ケダモノダモノ

京路

第1話

 朝起きたら、クマになっていた。


 冬の朝は寒い。とにかく寒い。特に休みの日は昼まで起きないつもりでいっぱいだった。

 でもその日は、妙に暖かかった。まるで毛皮で全身を覆われているように。


 目をこすろうとすると、手が毛皮で覆われていた。


「ん?」

 グーにしたりパーにしたりするが、ちゃんと動く。手のひらは筋肉質な肉球があり、指先からは鋭利な爪が伸びている。かなりリアルな獣の手袋だ。


 寝てる間にミーちゃんが着けたのだろうか。あの子のいたずらにはいつも驚かされる。幼稚園生らしからぬ変なものをいつも扱ってるけど、兄としては心配だ。


 そう思って手袋を外そうとするが、左手も同じ手袋をしていた。指先をつまんでひっぱるが、外せない。皮に張り付いてるみたいだ。よくよく見ると、毛皮は手だけでなく、肘から先までずっと覆われていた。


 そりゃ暖かいはずだ。どこまで続いているかと思って布団をめくってみる。


 足もお腹も胸も、全身毛皮で覆われていた。触ると、顔にも毛の感触がある。

 着ぐるみだろうか。今回ばかりはあきれるのを通り越して、感心した。ミーちゃん、いったいどこからこんなものもって来るんだろう。ドン・〇ホーテ?


 着ぐるみなら背中にファスナーがついてるだろうと思って、外すために立ち上がってみる。


 ごつん、と頭に何かが当たった。

 蛍光灯の傘だった。


 僕の身長は中学生のくせに150センチに満たなくて、まだ小学生に間違えられたりもする。蛍光灯の傘に頭をぶつけたことなんて初めてだった。


「……ん?」


 よく見ると、部屋が小さくなってる気がした。たしかに僕の部屋だけど、全体的に小さい。

 まさかこれもミーちゃんの仕業だろうか。


 そのとき、いきなりドアが開けられた。

「ちょっと金太郎! 休みだからっていつまでもーー」

 母さんだ。いつもの小言かな、と思って見てみたら、ドアを開けた姿勢のまま固まっていた。


 こちらを見上げて、目をぱちぱちしている。そういえば母さんもいつもより小さい気がする。

 いきなり母さんが倒れた。


「か、母さん?」


 近づいてゆすってみる。だが、母さんは起きない。


「おい母さん、ワイシャツはどこにーー」

 下着姿の父さんが洗面所から現れ、ドアのところで倒れる母さんと僕を見た。その瞬間、大声を上げた。


「ぎゃー、クマ!」


「え? え?」


「か、母さんダメだ! クマに死んだふりが効くというのは迷信だぞ!」


 く、クマ? 何のこと?

 僕はあたりを見回すが、何も見当たらない。


「せ、正解は話しかけながら後ずさりする、だ! やあクマさん、ごぎげんいかがかな? 冬にこんな里まで下りてきて、生活も大変のようですね。私も先日、課長に休暇を薦められたんだよ。永遠の。――う、あああぁぁぁ……」


 お父さんは何やらしゃべって勝手にへこんでいる。

 ふと、部屋の鏡を見てぎょっとする。


 天井まで頭が届きそうなほどの巨大なクマが、こちらを見ているのだ!


「ぎゃー!」

「ごわ! 怒ってる!」


 正しい対応なんか無視して、父さんが逃げていく。


「ま、待ってよ父さん!」


 僕もつられて、父さんを追いかけて逃げ出した。


 父さんは居間の電話をとっていた。


「け、警察――は、人間相手じゃないからダメだ……く、クマってどこに言えばいいんだ? 保健所? 動物園? 空手道場? そ、そうだ、クマ殺しと言えば空手家だ! 日本体育連盟に――ぎゃー!」

 こちらを見て、また叫ぶ。ま、まさかクマが追いかけてきた? あわてて後ろを振り返るが、クマはいなかった。


 代わりにミーちゃんがいた。

 ぽかんとしたまま、歯ブラシを落とした。大きな瞳も、落っこちそうなほど見開いている。歯磨きをしていたのか、口元は泡だらけだ。


「み、ミーちゃん! 大変だ! クマが、クマが出た!」

「いや、クマって……ん?」

「は、早く逃げないと! 逃げるよ! ごっ!」


 玄関にダッシュしようとしたら、頭をドアの上端にぶつけた。脳みそ飛び出るかと思った。頭を押さえてうずくまる。ちかちかする視界で見上げると、ぶつけた壁がへこんでいて、パラパラと破片が落ちている。


「……もしかして、お兄ちゃん?」


 後ろからミーちゃんの声。クマに襲われてるこの状況でも落ち着いている。さすがミーちゃん。でも逃げないと!


