中等部の二年生。あまり長くない髪を後ろで二つに結んだ姿は活発な印象を持たせるが、実際は書道部に所属する、どちらかと言えば文化系の子だった。

 大人しい性格で授業で積極的に発言をするわけでもないが、国語の成績は良く、散文詩なんて書かせたりすると人一倍繊細な姿を見せることがある。それに、授業ではあまりしゃべらないものの、授業の後の質問や軽い雑談など桐ケ谷と言葉を交わす機会は普通の生徒より多かった。

 ただ、それでも今日のように「相談がある」と言って準備室を訪ねてきたことは初めてのことだった。

 その表情がいつになく真剣で、単に授業の内容を質問しに来たといったような様子ではなかったので、桐ケ谷は笹倉を部屋の中に通し、こうして紅茶を振る舞っているというわけである。


「………………」


 笹倉がここに来てもうすぐ十五分。彼女は時折視線を右左にやって迷うような仕草を見せるのだが、口を開こうとはしない。

 しかし、ここで焦ってはいけない。

 焦れてこちらから何かを聞こうと質問すれば彼女は少しでも口にしようとしたものを再び腹の底にしまってしまうだろう。

 桐ケ谷は何も『良い先生』を演じる気は毛頭なかったが、彼女のような子に優しく接したいという気持ちは紛れもない本心だった。

 ティーカップを口に運び、自然に馴染む程度に紅が引かれた唇を湿らす程度に紅茶を味わう。

 このくらいの年頃の子を静かに愛でるのも悪くない。

 小学生では少し幼すぎるし、まだ直情的に動き過ぎる子が多い。このような場面で静かに、されど自分の中で大きく渦巻く想いに翻弄されるような子はほとんどいないだろう。

 かと言って高校生では逆に大きくなり過ぎている。この学園のような全寮制の中高一貫のお嬢さま校ではそうでもないかもしれないけれど、高校生ではもう『女の子』でなく『女』になってしまっている子も珍しくない。半端に大人の意識があるからか、教師に対して対等な立場であろうとする子も多いだろう。そういう子はあまり自身の隙を見せず……言うなれば、愛でるには花が咲き過ぎているのだ。

 そういった子に比べ中学生のこの時期は、ようやく蕾が柔らかくなり、花が開きかけている時期で、開いた時のその芳しい薫りと美しさを想像させると共に、蕾の可愛らしさを愛でることが出来る。

 桐ケ谷は静かにカップを傾けながら、目の前で悩む少女の愛らしさを愉しんでいた。

 幼さの残る顔つきに、子供らしい頬は紅く、化粧などで取り繕ったような美しさではない本来あるべきの可愛らしさがある。

 と、


「あの……桐ケ谷先生」

「うん?」


 笹倉が視線をこちらに向けないままに口を開いた。桐ケ谷は小首を傾げ、どんな言葉でも受け止めてあげられるような優しい表情を顔に作ってやる。


「迷惑ですよね……こんな風にただ居るだけで、何もしゃべらないなんて……」

「あら、どうして?」

「だって、明日の授業の準備とか、先生は学生とは違って暇じゃないと思いますし……」

「確かにそうそう暇を持て余している、というわけじゃないわね」


 桐ケ谷の言葉にびくりと僅かに笹倉の体が震え、少しためらいがちに桐ケ谷を見やった。上目遣いになっている視線がまた一段といじらしさを感じさせる。


「でも、そんなことは今この時間のことを考えれば瑣末なものなのよ」

「え?」

「笹倉さんは今、ここに居るだけ、って言ったけれど、何も考えていないわけじゃないでしょう?」

「それは……はい……」

「何も考えてないでぼぅっとここにいるのだとしたら私も怒るかもしれないけれど、貴女はそうじゃないもの。現実では何も変わっていないかもしれないし、動いていないかもしれない。でも、貴女の心の中ではちゃんと物事が動いてる。考えてる。もしそういったことをするのにこの場所が役立っているのだとしたらそれは決して無駄なものじゃないわ」

「そう、なんでしょうか?」

「ええ。私だって、もちろん授業の準備も大切なことだけれど、貴女たちの先生なんだもの。生徒のことを一番に考えられるのが教師にとって最も大切なことなんじゃないかと思ってるわ」


 言いながら、どの口がそれを言うか、と桐ケ谷は内心で自分のことを笑った。

 確かに生徒のことを大切に考えているのは事実だけれど、それは全て桐ケ谷が彼女たちのような蕾を愛で、その青い果実を頬張るためのものだ。優しい言葉と態度で彼女たちをもてなしておきながら、その後ろではどうやって彼女たちを貪ろうかと画策している。ヘンゼルとグレーテルの魔女と言っていいだろう。もっとも、桐ケ谷は教師になってからの六年間、物語の魔女のような間抜けな失敗をしたことはなかったけれど。


「だから、笹倉さんがそのことを気に病む必要はないの。ここでたくさん悩めば良い。たくさん考えれば良い。それで、もし何かしゃべりたいことがあれば、私はいつでもその話を聞いてあげるわ」


 優しく、それこそまるで母が子を撫でるかのような手つきで桐ケ谷が笹倉の頭を撫でると、彼女は少し照れくさそうに小さく笑った。

 多少身体が成長していてもまだ中学生。全寮制のこの学校で暮らすのは寂しい思いをすることもあるだろう。

 桐ケ谷はそこにつけいることが多く、そうすると徐々に見えてくる。

 この子は「そう」なのか、「そうじゃない」のか?

 ニオイを感じ取ると言っても良いかもしれない。多感な時期でセクシャリティだって固まりきっているわけじゃない。

 それでも、素質がある子はこのくらいの年からその気配を漂わせている。桐ケ谷はその微かな気配を感じ取り、それこそ獲物を狙い地を這う蛇のように音を立てずにゆっくりと近づいていく。

 桐ケ谷が自分の性質にはっきりと気づいたのはいつだっただろうか?

