父の日記
7年前、父が突然他界しました。
昼寝をしに書斎に入り、そのまま亡くなりました。
笑みを浮かべて、今にも起きて来そうな安らかな顔をしていたそうです。
寡黙で読書好きで、そして物持ちのいい父だったので、遺品整理は大変でした。
最後まで大変だったのが、父の膨大な蔵書でした。
友人や親戚、ご兄弟にお譲りして随分減らしたのですが、それでもまだたくさんありましたので。
近くの公民館にでも寄付しましょうか、なんて、母と相談していたんです。
その日は、母の定期検査の日でした。
遠方の病院での検査なので、いつも妹さんの家に泊まって受診していました。
なので、3日ほどですが私が一人で、蔵書の整理を任されていました。
とにかく本を取り出して、持ち運びしやすい様に紐で縛って纏めて、紙袋に詰められるものは詰めて、大きいものは段ボールに入れて、と四苦八苦していたんです。
それでちょっと、一息つこうかなって、目線を移した時でした。
書棚の奥の方、あまり人目につかないような場所に、10冊くらいの大学ノートの束を見つけたんです。
なんだろうと思って取り出してみると、表紙に「歩美 2000〜」と私の名前と西暦が書かれていまして。
開いてみるとそこには、小学校に入ってからの私の、成長記録のようなものが書かれていたんです。
2行から3行くらいの短い文で、イベントや行事ごと、私との会話やほんのちょっとしたことが日記のように記されていました。
筆まめな、父らしい生真面目な記録を目の当たりにして、ちょっと、涙が出てしまいました。
こんな記録をつけているなんて、全く知らなかったので。
父の蔵書に埋もれたまま、どんどんページをめくっていきました。
入学式や初めてできたお友達のこと。
運動会やお誕生日会のにぎやかさ。
全然覚えてないこと、すっかり忘れていたけど思い出したこと。
父の日記に導かれて当時の出来事を追体験するのは、とても楽しかったです。
一番思い出深かったのは、小学6年生のころでしたので。
その頃の父の記録に、ついつい目が止まりました。
2006年5月13日:
歩美が私の誕生日プレゼントといって、折り紙でお花を作ってくれた。ありがとう。でもお父さんの誕生日は来月だよ。
そうそう、そんなことあったなぁって。
後からお母さんに正しい日付を教えてもらって、どうしてちゃんと教えてくれないのって八つ当たりしたことも思い出しました。
お父さんも何も言わなかったので、余計に恥ずかしかったんだろうなぁって。
2006年7月30日:
歩美と愛ちゃん、七海ちゃんを連れて海水浴へ。歩美は私に似て泳ぎが下手だ。母さんみたいに運動が得意だったら良かったのに。
これはきっと、私がずっと浮き輪を手放せないで遊んでいたことを言っているんだろうなぁって、微笑ましくなりました。
おかげさまで、ずっと泳ぎは得意じゃなかったですけど。
でもお父さんに似て、本は大好きになりました。
2006年10月29日:
今日は家族で紅葉狩り。歩美も母さんも楽しそうだ。愛ちゃんと七海ちゃん、舞子ちゃんを連れて遊びに行くのは久しぶりだ。
読むまですっかり忘れていました。
愛ちゃん、七海ちゃん、舞子かぁ。
あの頃は楽しかったなぁって、当時を振り返りました。
いろいろな記憶が少しずつ思い出されて、とても懐かしく思えました。
2006年12月23日:
1日早いけどクリスマス。プレゼント交換のために、愛ちゃんや七海ちゃん、舞子ちゃんが遊びに来た。歩美には色鉛筆が当たった。とっても嬉しそうだ。
これも懐かしい思い出の一つでした。
愛ちゃんがこっそり私の欲しいものを調べてくれて、色鉛筆を買ってくれたこと。
私は、七海ちゃんが好きそうなスノードームを用意しました。
七海ちゃんは、愛ちゃんが好きそうなぬいぐるみを持ってきてたっけ。
それぞれがちょうど欲しかったものをプレゼントし合って、みんな喜んでたことを思い出しました。
もう片付けはそっちのけになって、ページをめくる手が止まらなかったので。
私はノートの束を持ってリビングに降りて、コーヒーを飲みながらじっくりと読ませてもらうことにしたんです、お父さんごめんね、って思いながら。
本当に、たくさんの思い出が綴られていました。
小学校の卒業、中学校の入学、高校生のころ。
私やお友達や、家族との悲喜こもごもが、父らしい文体で書き記されていました。
心の奥深くに眠っていた記憶が呼び起こされて、あんなことやこんなことに思いを馳せて、時間を忘れてしまいました。
ですが、高校の後半から私が大学に入るころになると、日記が飛び飛びになっていきました。
父が心臓を悪くして、入退院を繰り返していましたので。
でも、私たち家族がお見舞いに来た時や体調が回復してお出かけした時のことは、一生懸命に記録しているようでした。