「あ、お父さん、たぶんこれクマじゃないよ。あとクマが出たら農林事務所に電話するのがいいんじゃないかな。猟友会や専門業者を紹介してくれるよ」

「え? く、クマじゃない?」


 僕は痛む頭を押さえながら顔を上げる。ミーちゃんは取り乱した様子なく台所で口をゆすいでいる。父さんは鍋を頭にかぶって震えながらこちらを見ていた。


「ほら、見てよあのへっぴり腰。外見はクマでも、雰囲気はお兄ちゃんでしょ?」

「た、たしかに。あのカイワレ大根より情けない腰は、紛れもなく我が息子の金太郎のようだ。が、しかし……」

「え? なに? どういうこと?」

 二人とも神妙な表情でこちらを見ている。

 僕だけが理解できないでいるようだ。


「うん。声は変わってないんだね。しかし、まだ気づいてないのか。この鈍感っぷり、ますますお兄ちゃんだ」


 そういってミーちゃんは鏡を僕に向ける。

 鏡の中には、恐ろしい形相のクマが!


「ぎゃー! く、食われる!」

「ほら、よく見てよ」

「え?」


 言われたとおり、よく見てみる。

 鏡の中のクマも、様子を伺うようにこちらを見ていた。なるほど。よくよく見れば、なんとも気弱そうなクマだ。あんなに震えちゃって、泣きそうな目をしてて。これならちょっと脅かせば逃げ出すんじゃないかな。驚いて損したーー

 と思っていたら、こちらの考えが伝わったみたいに、クマの顔に自信が満ちていく。


「う、うわー!」

「えっと、だから、お兄ちゃんだってば」

「え、え?」

「お兄ちゃんは今、クマの姿になってるの」


 僕が、クマになってる?


 そういえば、毛皮の着ぐるみを着せられていたことを思い出した。

 もう一度、鏡を見ている。


 僕が右手を上げれば、鏡のクマは左手を上げる。

 左手を上げれば、右手。

 たしかに、僕だ。

 そうだ。着ぐるみを着せられていたんだ。


「クマになっても、お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだね……」

「って、この着ぐるみ着せたの、ミーちゃんじゃないか」

「え? なにが?」

 ミーちゃんは首をかしげる。無垢な瞳でこちらを見上げる姿はまさに天使そのものだ。


「第一、これ着ぐるみじゃないし。ほら」

「あがががが」

 ミーちゃんが僕の牙をつかんで、全体重をかけて引っ張った。痛い痛い!


「骨格まで違っちゃってるじゃない。お兄ちゃん、今身長二メートルはあるよ」

「ミーちゃんが改造手術したとか……」

「トレパネーションくらいならできなくはないけど、さすがに骨格変えるのは無理だなぁ」


「とれぱねーしょんとはなんだ?」

 お父さんが尋ねた。


「ざっくばらんに言えば、超能力を開発するために頭蓋骨に穴を開けること」

「ほほう。ミーちゃんは五歳なのに物知りだなあ」

「探求心と好奇心に忠実だからかなぁ」


 僕は思わず身震いする。

 その探求心と好奇心の結果、実際にトレパネーションされかけたのは先月のことだ。

 いくら探求心と好奇心にあふれても、五歳が額にドリル当ててきたときは、かなり恐かったんですが……。


「……って、ミーちゃんじゃないってことは、いったいどういうこと?」

「さあ? 寝てる間に宇宙人に改造されたか。前世がクマ殺しの格闘家でクマの呪いに祟られたか。思春期か。原因はわからないけど、実際にクマになってるのはたしかだよ」


 そ、そんなぁ。

 こんなんじゃ学校行けないよ。

 それに、白石さんにも……


「ところで、ひとつとても大切なことを確かめてもいいかな」


 ミーちゃんが天使のような笑顔を浮かべて、僕の目の前に立った。


「えい」

 ミーちゃんのしなやかな足が大きな弧を描き、僕の股間にめり込んだ。

「ぉウ」

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