 小学生や中学生の時に妙に気になる同性の子がいたりはしたけれど、最初に明確に意識したのは、自発的なものでなく、高校で良くしてもらっていた同性の先輩から告白された時だった。

 それまで男の子というものと交流がなかったわけではない。遊びに行くこともあったし、告白もされたことがあった。けれど、いくらそういう機会があっても桐ケ谷は友人以上の関係になる気が起きず、『恋愛というものは私とは縁遠い、それこそ流行りの歌の中のもの』だけだった。

 きっと、私は他の人より精神的な成長が遅くて、まだ恋というものに興味がわかないに違いない。

 そう思っていたのに、同性の先輩に告白されてから桐ケ谷は自分が「そう」なのだとまるで一筋の光もない真暗な部屋からいきなり太陽の光が降り注ぐ外へと連れ出されたかのように気づかされた。

 それからというもの桐ケ谷は同年代や少し年上の女性と何人も付き合った。

 可愛い子もいれば、カッコいい人もいた。社会で爪はじきにされているような子もいれば、いわゆるお嬢さまで、とても社会的な立場という意味では桐ケ谷と釣り合うような立場でない子もいた。桐ケ谷はそういう人に受けの良い顔をしており、相手には困らなかった。選り取り見取りと言うと言い過ぎだが、それでも不自由がなかったのは事実だろう。おしゃべりやデートはそれなりに楽しかったし、セックスは気持ち良かった。

 しかし、どれも長続きはしなかった。

 色んな人と付き合った。

 けれど、満たされることはなかった。


「……先生、少し前に授業で配った資料のことを覚えていますか?」


 桐ケ谷がそんな風に昔を思い出していると、笹倉がおそるおそるというような様子で言った。おっかなびっくり。まるで悪戯がばれた時の仔猫のようなものを思わせる。

 ……あれのことか。

 思い当たる節がある。けれど、桐ケ谷は人差し指を唇にやって、少し考えるような仕草をした。自分で話を進めては意味がない。こういうものは彼女の方から少しずつでも開いていってもらわないと進展しないのだ。


「……ごめんなさい、どれのことかしら? 中原中也の詩? 確か、山羊の歌からいくつか配ったはずだけれど」


 全く見当違いのことを言ってみる。すると、笹倉は小さくかぶりを振って、「違います」と言った。


「他には……そうね、結構私、授業で資料を配ってしまうから、こういう時には困ってしまうわ。少し配る量を減らした方が良いかしら? 貴女たちも整理するのに随分と手間でしょう? 私の趣味で色々と押しつけられても困ってしまうわよね」

「そんな、先生の資料はとても面白いです!」


 少し自虐的に桐ケ谷が言うと、慌てたように笹倉が否定する。

 文字に興味のない子にとっては桐ケ谷の授業や資料はテストのために整理しなければいけない荷物だけれど、彼女のように少しでも興味のある子には、琴線に触れるようなチョイスをしている。


「他の先生のは……何と言うか、事務的でいかにも勉強っていう感じなんですけど、先生のはそういうのがなくて……」

「別にお世辞を言ってくれなくても良いのよ? 本当に自分の趣味であれこれやってしまっているだけだから」

「お世辞なんかじゃありません。私、本当に先生の授業が好きです」

「本当? だとしたら、嬉しい限りだわ」


 なんて言いながら、まだ、先生の「授業」が、ということに道のりの遠さを感じる。この分だと笹倉が身も心も開いてくれうまでのゴールは少し先のようだ。

 女子しかいない学園生活の中、見目という点においてあか抜けている桐ケ谷に最初から好意を寄せてくれる子もいる。年齢は一回り年上になってしまうけれど、それでも彼女たちの母親よりは随分若く、姉のような感じで慕ってくれる子も少なくない。

 加えて言うなら桐ケ谷は恋愛経験のないだろう生徒たちと比べたらかなりの経験者だ。どこをどうくすぐれば彼女たちが自分の方に落ちてくれるかツボは心得ている。憧憬の情なんて持ってくれていたら一発だ。

 生徒みんなを可愛がる振りをしながら、こっそりとその子だけを特別扱いして、二人きりの時にちょっと甘い言葉を囁いてあげれば、彼女たちは実に簡単に幼さの残る身体を桐ケ谷へと開いてくれる。

 でも、たまには遠くの獲物を狙うのもまた一興だろう。


「話が逸れてしまったわね。元に戻しましょうか。こういう時、なんて言うか知っている?」

「えっと……閑話休題、ですか?」

「正解。笹倉さんには簡単すぎたわね」


 照れたように笹倉が笑う。あどけない顔にえくぼが出来て、心がそそられる。変な情欲がないそこには無垢の塊が見てとれて心が逸りそうになる。真白な新雪が積もったかのようなそれを踏みにじり、愛欲でドロドロにしてみたい。そんなことを思ってしまう。だけど、焦りは禁物だ。


「先生の方は全然ダメだわ。授業で配った資料、って言われても全然わからなくて。教えてもらえるかしら?」


 言うと、笹倉は照れた表情のまま、「その……」と言葉を濁らせた。視線を少し迷わせるけれど、今度ははっきりと口にしてくれる。


「川端康成です」

「ああ、伊豆の踊子ね」


 桐ケ谷は再びとぼけてみせた。それに笹倉は頬を紅くする。


「えっと……そうじゃなくて……」


 自分の考えが伝わらないもどかしさと、自分が白状していることへの恥じらい。それが手に取るようにわかる。

 確かに桐ケ谷が授業で配ったのは伊豆の踊子の一部だったが、そこには少しだけ細工をした。たぶん文学に興味のない子だったら何も関心を示さずそのままにしてしまうだろうけれど、興味のある子だけはついつい調べてしまうような、そんな細工。

 そこから行きつく先は、同じ川端康成の『乙女の港』である。


「あの資料に書いてありましたよね? 乙女の港っていう小説があるって。それで私、乙女の港っていう小説を少し調べてみて……」

「読んでみたの?」


 問うと、こくんと笹倉は赤ら顔のまま首を縦に振った。

 この様子からすると彼女は明らかに「素質」を持っているだろう。


「初めて知りました……その、女子校でああいう風習があった、って。あれ、本当のことなんですよね?」

「昔のことだけれどね。そういう風習があったのは確かなことよ。一時期は社会問題にもなったりしたらしいわ」


 笹倉が言っているのは大正時代に女学生の中で往々にして見られた『エス』という関係についてだ。

 簡潔に言うのは非常に難しいし、実際それに関する研究もあるくらいだから、簡潔に言おうとすること自体がそもそも間違っているのかもしれないが、言うなれば、女学生の先輩後輩による疑似恋愛、といったところだろうか? 昨今でも『百合』という言葉で似たようなジャンルがあるらしいものの、最近のは少しサブカルチャーの雰囲気が染みすぎていて桐ケ谷としては少し感覚が違うような気がしていた。

