第15話 それは、記憶をなくしたクリスの一歩でした
クリスはルドの顔を見ながら口を動かそうとしたが、静かに深緑の瞳を伏せた。さっきまで、ふわふわといい気分だったのに、何かが凍っていく。
クリスは現実に引き戻されていくのを感じながら、ポツポツと話し始めた。
「あの……みなさんは、私にとても良くしてくださってます……目が覚めて、右も左も分からなかった私に優しく、いろいろ教えてくれて……私も知らないことばかりで、楽しかったんです。世界がキラキラ輝いてみえてました。ですが……」
寒くなってきたクリスは肩の布を握りしめた。
「でも、みなさんの視線が……私を見ていないんです。私なんですが、私ではなくて……たぶん記憶を失くす前の、私を見ているんです」
「それは……」
言いかけてルドは王城内に入った時のことを思い出した。自分が差し出した手を無視した理由は、もしかして自分が師匠を見ていなかった……?
ルドが考えていると、クリスが首を横に振った。
「いいんです。それが悪いとか、良いとか、そういうわけではないんです。たぶんですが……記憶が戻っても、私は消えないと思います。性格は……違うかもしれませんが、でも記憶として残ると思うんです」
ルドは何も言えず、黙って聞いている。
「残ると分かっていても……寂しいんです。可笑しいですよね。私は、ちゃんといるのに」
そう言って顔を上げたクリスは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「みなさんがいるから、居場所があるから、今を楽しめているのも分かっているんです。もし一人だったなら、こんなに安心できる場所でなかったら……ずっと不安で、おどおどしていたと思います。世界は輝いてなかったし、暗くて怖くて動けなかった。だから」
クリスは泣きそうな顔で無理やり笑った。
「しっかり楽しもうと思うんです」
悔いがないように。
クリスは最後の言葉は口にしなかった。そこまで言ったらルドを困らせてしまう。今だってかなり困っている。それは顔を見れば分かる。
クリスの前で、ルドは両手をきつく握りしめて悩んでいた。安心させたい。でも大丈夫というのは違う気がする。
考えた末に、ルドはどうにか言葉を絞り出した。
「自分に……手伝えることがあれば言ってください」
「はい。ありがとうございます」
その言葉だけで十分。私は幸せものだ。
クリスが感情を抱き締めて微笑む。その顔は月の光を浴びて儚く煌めいていた。
王城内の離れの建物に宿泊したクリスは、まだ眠たいと訴える体を無理やり起こした。早朝だが、昨日宣言したように、日々を楽しむためには、眠気なんかに負けていられない。
根性でベッドから出たクリスは素早く普段着に着替えると、金髪を一つにまとめて帽子の中に入れ、部屋を出た。
陽は出ているが、朝なのでまだ涼しい。どこからか吹いてくる乾いた風を頬に受けながら、クリスはコソコソと廊下を進む。
「ルドさんは、毎朝鍛練をしていると言っていましたから……」
なんとなく人に見つかるのが気恥ずかしかったクリスは、人目を避けて目的の庭に到着した。
そのまま近くにあった柱の影から、そっと庭を覗く。そこには木でできた剣を振っているルドがいた。
その姿を確認すると同時に、クリスが柱に身を隠す。
「うー、胸がうるさいです」
ルドの姿を見ただけで心臓が跳ねた。とても自分ではコントロールできそうにない。胸を押さえて、ひたすらドキドキが収まるのを待つ。
「大丈夫、大丈夫……」
大きく息を吐きながら、ひたすら自分に言い聞かせる。ようやく胸が落ち着いてきたところで、決心したように顔を上げた。
「よし!」
クリスが大股で歩きながらルドに声をかける。
「おっはようございまぁーす!」
クリスの大きな声に、朝の鍛錬をしていたルドが驚きながら動きを止めた。
「おはようございます。こんなに早く起きるなんて、珍しいですね」
笑顔でクリスを見るその顔には汗が輝いている。そのカッコよさに、一晩かけて考えた会話の内容は、綺麗さっぱり頭から吹き飛んだ。
頭の中が真っ白になったクリスは、気がつくと目的だけを言っていた。
「一緒に街を観光しましょう!」
「え?」
突然の提案にルドが再び驚いた顔になる。クリスはしまったと思いながらも慌てて捕捉説明をした。
「あ、あの! 昨日、言ってくれたじゃないですか! 手伝えることは手伝うって」
ルドは昨夜のことを思い出したのか頷きながら言った。
「そうですね。楽しむために街を散策するのは悪くないです。では、朝食をいただいたら出かけましょう」
クリスは浮き上がる気持ちを押さえながら言った。
「二人で行きますからね!」
言った! 恥ずかしい!
