1章 〈マイナス・ゲーム〉

1-1

 ――――それはもう、2年前の言葉だった。


「そんなことないよ。キミは強い人だから。うん、もっと自分に自信を持って! ……私も頑張るからっ」


 予備校に向かうためのバスに乗り、外の景色をぼんやりと眺めていた時のこと。中学か高校のものかは判別が付かないが、セーラー服姿の見知らぬ女子から面とそう言われたのは。

 背中上段に掛かる程度の黒髪に、自分にくれた、丸時計と小さな鎖で組み立てられた髪飾りは覚えているけど、顔ははっきりと覚えていない。だが、間違いなく美人だった。


 出会ったばかりの女子からの言葉であり、信用はしない。

 でも、嬉しかった。褒められることはあまりなかったから。


 だけど。

 その淡い思い出は今まさに、いとも容易く粉々に打ち砕かれる。


「ぐああっ!!」


 ふらついた足取りの中、追い打ちのごとく頬に拳の制裁を受けた少年は今度こそ、固いコンクリートに芯の細い身体を叩きつける。

 頬、腕や肩に走る痛みに奥歯を食いしばり、ぼやけた視界で視線を上げれば、


「な~に、その目? 元ゲームチャンピオンだとかくだらないプライドはまだ持ってるの? ゲーム以外じゃな~んにもできないヘナヘナモヤシくーん?」

「アハ、お友達らみたいにさっさとあたしらの下僕になっちゃえ~。ほらほら、メロンパン買ってきて。できればとびっきり甘いのねー」


 茶髪ロールの髪型をした女子、キャンディを咥える女子が続けて嘲笑すれば、


「一方的に殴られて悔しくねぇのかよ? それも女に。オレだったらゼッテー耐えらんねー。あ、オレ焼きそばパンね。ミナのメロンパンは後回しでいいからさ……ってミナ、怒るなって!」


 女と揃って派手に身なりを崩している男子もまた、そう吐き捨てた。


(チクショウ、お前らだってオリヒメが傍にいなきゃ何もできないクセに!)


 リカ、ミナ、それにテツ、ジローという、まさしく典型的不良男女。しかし被害者の少年はそんなモブたちなど眼中になかった。凛と一際目を引く、腰にまで届いた艶のある金髪を靡かせる女子高生のみを、彼はギリッと睨む。

 すると金髪女子は、二重まぶたながらも鋭利な目尻を刃物のようにより細めて、


「なに、文句あるの?」


 チェック柄の短いスカート丈を意に介すことなく、彼女は蔑みながら少年の腹を容赦なく踏みつける。オリヒメなんて可愛い愛称で呼ばれているクセして、目鼻立ちはそれこそ姫と呼ぶに相応しいほどに整っているクセして、その振る舞いは酷く暴力的だ。


「うるっ……せえ! くそぉ!!」


 露出の多い白く綺麗な、かつ締まりのあるオリヒメの脚を少年は強引に払いのけると、崩れかけながらも体勢を立て直し、黒のセーター姿が霞む中、握り拳を掲げて反撃を試みた。相手が女だからって関係はない、このままではいつまで経っても言いなりのままだからだ。

 だがしかし、オリヒメが桃色の唇をわずかに開くや否や、


「あっ……!?」


 彼女の姿はもう、正面にない。また、消えた。


「――――気にくわないんだけど、そういう態度。あんたは私の下僕なんだからさ」


 落ち着いた、けれども確かな苛立ちを含む声と同時に振り返れば、少年の腹部目掛けて鋭角に曲げられた膝がヒットする。続けて髪を掴まれ、頬を強く叩かれた。唇が切れ、血が顎に伝う。体勢を立て直そうにも足が言うことを聞かず、少年はそのまま硬い地面に尻もちを付いて、


「わ、悪い……、顔だけはやめてくれ……。弟が心配するから……やめて……」


 切なげな、かつ情けない懇願に、オリヒメの背後からはドッと黄色い声が涌くも、


「ふんっ」


 オリヒメだけはじれったそうにそっぽを向き、不機嫌な顔つきで屋上を去っていった。それに倣うかのように、彼女の取り巻きたちもここを去ってゆく。

 入れ替わる形で、悔しそうに状況を見ていた二人の男子が尻を付く少年の元まで駆け寄るが、


「いいよ、オレは大丈夫だから。しょせん女の力だし、ヘーキヘーキ」


 腹部を擦りつつ、彼は口の端を無理に上げるも、


「少し一人にさせてもらってもいいか? しばらく休んだら行くからさ」


 その目配せに、二人はもどかしそうに互いを見たが、それぞれが心配の言葉を残して校舎内に戻っていった。

 さて……と、一年の男子高校生――千石せんごくまさは金網にぐったりと背を預ける。


(うえぇ、痛ってえ……。派手にやりすぎだろあの女っ。くそぉ、何なんだよあいつ……ッ。言いなりになんか絶対になってたまるもんか!)