 だからこそ、『百合』ではなく『エス』に反応した笹倉に、桐ケ谷はとてもそそられた。彼女の感情は紛れもなく本物に違いない。


「社会問題に……」

「当時はまだ同性愛といったようなものには理解がない時代だったからね。色々な議論もされたそうよ。とは言っても、エスを直接同性愛と結びつけるのも問題があるのだけれど。実際当時も、あくまでも疑似的なものである、という風に社会的には落ちつけられたんじゃなかったかしら」

「でも、少しはそういう……その、恋愛的な気持ちが、あったんですよね?」


 おずおずと、まるで目に見えないモノの形をその小さな手で触って確かめるかのような慎重さで笹倉が桐ケ谷に問う。その表情はどこか裁判の判決を待つ被告人のような印象があった。

 いや、きっと彼女からしてみたらそのくらいに大きなことなのだろう。

 彼女のような年頃には、大人になってしまえばなんとも些細なことに思えるものがまるで自分の人生全てを握っているかのような感覚を受けることも珍しくない。


「私は当時に生きていたわけじゃないから本当の所はわからないけれど……」


 桐ケ谷はそう前置きをして、


「あったんじゃないかと、私は思っているわ」そう答えた。


 その答えに、少しだけ救われるような、安堵にも似た表情を笹倉が浮かべる。そこに一ヶ所、微かなところだけれど、彼女のむき出しの心に通じる隙間が出来る。桐ケ谷はそれを見逃さない。


「もしかして笹倉さんも似たような気持ちを誰かに感じているの?」


 優しく問いかける桐ケ谷の言葉は、言うなれば、彼女を絡め取る茨のようなものに違いなかった。











「[[rb:則天去私 > そくてんきょし]]。自然の道理に則って生きる……漱石が作った造語ね」


 昨日の部活で書いたという笹倉の作品を見ながら桐ケ谷は何度か頷いた。

 流麗な文字で書かれた行書体には勢いがあるが、所々に彼女らしい繊細さがにじみ出ている……ように思うのはただの勘違いかもしれない。教師になるにあたって一応学問として修めはしたが、桐ケ谷は書道の本格的な経験者でもなんでもない。

 それでも笹倉は心底関心したように言った。


「やっぱり先生はちゃんと意味も由来もご存じなんですね。私なんて先輩から教えてもらうまで読み方もよくわからなかったんです」

「たまたまよ。聞いたことがあって、それが偶然頭の片隅に引っかかっていただけ。もし見せてもらうのが明日だったら忘れてしまっていたかもしれないわ」


 おどけて桐ケ谷が言うと笹倉はくすくすと笑った。

 放課後の国語科準備室。最近は結構な頻度で彼女はここを訪れるようになっていた。

 彼女が自分の中にある感情を告白してきておおよそ一ヶ月。

 彼女の想い人……と言ってしまうのは早計だけれど、とにかく気になっている相手というのは、三年生の先輩らしかった。同じ委員会に所属していて、とてもハキハキしているらしい……なんて言われなくても、桐ケ谷がその子について知らないわけではない。ただでさえ狭い学園だ。大抵の生徒は何かしらの授業で顔を合わせることになるし、特別その気がなくても生徒の顔と名前くらいは覚えてしまう。

 でも、だからこそ桐ケ谷は安心した。その相手の子はとても端正な顔をしていて、桐ケ谷自身も一昨年、その子が一年生だった時に少し誘いをかけてみたのだが、ちっとも乗ってこなかった子だった。おそらく同性相手にときめくような性質は欠片も持ってないのだろう。

 まさかここで出てきた相手が「その気」がある子で、二人が仲良くなってハッピーエンド、なんて結末は桐ケ谷にしてみれば少し物足りない。

 もちろん、年端もいかない少女二人がじゃれ合う姿を愛でるのも悪いことではないし、そういう楽しみ方だってある。けれど、それでは小説を読んでいるのとあまり大差がないだろう。

 このような立場にあって、手を伸ばせば届く距離にあるのだ。自分自身が直接に愛でてみたい、と思うのが桐ケ谷のような「性癖」を持った人間として当たり前のことなのかもしれない。


「それにしても、二年生なのにそんな難しい熟語を書くのね。もっと在り来たりな……そうね、一期一会とか、心機一転、晴耕雨読……そんなものを書くのかと思っていたわ」

「それこそたまたまです。偶然この熟語を目にして、意味を聞いたら、それじゃあ次はこれを書いてみましょうか、ってなっただけで……。言葉は難しくても、字は比較的易しいものでしたから」

「良い出会いね。則天去私。知っておいて損のない言葉だと思うわ」

「だけど、私にはまだまだ難しい言葉です。意味も、言葉の上では一応わかりますけど、本当の意味って言うか……本質みたいなものは全然わからないですし」

「それで良いのよ。むしろ、笹倉さんの年で則天去私の極致にいる子がいたらそら怖いわ。私だってわかっていないもの。私を捨てるどころか、私欲にまみれているんだから」


 そう桐ケ谷が笑うと、笹倉もつられたように笑顔を見せる。

 最初こそ彼女が想っている相手のことを話すことが多かったけれど、最近では今のような雑談をすることの方が多かった。

 もちろん、桐ケ谷がそうなるように仕向けているということもある。

 でも、それ以上に笹倉自身が想い人のことを話すことより、桐ケ谷との会話を徐々にではあるけれど楽しみ始めてくれている証拠だろう。

 第一、笹倉がその想い人と会う機会は月に数回の委員会での集まりしかないし、そこでも積極的な絡みがあるわけでもない。身近に気になる存在が出来てしまえばそれこそ簡単に上書きされてしまう。

 ……そろそろ次のステップに進んで良いのかもしれない。

 桐ケ谷は心の中で小さく舌なめずりをした。


「だから、ここにもこんなものを持ちこんでしまうの」


 言って、彼女がデスクから取り出したのは、外国で売られているクッキーの袋だった。五枚入りでそなりの値段がするが、確かなところが作って輸入しているだけあって味は国内で作られている最高級品と遜色ない。

 蓋を開いて桐ケ谷がそっと机に置いた。


「笹倉さんもどうぞ召し上がって。紅茶によく合うのよ」

「良いんですか?」

「もちろん。ただ、学園へ無断でお菓子を持ちこむのは禁止されてるから、他の皆に内緒に出来るなら、だけどね」


 人差し指を顔の前で立てて、ウインクを一つ。今時古臭いドラマなんかでしか見ないような仕草でも、実際にやると受けが良いことがある。

 実際、笹倉も少し心臓が跳ねたのか、頬を紅くして桐ケ谷から視線をそらせた。

 桐ケ谷にウインクの仕草が似合うと教えてくれたのは高校で二番目に付き合った同級生だった。吊り目がちな目や濡れ羽色の髪の毛と相まってどこか艶麗な雰囲気があるらしく、それから付き合う相手にはたまにこの仕草を見せているが、なるほど、確かに評判は悪くない。