クリスはルドの返事を待たずに駆け出していた。
「わかりました。二人で……って、え!?」
ルドが聞き返そうとした時には、クリスは建物の中に戻っていた。困ったルドが一人で思案する。
「異国の街で二人きり……まあ、いいか。治安は悪くなさそうだし、自分一人の護衛でも問題ないだろう」
クリスが柱の影からルドを見ると、赤髪をガシガシかきながら鍛練を再開していた。
「よし!」
クリスは両手を強く握ると、軽い足取りで部屋に帰っていった。
それから、しばらくして……
「あー、遅くなってしまいました!」
クリスが叫びながら廊下を走る。
こうなった原因は、着る服をベレンに相談したことだった。そこから捕まってアレコレされ、気が付いた時には、かなりの時間が過ぎていた。
クリスが城の入り口に到着すると、ルドの姿が目に飛び込んだ。ケリーマ王国伝統の白い衣装は赤い髪がよく映える。
思わず見惚れそうになり、クリスは頭を振った。遅刻した恥ずかしさを誤魔化すために、わざと大きな声を出す。
「お待たせしましたぁー!」
「師しょ……」
振り返ったルドはクリスの姿を見て固まる。その様子にクリスは一気に不安になった。
「あ、あの……変、ですか?」
心配そうなクリスの声にルドが慌てて否定する。
「い、いえ! そんなことないのですが、なにかいつもと違うような……ですが、どこが違うのかと聞かれたら、説明できなくて……」
ルドは呆然としながらもクリスを観察した。
金色の睫毛がいつもよりクルンと上を向き、深緑の瞳が輝いて見える。白い肌の頬がほんのりとピンクに色づき、唇は熟れた果実のように瑞々しくも可愛らしい紅色をしている。
淡いオレンジ色の布を巻きつけた服は、上半身の体型を綺麗に魅せており、肩は出ているが二の腕から先は袖がある。
クリスは指先が少しだけ出ている裾で頬を隠しながら訊ねた。
「どう、でしょうか?」
クリスの上目遣いに血が上るのを感じながら、ルドは平静を装って答えた。
「いいでしっ、い、いえ! いいです! 似合ってます!」
ルドは全然平静を装えていなかったが、クリスは気にした様子なく、嬉しそうにその場で一回転した。
「よかったです」
クリスの動きに合わせ、腰から下の何重にも重なった白いレースの布がスカートのように広がる。頭の上の方で纏めている髪も揺れ、普段は髪と服で隠れている首筋から背中がはっきりと見えた。
初めて見る姿に、ルドは思わず釘付けになる。
ジッと見つめられて、クリスが恥ずかしそうにネタばらしをした。
「あの……ベレンさんが、お化粧をしてくださったのです」
「化しょ……う?」
クリスには一生縁がないというか、クリスに結びつかない単語にルドが固まる。だが、クリスは上目遣いのまま、お伺いをたてるように訊ねた。
「似合わない……ですか?」
ピンクの頬が赤く恥じらった色になる。体を小さくしてモジモジとしながらも、心配そうな、でも、どこか期待がこもった視線。
これは、どこからどう見ても花も恥じらう少女だ。
ルドが様々な衝撃に頭を連続で殴られながらも、どうにか声を出す。
「似合って、ますよ」
「よかったです」
クリスが明るく花が咲いたように笑う。
「いきましょう!」
クリスはルドの服の裾を掴んで走り出した。
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