母と私があれこれ世話を焼いてくれるのはありがたいが小言がうるさい、とか。
愛ちゃんや七海ちゃんが来て、遠くにいる私のために写真を撮ってくれた、とか。
舞子が桃の缶詰を持ってきてくれたこととかが、丁寧に書かれていました。
ただ、この頃から、舞子の記録が増えていったのが気になりました。
どうやら舞子一人で、父に会いに来ているようなのです。
そして、父の日記から私たちのことは消え、舞子との記録になっていったのです。
舞子に車椅子を押してもらって中庭で過ごした。
舞子と公園に行った。
舞子がせがむので、外出してディズニーランドに行った。
舞子と一緒に食べる食事は格別だ。
最後の記録は「舞子が明日会いにくる。楽しみだ。」と書かれていて、それで終わっていたんです。
正直、吐き気がしました。
お葬式には来てなかったと思います。
もちろん、人の父親とそんなことをしていて、顔を出せるはずがありません。
そんな人に父のお墓参りに来てほしくないし、顔も見たくない。
これは、なかったことにしよう。
父は許せない、舞子も嫌い。
だから、ノートのこともなかったことにすれば良いと、思っていました。
でも、母がこのことを知っていたらどうしよう。
知って欲しくない。
こんな父のことで、苦しんで欲しくない。
そう思うと、知っているかどうかを確かめずにはいられませんでした。
検査を終えて帰ってきた母を労うように、一緒に家事を行ないながら、それとなく母に昔の話を振ってみたんです。
ノートの内容を手がかりに、ノートのことは言わずに。
昔話に花が咲いて、懐かしいわねぇと、母は遠くを見つめていました。
愛ちゃんに七海ちゃん、それに…舞子ちゃんね、と声に出して、楽しかった思い出を噛み締めるようでした。
舞子ちゃんはねぇ、お母さんと二人で頑張っていたものねぇと、目を細めると
「可哀想だったわよね、小さいのに亡くなっちゃって」
と、言ったんです。
とても驚きました。
私、全く覚えていなかったんです。
必死に当時の記憶をたぐり寄せようと考えていた時に、母が
「ほら、あなたたちと遊んでいて、川に落ちちゃったじゃない。小学校の…6年生の頃だったかしらね」
と教えてくれたんです。
それでも、全然思い出せませんでした。
母にここまで言われても、なんていうか、まだピンと来ていない感じでした。
一緒に遊んでいたのに、こんなにも記憶に残っていないの?って、ちょっと怖くなってしまって。
それで、母に聞いてみたんです、全然覚えていないんだけどって。
すると母は
「そうよね。あなた達も泣きじゃくっちゃって、何が何だか分からなかったもの。目の前でお友達が死んでしまって、あなた達も深く傷ついたんじゃないかしら。お父さんとも、あんまりその話はしないようにして、忘れようねって、話してたのよ」
目の前で死んでしまって、と言われて、やっとですけど。
当時の記憶を、思い出してきたんです。
そういえば、舞子のお母さんも
「その後ね、舞子ちゃんのお母さんもあとを追う様にね。ほんと、可哀想だわ」
自宅で自ら、だったって。
その時、少しずつですが、記憶が戻ってくるのが分かったんです。
でも、なんだか、思い出すことがなんだかすごく、怖くなったんです。
折り紙の折り方を教えてくれたのって、誰だっけ。
でも誕生日の日にちを間違えたのを、なんか馬鹿にされたような気がして。
だから、海水浴には誘わなかったし。
紅葉狩りのときは、何したっけ。
誕生日のときは、プレゼント忘れてやった。
それからなんか、ごちゃごちゃいうようになってきて。
私と同じで泳げない舞子を、川に連れていって。
それで。
それで。
それで。
それで。
それで。
「なんか、私もお父さんに呼ばれてる気がする。なんちゃってね」
不意に母が、めずらしく弱気なことを言い出したので、我に帰りました。
そしてそれが、ずっと気になっていました。
母は、それから半年ほどで亡くなりました。
「歩美やお父さん、愛ちゃんや七海ちゃん、それに舞子ちゃん達と一緒にね。仲良くお話ししてる夢をみるのよ」
って、よく話していました。
父の日記の最後は「舞子が明日会いにくる。楽しみだ。」とあって。
それは、父が亡くなる前日でした。
父に逢いにきていた舞子の目的って、そういうことだったのかもしれない。
母の病気も、夢に現れるようになったのも、そういうことだったのかもしれない。
そして私が今、こうして入院しているのも、そういうことなんだと思います。
最近、父や母、愛ちゃんや七海ちゃん
それに、舞子と逢うことが、増えてますから。
舞子と逢うときって不思議と、嫌でもないし怖くもないんです。
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