 いただきます、と小さく言って、笹倉が可愛らしい口でクッキーをかじる。その仕草はどこか小動物を思わせて愛くるしい。


「おいしい……」

「でしょう?」


 驚いたように言った彼女に、桐ケ谷は小さく微笑んでみせる。


「このクッキーを教えてくれたのは高校の時の先輩だったの」

「先生が高校生の時の先輩、ですか?」

「そう。もう十年以上昔の話になってしまうわね。私はこんな良い学校の出身じゃなくて、在り来たりな進学校だったけど、すごい色んなコトを知っている先輩でね……私が一年生で、先輩が三年生。体育祭の準備をする時の委員会で一緒になったのがきっかけだったんだけど……少し笹倉さんに似ていたかもしれないわ」

「私に、ですか?」

「ええ。造形じゃなくて、雰囲気がね。涼しげで、話をしていてとても心地の良い人だった」


 クッキーを片手に、興味ありげに笹倉は桐ケ谷の話に耳を傾ける。少なくとも、退屈でつまらない話とは思っていないようだ。食いついてくれたなら、あとは少し強引に引っ張ってしまえば良い。


「その人、実は私が初めてお付き合いした人だったの」


 瞬間、笹倉が息を呑むのが桐ケ谷にもわかった。

 顔には驚きや緊張の表情が出ているけれど嫌悪の色は見られない。やはり笹倉はこちらの素質を持った子らしい。

 少しの沈黙が落ちてくるが、嫌な重たさがある静かさじゃない。

 五秒十秒。

 彼女が言葉に詰まっている間に、桐ケ谷の方から沈黙を破る。嫌な沈黙でなくても、長く続いてしまうと雰囲気を壊してしまう可能性がある。


「ごめんなさい。急に変なことを言ってしまって」

「い、いえ、別に……」

「それでもあまり良い気持ちがしないでしょう? 私が昔に付き合っていた人と似ている、なんて言われたら」

「そ、そんなことないです! ……えっと、光栄、です?」


 笹倉がなんとか場を持たせようとそんなことを口走った。

 彼女自身、自分の言葉がおかしなものだと思ったのだろう。お互いに顔を見合わせて、どちらともなく笑い声をもらしてしまう。くっくっく、と少し堪えるような忍び笑いをして、桐ケ谷が耐えられなかったように本格的に笑い始める。すると、笹倉もくしゃりと顔を歪ませて笑った。

 笑いというのは不思議なものだ。おもしろいから笑う、ということはもちろんあるけれど、その逆に、笑ってしまったからおもしろいことになる、ということもある。

 少なくとも、お互いに心から笑いをこぼしている状態で空気というものが悪くなることはない。笑いは相手との距離を縮めてくれる便利な感情だ。


「先生は今でもその人とお付き合いしてらっしゃるんですか?」


 ひとしきり笑った後で笹倉は本当に素朴な疑問を桐ケ谷に投げた。


「ううん。学校にいた時にはそれこそエスのような関係を結んでいたのだけれど、先輩が大学へ進学すると自然と会う機会が減って、そのまま別れてしまったわ」


 申し訳ないことを聞いたと思ったのか、「ごめんなさい」と慌てて謝る笹倉に、「十年以上前の失恋の傷を引きずっていられるほど繊細じゃないから安心して」と桐ケ谷は笑って見せる。ほっとした表情を笹倉が浮かべる。


「でも、正直に言うと少しだけびっくりしたのよ。笹倉さんがこの部屋を訪ねてきて、エスについてのことを聞いてきた時には。ちょっとだけ昔のことを思い出したわ」

「そうだったんですか……」

「先輩は私をとても可愛がってくれたから。恋の甘さとか、一緒にいる幸福感とか……色んなものを教えてもらったの」


 桐ケ谷の言葉に笹倉は優しい表情を浮かべる。

 柔らかい表現に心地の良い言葉を並べられて悪く感じる人はあまりいないだろう。少なくとも、桐ケ谷の中にある思い出は綺麗なものだと思ってくれるに違いない。

 一方の桐ケ谷は、臆面もなく今のようなことを言ったもののほとんどがでっちあげだった。

 桐ケ谷が初めて付き合ったのは確かに高校時代で、相手は三年生の先輩ではあったけれど、こんな高級なクッキーの存在を教えてもらったことなんてないし、結局その先輩とは何回かデートして、セックスをして、それで終わりだった。

 お互いに顔の造作は整っていたから、付き合っていて悪い気はしなかったけれど、しっくりとはこなかった、というのが本当である。今思えば、身体の相性もそこまで良かったようにも思えない。

 まぁ、それもそうだろう。

 桐ケ谷が心の中で小さく思う。

 桐ケ谷が付き合って本当に心から満たされたのは、笹倉のような中学生を相手にしている時だけだった。花開く前の、少し柔らかくなった蕾たち。そんな彼女たちを愛でている時だけ桐ケ谷は心から楽しめたし、満たされた。

 だからこそ桐ケ谷はこうして中学校の教師なんてものになったわけである。教職という聖職に就くには最も忌憚されるべき人間だろう。

 そんなことは百も承知で、大学生時代に家庭教師をしている時から、こうして学校の教師になった今まで、笹倉だけに限らず多くの生徒を口説き、実際に身体の関係をもってきた。

 教師と生徒という関係で出会ってしまったことを呪うように、まるで前世から結ばれる運命だったかのように愛を囁いては、青い果実の彼女たちを食い荒らす。そして、高校生という「女」になる頃には涙するふりをして――実際、必要だと思った相手には泣いて見せて――別れを惜しむ姿を演出して捨ててきたのだ。


「だから、笹倉さんもこの学校でそんな出会いが出来ることを私は願っているわ」


 そう桐ケ谷は微笑み、笹倉は頬を染める。

 この時にはすでに桐ケ谷から伸びた茨は確かに彼女を捕え、徐々にその身体へと毒を流し始めていた。

 どれだけ落ち着いた雰囲気を持っていようとも相手は恋の一つもしたことのない箱入りの中学生。色恋に熟達した大人の手から逃れるには人生経験が圧倒的に不足していただろう。











 それから、笹倉が桐ケ谷の方へと本格的に転がり始めるのにさほど時間はかからなかった。

 桐ケ谷のような大人の女性が口にする、『初めて付き合った人と似ている』というフレーズは、笹倉たちのような、少し大人へと背伸びをしたくなるような年頃の子にはよく効く言葉の一つだった。