 事の発端は先月のこと。友達がオリヒメたちの使いっぱしりにされている光景をたまたま発見し、それに文句を付けたことがきっかけだった。それ以降、目を付けられてはこうした制裁をロクな反抗もできずにただただ受け続けている。


(ゲームチャンピオン? だから何だよ、昔のハナシじゃねーかそれって! というかそれ以外は凡人だっつーの! 体格だってヒョロイし顔だって大した特徴はないっ! ちょっと勉強ができるくらいの冴えない凡人なんだよ、オレは! ……オレは)


 むしろオリヒメの方こそ自分にはない輝かしいモノを持っているはずなのに。

 ――2年前、彼女から言われた強いという言葉はこのとおり、すでに雅志にはない。今はただオリヒメに成り下がる弱い負け犬だ。自虐的にそう思えば、目尻にジワリと涙が浮く。


(頼みを断れば暴力、買わせた分の金は絶対に払わない。まったく、ヤクザかっつーの。……んーいや、たしかオリヒメだけは……)


 オリヒメだけは買わせた分の金額を1円単位できっかり払っているのだ。他にも授業はサボらない、宿題などの課題は必ず提出する、一度も無断遅刻をしない等、不良・ギャルじみた見た目に反して妙にマジメなエピソードは雅志もしばし耳にする。

 それから妙と言えば、


「あの瞬間、何が起きてんだ?」


 そう、それは雅志が反抗を試みる時のこと。オリヒメは確かに目の前から消えるのだ。それも今日だけに限った話ではない。目の錯覚とも違う。


「あー、イカサマ食らってる気分がする。でも見破れない、ああもうっ」


 悔しさと鬱憤を吐き捨て、そうして校内へ戻ろうと雅志は重い腰を上げたが――――、


「――――ッ!?」


 それは何の前触れもない、あまりにも唐突な出来事だった。


 ――――雅志の目前、何もないはずの空間から黒を纏った何かが、そのまま空を切って落下をしたのだ。


「?????????? はい?」


 殴られた痛みすらを忘れて、雅志はポカンと口を開ける。


「いてて……、またか。そろそろ戻れないと取り返しのつかないことになるぞ……」


 人間だ。それもこの高校の黒い制服を着る、見かけでは至って普通な女子。黒い布を纏っていたのは錯覚か? やっちまったと言わんばかりに頭に触れ、ぶつぶつと呟いている。


 何だ、何が起きた? 何もない所から、それも女子高生が……? 雅志は目を丸くして女子高生を凝視した。

 シャギーの入った黒い髪の長さは肩甲骨に掛かる程度、若干クセをつけて洒落たボブに仕上げている。顔立ちは非常に綺麗で、クラス一、否、学年一と評しても許されるほどであろう。


「あ、あのー……、大丈夫ですか?」


 そんな彼女に、雅志は恐る恐る声をかけると、


「……ん? ってうわ! あー、ひょっとして……見られた、かしら? あっちゃー……」


 意志の強さが垣間見えた芯のある瞳をぱっと雅志に向けるも、彼女はおもむろに視線をはぐらかした。そうするとその場を立ち、制服に付着した汚れをポンポンと手で払うと、


「あれ、……その顔は? あっ……」

「え、オレ?」


 とてもじゃないが自分には縁のないルックス。髪型も含め、パッと見た限りでは雅志の記憶に引っかかるものはない。


「ま、さっき見たことは忘れてくれると助かるわ。ただ女子高生が降ってきた、それだけのことよ。ほら、何も気にすることはないでしょ?」


 何事もなかったかのように彼女は背を向いた。しかし雅志は納得できるはずもなく、


「ちょ、ちょっと待ってください! あれを見て気にならないはずがないですって!?」


 空から降ってきた女子はやれやれと、渋々振り向くと、


「どうしたの、ボロボロじゃない? 転んだ、では済まされないカンジがするわ」

「あ、いや、これは……。まあ、ちょっと……」


 今度は雅志が濁す番になるが、彼女は上目使いでうん? うん? と食らいついてきて、


「いいじゃない、訊くだけなら」


 自分のことは伏せておいてそれかよ! と雅志は嘆いたが、一向に退く気のない彼女を見て、


「同級生の……オリヒメって女子に……その……」

「あ、ごめん……」

「いいですって、謝らなくたって! ……そういう反応されると……余計惨めになるから」


 女子から一方的な自分らの現状に対する周りの反応は、雅志が一番知っている。


(そりゃあ、そういう反応したくなるよな……。オレたちが情けないんだって)


 けれども、彼女の反応は違った。


「気に病まないで。今のキミでは絶対に勝てない相手よ、オリヒメは。たとえ真正面からマシンガンを浴びせようとしたって、包丁で切りかかろうとしたってね」


 幻滅も嘲りも、憐みの目を向けることもしなかったのだ。雅志は驚いた。


「それ、どういう意味で――……」


 雅志が問おうとするも、彼女は躊躇したように一瞬目を細め、結局は作り笑いを繕うだけで、


「私は二年の椎葉依桜しいばいお。また会う機会があればよろしくね」


 ミディアムの長さの黒髪を揺らしつつ、椎葉依桜と名乗った彼女は聞く耳持たず、雅志の前から風のように姿を消したのであった。

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