第2話
「あ、起きた?」
ミーちゃんが笑顔で言った。なぜか手にスマホを持って。
「あ、あれ……? 僕はいったい……」
どうやら少し気を失っていたらしい。いすに座って、父さんがこちらを伺っている。内股になって、青い顔をしていた。
そしてミーちゃんはというとスマホで僕を撮りまくっている。
「ミーちゃん、何してるの?」
「股を押さえながら倒れてるクマって初めて見たから、写真撮ってるの」
「ええぇ!」
あ、そうだ。ミーちゃんに蹴られたから気を失ったんだ。
幼稚園児の脚力と侮るなかれ。しなやかな竹のような足はクマの剛毛をすり抜け、的確に急所を捉える。細いほうが、食い込むのだ。
「ひどいよミーちゃん!」
「だって大切なことでしょ? ちゃんとあるかどうかは確認しないと。なくなってたら、わたしと結婚できないじゃない」
まだパンツ姿の父さんが笑いながら言った。
「あはは。まだそんなこと言ってるのか? でもきょうだいじゃ結婚はできないんだよ。そんなこと言ったら、友達に笑われちゃうぞ」
「うん。だから今は法改正に向けて、ネットを介して評論を発表したり、学識者や各有力者を抱え込みしてるとこなの。別にクマでもいいけど、ついてるかついてないかは大問題だからね」
「ミーちゃんはお兄ちゃんっ子だなあ」
「いや、そういう問題じゃないと思うけど……」
僕もどこまでミーちゃんが本気かわからないが、普通のお兄ちゃんっ子って感じでないと思う。お兄ちゃんっ子は「お兄ちゃんの頭って踏みつけると心が癒されるよね。マイナスイオンとか出てるのかな」とか言ったりしない。実際に踏みつけながら。
「そういえば母さんは?」
「母さんなら部屋で寝込んでいる。死んだ振りかと思ったが、本当に倒れちゃったのだな。母さんも線が細いからな。あとから説明しておくぞ、男には獣にならなければならないときがあると」
「ないよ」
最初はうろたえていた父さんもマイペースになっている。父さんも、僕がクマになっていることに早くも順応しているようだ。ミーちゃんのことを「お兄ちゃんが大好きな、賢い子」としか認識してないことと言い、柔軟性があるというかとぼけてるというか。反応としては母さんのほうが正しいのだろうか、とちょっと思う。
父さんは「母さんの様子を見てこよう」と階段を登っていった。
「あ、ほら見て」
そういって、ミーちゃんは二枚の写真を交互に見せてくれた。
ひとつは今撮った、股に手を挟んで転がるクマの僕の写真。
そしてもう一方は、股に手を挟んで転がる人間の僕の写真。
「おんなじポーズしてる。前に蹴っておいてよかった」
「早く消してよ!」
ひどい。この子がいちばんひどいよ!
ミーちゃんは、急にまじめな顔をして言う。
「本当、最初はお兄ちゃんの見つからなくて心配したんだよ? 毛に隠れてただけで、ちゃんとついてたよ。体は大きくなってても、あっちはそんなでもないね」
「大きなお世話だよ!」
ミーちゃんははっとして、連射モードで撮影しまくる。
「お兄ちゃん、気付いた? 今、裸だよ?」
「え? え! うわ!」
あわてて股の部分を隠す。と、笑いながらまたミーちゃんが写真を撮った。
逃げようとしたら戸棚に肘が当たった。痛――くはないけど、何かが落ちてきて僕の視界を隠した。足を滑らせて尻もちついて、その途端におならが出た。
ミーちゃんがいっそう笑う。涙流していた。
頭を覆ったものを外してみると、ポリバケツだった。
「さて、と」
ミーちゃんがスマホをしまった。それからバスタオルを持ってきて僕の股に巻きつける。ふんどしのようにしてくれた。裸よりは何倍もマシだ。
「お兄ちゃん、変身に関して心当たりは? このご時勢にカフカも流行らないし、さっさと原因突き止めて治しちゃお」
「え?」
いきなりそんなまじめな話されてもーー。
「ん。『クマになったお兄ちゃん』の写真はとりあえず保存できたし、ちゃんと解決しとかないとまじめにまずいかなって思ったんだけど。まだいじってほしいの? Mへの目覚め?」
「い、いや、まじめに解決法を考えてください……」
よろしい、とミーちゃんはいすに座る。グラスに入ったいちごミルクでのどを潤した。
「普段なら笑っちゃうけど、目の当たりにしたら信じるしかないね。人間が一夜にしてクマになってしまった。科学的には説明がつかないね。そこを前提に考察せねばね」
「ミーちゃん」
足を組んで唇に親指を当てるミーちゃん。真面目に考えてくれると、これほど頼もしいものはない。体は子供の名探偵より頼もしい。
「人間がクマになる話としてまず思いつくのは、ギリシャ神話のカリトーだね。おおぐま座のモチーフにもなった逸話だ。美しい狩人カリトーがゼウスに見初められたことで、ゼウスの妻ヘラの怒りを買ってクマにされてしまったって……ん? お兄ちゃんも孕まされた?」
前言撤回。ただの小悪魔だ。
「ん、でも、神様……」
「心当たり、あるの? 孕まされた?」
「孕まされてないよ!」
ていうかなぜ目を輝かせるのだ。
「いやまあ、心当たりがあるというかなんというか、いや、でもあれは……」
「ハッキリしないのねえ。とりあえず言ってみてよ」
「でもちょっと恥ずかしいし……」
「――机の三番目の引き出しの二重底より恥ずかしいものが果たしてあるのだろうか」
ぼそっとミーちゃんがこぼした言葉に、僕はどきりとする。おそらく剛毛に覆われていなければ顔が青ざめて見えていただろう。
「どうした息子よ。顔が青いぞ」
戻ってきたお父さんが言った。
どうやら毛でも隠れきれないほど動揺していたらしい。
まさか、アレが暴かれていたとは……。
ミーちゃんは満面の笑み。とても子どもらしいーーたとえば「今日のおやつはドーナッツだ、楽しみだなあ」とかいう台詞が似合いそうな表情だ。でもその内実は違う。そう、
「お兄ちゃんの痴態が晒されるのが楽しみだなあ」
「言っちゃったよ!」
「んー。でも実際問題、話を聞かないと判断できないしね。わかるでしょ? ここまで来たら、素直にしゃべるか、苦しんだあとにゲロるかの違いだけだって」
うん。わかる。
僕は、ため息。
しかたがない。覚悟を決める。そのときのことを思い返しながら、話し出した。
「あれは昨日。僕が、神社の境内で学生にカツアゲされたときのことなんだけどーー」
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