 笹倉も、その話をしてから桐ケ谷をそういう相手と意識し出したのは明らかだった。

 授業中に放課後。それから、寮で過ごしている間。

 彼女はなにかと桐ケ谷を気にするようになって、桐ケ谷もさり気ない仕草でそれに応えてあげると、彼女はいつしかその顔に恥じらいと期待がこもった微笑みを浮かべるようになった。


「先生……すみません、お待たせしましたっ」


 制服のリボンを微かに揺らして、校門前に止めた桐ケ谷の車に笹倉がかけ寄ってくる。

 学校が休みの日でもこの学園の生徒が外出出来るのは基本的に日曜日だけとなっている。それも、門限が夕方の早い時間になっているから、あまり遊び歩きやすい学校とは言えないだろう。まぁ、まだ中学生の子供を預かっている学園側としては、そうそう簡単に外出されて問題を起こされたら面倒だ、というのがあるのだろう。

 学園内には生活必需品や多少の娯楽品を扱った売店があるし、中で暮らしていくのにそうそう不自由があるわけじゃない。それに、生徒のほとんどは育ちの良いお嬢さまばかりだ。遊びたがりの年頃とは言え、寮監である桐ケ谷が直接出向いて学生を叱らなければならない機会は半年に一度あるかどうかといった具合だった。


「まだ十時前よ。焦らなくても大丈夫」


 車の窓を開けて、桐ケ谷が手ぶりで笹倉に助手席の方へまわるように合図を送る。

 国産のクーペ。目が飛び出るほどの高級品ではないが、安物とはまず言えない。大学生の時に桐ケ谷が付き合った相手が本物のお嬢さまで、桐ケ谷の誕生日にまるでちょっと洒落たマグカップを贈ってくるような感覚でキーを渡してきたのだ。

 今日は日曜日で、外出日。桐ケ谷は都合の良い展覧会があったのを良いことに、笹倉と一緒に出かける約束を取りつけていた。

 とは言っても、バリバリのデートというわけではない。端からそのような雰囲気を振りまいてしまうと――もちろん中には喜ぶ子もいるのだが――急に距離がなくなったような気がして気遅れしてしまう子もいる。難しい年頃だ。今回は私用での外出だけど、あくまで学外での部活動という雰囲気を桐ケ谷は保ち、笹倉にも制服を着用するよう指示していた。


「かっこいい車ですね。こんな高そうな車、乗るの初めてかも……」

「安物じゃないけど、そこまで緊張してもらえるほど高いものでもないわ。笹倉さんは家ではどんな車に乗っていたの?」

「うちは弟が二人に妹が一人いるから、なんの変哲もないワゴンです。お父さんもお母さんも……って、私もなんですけど、あんまり車とか興味がなくて。値段もたぶん普通だと思います」


 そんな言葉を交わしながら笹倉がシートベルトを締めたのを確認して桐ケ谷は車を発進させる。

 笹倉の家は確か父親がそれなりの建築士で、一般的な家庭よりは十分裕福だったはずだ。が、子沢山で車にこだわりもなかったらそうなるかもしれない。

 行き先は都内のとある展覧会だった。桐ケ谷が大学の時に少しお世話になっていた教授が趣味でやっていた書道の個展を開いたのだ。もちろん、桐ケ谷がわざわざ顔を出す義理も道理はないのだが、書道繋がりで笹倉を誘うにはちょうど良い理由だった。


「何か音楽でも流しましょうか? スマホとか繋げられるけど、笹倉さんは音楽とか聞いたりする方?」

「音楽はあんまり……流行ってる曲は少し聞いたりしますけど詳しくはないです」

「それじゃあ、適当に流しちゃいましょう。何も音がないドライブデートっていうのも寂しいじゃない?」


 小さく悪戯に微笑むと、笹倉は頬を染めて少し歯がゆそうな表情を浮かべた。

 デート。

 冗談半分に桐ケ谷はそんな言葉を投げて様子をうかがってみたのだが、笹倉もどこかそういったものを意識してくれていたらしい。良い傾向だと桐ケ谷は内心でほくそ笑む。

 カーオーディオを適当にいじって曲を流し始める。つないでいる桐ケ谷のポータブルプレイヤーには古いイギリスのロックバンドの曲ばかりがつめこんであった。元々桐ケ谷も音楽に明るい方ではなく、高校時代に好きになったこのバンド以外の曲はあまり知らなかった。代表曲は笹倉のような子でも知っているくらいに有名だが、それ以外はあまり知られていない。

 あまり大きくならない程度、BGMくらいの感覚で音楽を流しながら桐ケ谷の方から積極的に話題を振っていく。

 授業のこともそうだけれど、友達について、部活動について。委員会については意識して欲しくないから話題を避ける。最近は『憧れの先輩』が笹倉の中で占めている割合は随分と少なくなったように感じられるが、わざわざ思い出させる必要もない。あとは、もうすぐくる夏休みの話題なんかも振ってみる。

 最初……国語科準備室に遠慮がちに来ていた頃と比べれば随分と打ちとけただろう。ついこの間まで知らなかったことも今では相当に知っている。例えば、彼女が洋菓子より和菓子が好きだとか、うどんよりは蕎麦派で、動物はイヌよりネコが好きなこととか。

 もちろん桐ケ谷の方もそれに合わせるようにちょっとずつ……本当と嘘を織り交ぜて、笹倉の理想に沿うように個人的な情報を開示していた。


「だから、そこで言ってみたのよ。それって、逆に言えば認めちゃってませんか? って。そうしたら教頭先生、ぽかーんとしちゃって。……正直、まずったなと思ったわ」


 どうでも良い雑談に、笹倉が堪えられないように笑い声をもらす。

 箸が転がっただけでもおかしく思える年頃だ。なんでもない日常生活でも、話し方一つで彼女たちにとってみれば落語家の話す漫談に変わってくれる。口から先に生まれてきたという自覚はなかったが、桐ケ谷は幸いしゃべることが苦痛なタイプでもなかった。


「でも、笹倉さんも思ったことない? 教頭先生、結構そういうところあるような気がするし」

「そうですね……正直に言うと、私もなんとなくそうじゃないかなーって思ってたりしてました」

「でしょう? 悪い人じゃないんだけどねぇ……やっぱり気になるものなのかしら」


 そこでまたクスクスと彼女が笑う。

 学園は都内ではないけれど、そう田舎にあるわけでもない。都内に入り、三十分も走ればすぐに展覧会をやっているギャラリーに着いた。

 あくまで趣味でやっているものを、長い付き合いの友人の誘いもあって、小さなギャラリーを借りて開いた個展だ。大規模なものじゃないし、いわゆる『何々美術館』でやっているような立派なものではない。それでも駐車場に車を止めて中に入ると思った以上に人の姿があった。教授を勤めて長いし、そういう意味で人脈は広く、見に来てくれる人は多いのかもしれない。お祝いで贈られた花もそこそこに並んでいた。

 受付で教授から送られていた招待状を提示し、芳名録に名前を書く。中学生ならまず普通は書き慣れてないだろう筆ペンを使った記名も、流石書道部というだけあって笹倉の字は年齢らしからぬ達筆に思えた。

 ギャラリーの中には、大小様々な紙に草書体で書かれた作品が主だって飾られていた。白地に黒で書かれているものが多いが、中には黒地に白で書かれたものもある。桐ケ谷はこういった方面には疎かったが、書道の作品も随分と種類がある、ということくらいはわかる。ただ、生憎崩し過ぎた文字の中には桐ケ谷も判読不能なものがあって、善し悪しどころか何と書いてあるのかもわからないやつも少なくない。一応は国語科の教師だ。漢文なんかにはそれ相応の知識があるし、書道も、教員免許を取る時に必須となるから一応は修めてはいたものの、本当に基本の基本だけ。詳しいことはさっぱりだった。

 一方の笹倉は、桐ケ谷の隣を歩きながら可愛らしい顔をきらきらとさせていた。それを見て書道が本当に好きなのだとわかる。人間、好きなものを前にした時の顔の輝きというものは隠しようがない。誘って良かったとひとまず安心したのは、邪心なしでの本当のところの感想だ。

 ひとまず順路の通りに作品を見ていって、わかるような言葉であれば桐ケ谷はちょっとした解説をしてやった。

 書道の作品にその手の解説は無粋。字の良さだけ見れば十分だ、と言われそうなものではあるけれど、笹倉は興味深そうに桐ケ谷の言葉に耳を傾けている様子だった。


「おお、桐ケ谷くんじゃないかね」


 中を見始めて二十分ほど。ふいに桐ケ谷たちに声がかかった。

 短く刈った白髪に、トレードマークの口髭。桐ケ谷が世話になっていた頃は黒々としたのだが、今では白いものへと変わっていた。年を召されたからだろう。ただ、濃い色のついた眼鏡を見るに、年を取ってもその奔放さは変わっていないようだ。


「ご無沙汰しています、教授」


 ここに来た時からギャラリーの中にいるのを桐ケ谷は見受けていたが、別の客と話しこんでいるようだからあえて声をかけていなかった。

 桐ケ谷が挨拶をしたのを見て、笹倉も慌ててたたずまいを直した。


「まさか君が見に来てくれるとは思っていなかったよ。あんまりこういうのを楽しむ趣味もなかったろう?」

「こう見えても一応国語科の教師ですから。書の作品に触れておくのも悪くないかと思った次第です」

「なるほど、君らしくもないもっともな理由だな。それで、そちらのお嬢さんは?」

「こちら、私の教え子の笹倉さんです。笹倉さん、こちらが私の恩師の高嶋教授」


 笹倉が少し緊張した様子で「笹倉真奈美です」と頭を下げる。


「遅くなりましたが教授、この度は個展の開催、おめでとうございます。彼女は書道部に所属していて、此度の展覧会にも興味があるとのことだったので二人で参りました」

「おうおう、あの桐ケ谷くんがいっちょ前に教師をやっとるんだな。本当に君のような遊び人が教職なんぞ出来ているのか、今の今まで疑っていたよ」


 教授がカッカと笑った。


「どうかね? 桐ケ谷くんはちゃんと出来とるか? 毎度好き勝手やって、逆に生徒に苦労をかけているんじゃないのか?」

「そ、そんなことありません。桐ケ谷先生は、とても良い先生です。クラスのみんなにも人気があって……」

「なるほど、外面の良さで生き延びとるか」

「もう、あまり茶化さないでください」


 少しお酒を飲んでいるらしい。桐ケ谷の記憶でも随分陽気な人ではあったけれど、今は普段以上に気分が大きくなっているようだった。


「まぁ、下手の横好きが人に恵まれてこんな個展をさせてもらってるが、どうか字の未熟さは大目に見て楽しんでいって欲しい」


 なんてことを言って教授は桐ケ谷たちから離れていった。

 ざっくばらんで竹を割ったような性格だから、付き合っていて心地悪くなるようなことも少なく、慕っている人も多い。今日も挨拶しているだけで一日が過ぎていくのだろう。

 笹倉は、やはり少し緊張していたようで、教授が去ってから小さく息を吐き出した。


「豪快な人だったでしょう?」

「はい……先生がお世話になっていた教授って聞いてたので、てっきりご年配の女性だとばかり……」

「年配の女性?」

「えっと、淑女と言うか……こう、貴婦人、みたいな感じで」


 そう言った彼女に桐ケ谷は笑った。


「流石にそれは夢を見過ぎよ」

「そうですか?」

「私もいつもは取り繕ってるけど、実際は結構雑な人間よ。私だってただの一人の人間だもの。貴女よりほんの少し年を取ってる、ってだけのね。間違っても立派な大人、ってわけじゃないわ」


 さて、続きを見ましょうか。

 そう言ってさり気なく桐ケ谷は笹倉の手を取った。笹倉は、「あっ」と小さく声を上げたが、嫌がるような様子はこれっぽっちも見せず、むしろ軽く桐ケ谷の手を握り返してきた。頬は僅かに赤く色づいていた。











 展示を見終わって、もう一度教授に挨拶をしてギャラリーを後にする時にはすっかりお昼を過ぎていた。ギャラリーは都内でも住宅の多い場所にあったから、桐ケ谷は繁華街の方へ車を向けた。


「お昼、何か食べたいものあるかしら?」

「食べたいものですか?」

「そう。好きに言っちゃって。回ってないお寿司とか言われると少し難しいかもだけど、それなりのランチくらいは食べさせてあげられるから」


 少し考えるように笹倉が黙る。まぁ、大体この手の質問というのはされた方は困るものだ。こちらも「何でも良い」と言われるのが困るのと同じように、「何でも言って」という質問も相手を困らせる質問の一つだろう。それでも笹倉は頑張って自分の希望を口にした。


「あんまりたくさん食べたい、っていう気分じゃないです。軽食かなんかが良いかも……」

「本当に? 育ち盛りなんだから、ちゃんと食べないとおっきくなれないわよ? ……とは言っても、体型が気になるお年頃よね」

「先生は何か運動とかされてますか? その……いつ見てもすらっとしてて、良いなぁ、って思うこと、多いです」

「どうかしら? 単に服装で誤魔化してて、脱いだらお腹が出てたりするかもよ?」


 くだらない冗談に笹倉はくすくすと笑った。

 そんなやり取りの間に桐ケ谷はとあるホテルのレストランにランチ先を決めて車を走らせた。

 教師と生徒というのは、学外で関係を育むとあっという間にその距離感を縮めることが出来る、というのは、彼女が教師になってからすぐに学んだことの一つだった。

 ガードの固い子でも、休日に連れ出して、桐ケ谷自身が教師としてではない普段の自分の姿を見せてやれば良い。学校ではまず見ることのない桐ケ谷の姿に彼女たちは驚き、そして少しの優越感を得る。

 他の友達は知らない、憧れの先生との秘密。

 それがどれだけ甘美なものなのか、大人となってしまった桐ケ谷にはわからなかったが、きっと甘い蜜の味がすることだろう。

 ホテルのランチブッフェは笹倉にもなかなかの好評だった。先生といえどご馳走になってしまうのが申し訳ないらしく、彼女としては値段が気になるようだったけれど、こういうところもスマートにカードで支払ってしまう方がポイントが高い。現金を取り出してお会計、というのは少しばかり野暮ったい。それに、


「それじゃあ、そのお返しだと思ってこの後少し先生に付き合ってくれるかしら?」


 と言葉をつなげば、自然に彼女をデートの続きに連れていくことが出来る。

 ホテルから再び車で移動して、適当な駐車場に車を止める。

 都内のデートスポットはいくらでもあるが、こういう時便利に使えるのは複合商業施設だ。様々な種類のテナントが入っているから、どれかしらは中学生の女の子の趣味にヒットする店がある。

 中に入っている店舗は五十近く。時間があれば映画の一本でも楽しめるのだろうけれど、今からじゃ学園の門限に間に合わなくなる。もちろん、教師同伴なのだから門限の一つや二つ破ったって実際はなんてことない。でも、笹倉のような優等生を相手にするのならそういう真似はしない方が良い。守るべき外面と、距離を縮めるために崩して見せる内面。そのバランスが結構に大事なものとなってくる。

 桐ケ谷は自然と笹倉の手を取って、レディスのファッションショップを中心にあれやこれやと見て回る。ここでの会話は極力学校でのことを話さないように。私生活を中心に、好きな服装や小物の話を振りまいて友達感覚を意識しておしゃべりを続ける。

 ふと、若者向けの中でもあまり大人びていないブティックの前で笹倉が足を止めた。見やると、常人ではまずあり得ないすらりとした体型をしたマネキンがこれから来る夏の季節を早取りした服装で着飾っていた。


「試着して見る? ちょうど売り出し中みたいだし」


 桐ケ谷が問うと、笹倉は「私には似合わないですよ」と慌てて首を振った。


「そう? 似合うと思うんだけどなぁ……」

「そう、ですか? 私にはまだ、少し大人っぽいような気がして……」

「そんなのすぐに気にならなくなるくらいに大きくなるわ。女の子は成長が早いから、あっという間に大人の仲間入りよ」


 そんな言葉で笹倉を後押しして、とりあえず試着だけ、と彼女を中に誘った。

 店員さんに彼女に合うようなサイズを持って来てもらって、試着室の前で耳をそばたてる。邪魔にならないくらいにかかった店内のBGMの奥で、笹倉が着替える衣擦れの音が桐ケ谷の心をそそる。

 どんな下着をつけて、どんな体つきをしているのか?

 制服の上からじゃ細かにわからないことを考えている自分に気がついて苦笑する。

 昨日、桐ケ谷は関係を随分と深めている別の生徒を自室に呼んで抱いていた。今は笹倉との関係を深めるのにリソースを割いているが、だからと言って他の子に手を出していないわけじゃない。花を愛でるのに、今は桜の季節だからと言って菜の花や撫子、アネモネを愛でてはいけないなどという決まりはない。可愛らしいと思うモノを愛でたいと思うのは、人間として当たり前の欲求じゃないかと開き直る。

 少しして、着替え終わった笹倉がおずおずとカーテンを開いた。


「……どう、ですか?」

「そうね、悪くないと思うわ。もちろん、まだ少し大人っぽい感じがするけど……あと一年もすればばっちり似合うようになるんじゃないかしら?」


 照れたように彼女が表情を崩す。

 麻が入った落ち着いた色のカジュアルなワンピース。ローウエストで派手にならないくらいにリボンを結んで、上からはざっくりとしたカーディガンを羽織る。

 中学生にはまだ少し早いコーディネート。高校生か、大学生くらいになればもっときっちりと似合うようになるだろうが、その年頃になってしまうと今度は桐ケ谷の興味がだだ下がりだ。今のような、少し大人びた服に着られるくらいに幼い頃が一番『女の子』を味わうのに向いている。

 とは言っても、そんなことを少しでも悟られてしまうと背伸びをしたい年頃の子どもには受けが悪い。きっと似合うようになる。そう気持ちをくすぐるようなことを言いながら、今のまま成長しなければ良いのに、と内心で呟く。

 ショップの店員も似合うと勧めてくれはしたが、流石にいきなりこれだけ高額のものをプレゼントするのは逆効果の可能性も高い。

 関係を進めるなら慎重に。

 そして、あくまで秘密でささやかであることを心がけて、相手にもそう意識させなきゃいけない。

 その代わりに桐ケ谷は笹倉に小物屋で見つけた二つでペアになっているシュシュをプレゼントした。決して高いものじゃない。高くないからこそ笹倉のような生徒でもすんなりと受け取ってくれるプレゼント。しかし、それが持つ意味は大きい。


「先生からのプレゼントって誰にも言っちゃダメよ。贔屓してるってわかっちゃうと私が困っちゃうから」


 そんな桐ケ谷の言葉に、笹倉は「はい。大切にします」と頷いて、シュシュの入った紙袋を大事そうにかばんの中へとしまった。

 そうして、門限に多少の余裕を持てるように早めに車で帰路に着く。

 帰りの車内では行きの時とは少し音楽のプレイリストを変えてバラード調のものを多くする。音楽に疎い桐ケ谷でもそれが持つ多少の効果は知っている。深く愛を歌った洋楽をBGMに桐ケ谷はさり気なく感想を聞いた。


「今日はどうだったかしら?」

「はい。とても楽しかったです」


 無垢な表情で笹倉はそう桐ケ谷に笑顔を向ける。


「初めてのことも多くて少し緊張しましたけど、本当に楽しかったです」

「そう言ってもらえると私も嬉しい限りね」

「展覧会に誘ってもらっただけでも十分過ぎたのに、ランチもご馳走になって、その上プレゼントまでいただいてしまって……」

「そんな大したことじゃないわ。私も今日はとても楽しかったもの。ほんの少しのお礼とでも考えてくれたら良いわ」


 笹倉が嬉しそうにシュシュの入った紙袋を触る。プレゼントの効果は桐ケ谷が思っていた以上にあったようだ。一度しまったそれを、彼女は車の中でもう一度取り出していた。

 ここぞとばかりに桐ケ谷は少し強く出る。


「本当を言うとね、最初は少しだけ義務感が強かったのよ」

「義務感、ですか?」


 笹倉が首を傾げる。あどけない顔。無防備な表情だ。


「そう。私は教師で笹倉さんは教え子でしょう? 書道の展覧会に連れていくのだから……なんて言うのかしら? 課外授業みたいな気持ちでね。引率者って言ったらわかりやすいかしら」

「はい……なんとなくですけど、わかる気がします」

「でも貴女といると、そんな気持ちはすっかりなくなっちゃって……楽しんでしまっている自分がいたわ。展覧会もそうだけど、ランチもその後のショッピングもね。別に展覧会だけ見て、そのまま学校に帰ってしまっても良かったのに、惜しくなってしまったの」


 ハンドルを握り、前を向いたまま淡々と言葉を重ねる。

 何気なくとつとつとした言葉だったけれど、一つひとつ紡いでいく言葉は好きという言葉も愛しているという言葉もないが告白に紛れなかった。

 学生にこんな気持ちを抱いたのは初めてだ。

 まるでそうとでも言うような雰囲気を桐ケ谷は言葉の裏側にしのばせる。例え嘘八百の言葉でも、役を演じ切ればそれがばれる可能性はまずないと言って良い。


「本当に不思議な気持ち。貴女は私の大切な教え子だし、こんな気持ちを持ってはいけないってわかってる。わかってるんだけど……貴女のことが、こんなに大切な存在になってしまっているんだ、って気づかれされてしまったの」

「先生……」


 教師になってから、学生を好きになってしまったのは初めてのこと。

 いけないとわかりつつも、どうしても距離を縮めたい欲求に勝てなかった。

 教師としての理性より、抑えきれない本心が上回ってしまった。

 それほどまでに、貴女に惹かれてしまった。

 そんなニュアンスを笹倉も感じているのか、持っていた紙袋がくしゃりと恥ずかし気に音を立てた。


「……ごめんなさい。あまり言ってはいけないことを言ってしまったわね」


 その言葉で桐ケ谷は口を閉じた。これ以上あれやこれやと言葉を重ねるとそれはどんどん嘘っぽく、そして薄っぺらいものへと変わっていってしまう。

 言葉は過不足なく与えよ。

 それが、桐ケ谷が持っている恋愛の美学の一つだったかもしれない。

 ゆったりとしたバラードを背景に車を走らせる。

 まだそこまで遅い時間ではなかったが、遠くの空はオレンジ色に変わりつつあった。タイミングとしても良かっただろう。夕焼けはそれだけで雰囲気を作り出してくれる。ここで渋滞なんかに巻き込まれるとあやういバランスの上に成り立っていた雰囲気がブチ壊しになってしまうが、幸い道路状況は悪くなく、すんなりと進むことが出来た。


「………………」


 学園に着く少し前で車を止める。


「二人で一緒に帰ってしまうとおかしく思われるかもしれないから……ここからは別々で」

「……はい」


 笹倉がそう返事を返す。しかし、実際に車からは降りようとしない。紙袋に視線を落したまま、きゅっと可愛らしい唇を締めている。


「笹倉さん?」


 彼女が顔を上げ、桐ケ谷に向き合う。その顔は少し薄暗い車内でも赤くなっているのがわかるくらいだった。何かを決意した目が真っ直ぐに桐ケ谷を射ぬく。


「先生」

「………………」

「その……」


 視線が一瞬揺らぐ。でも、笹倉は意を決したように言葉を続けた。


「私も先生のこと、大切に想ってます。その……軽々しくこういうことを言うのは間違っているのかもしれません。けど……私は先生のこと、好きです」

「笹倉さん……」


 驚いたような表情を作ってから、優しい微笑へ。

 手を伸ばして、桐ケ谷が彼女の頬に触れる。子供らしさが残ったそこは熱く上気している。柔らかい、心地の良い肌触り。ここまで隠し通してきた牙がたまらずむき出しになりそうになるのを桐ケ谷は感じた。

 でも、焦ってはいけない。

 蒼い果実にかぶりつくのは、まだ早い。

 あくまで、大切な宝物に触れるように。新雪で造られた雪像を愛でるように。

 ゆっくりと桐ケ谷が顔を近づけていくと、笹倉はその大きな黒目がちの目を閉じてまつげを震わせた。少し顔を傾け、両手で笹倉の頬をとらえる。


「んっ……」


 一瞬の接吻。

 桐ケ谷には情欲を満たすにはあまりにも物足りないものだったが、笹倉にとっては大切なファーストキスだ。あくまでこれは大切で綺麗な想い出にしなくてはいけない。

 まるで今まで口にしたことのない高級な果実を食んだかのように息を吐き出して笹倉はゆっくりと目を開いた。緊張と興奮で僅かに目が潤んでいる。少女だけが見せることが出来る奇跡の瞬間。幼さと美しさがあいまったその時を、桐ケ谷は目に焼きつける。


「今日のこと、皆には内緒にね?」

「……はい」


 それだけの言葉を交わし、笹倉は名残惜しむように車から降りた。学園へと続く道を歩きながら、一度だけ彼女は振りかえった。穢れの一つもなかった少女が一つ大人への階段を上ったその姿は桐ケ谷を心の底からぞくぞくとさせた。

 ……あの青い果実をこの口一杯に頬張れるようになるにはあとどのくらい必要だろうか? わからないが、少なくともそう長く時間はかかるまい。

 一人残った車の中で桐ケ谷は舌舐めずりをする。

 今の彼女の口には青い果実に喰らいつくための毒牙がのぞいていた。

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毒牙 猫之 ひたい @m_yumibakama

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