284●『プリズナーNo.6』(1967)について。……自由を求めるスナーク狩り。
284●『プリズナーNo.6』(1967)について。……自由を求めるスナーク狩り。
ちょっと道草ですが、『プリズナーNo.6』について。
20世紀の実写SF“連続ドラマ”で最高峰は迷わず『プリズナーNo.6』(1967)!
二位は『マックス・ヘッドルーム』(1984、1987)。
三位は国産の『ウルトラQ』(1966)。
……あくまで個人の感想ですが、人形劇の『サンダーバード』(1965)は別格の存在です。その偉大さは日本国憲法における天皇陛下の位置づけを思わせるほど。あれはSF映像作品のオールタイム・ベストワンだと断言したいほどです。
で、洋物のSFドラマは……
ジェリー・アンダーソン作品の『スティングレイ』『サンダーバード』『ロンドン指令X』『謎の円盤UFO』『スペース1999』などに加えて『プリズナーNo.6』を扱った配給会社ITCによる“英国系列”。
そして『トワイライト・ゾーン』(1959-)と『アウターリミッツ』(1963-)が双璧となってSFドラマの金字塔を築き上げ、1960年代に『原潜シービュー号』『宇宙家族ロビンソン』『タイムトンネル』を経て、映画の分野で『ポセイドン・アドベンチャー』『タワーリング・インフェルノ』を生み出したプロデューサー、アーウィン・アレンと、『宇宙大作戦(スタートレック)』(1966~)のジーン・ロッデンベリーを擁する“米国系列”。
そして英国生まれで、米国のTVドラマに進化した『マックス・ヘッドルーム』がその中間に位置するのでは。
大きな流れとしては、そんなところでしょうか。
*
そこで『プリズナーNo.6』です。
英国のTVドラマ、1967~68年に放映。全17話。
主演はパトリック・マクグーハン、スパイエージェントの役柄がピタリとハマる役者さんですね。21世紀の007みたいなムキムキの肉体アクション派ではなく、知的なインテリスパイという感じ。映画『北極の基地/潜航大作戦』(1968)でもクセのある演技が印象的でした。
で、ストーリーは……
イントロはロンドン、名うてのエージェントらしき男が上司とケンカしたのか突然に辞表を叩きつけて退職、しかし旅に出る直前、何者かに催眠ガスをかがされて拉致られてしまいます。
目覚めた場所は地球のどこにあるともわからない、見知らぬ“村”。
村人はみな名前でなく番号で呼ばれ、“No.2”なる人物に支配されています。
村人はもともと主人公と同じくエージェントだった人物が多いようですが、洗脳されたかのようにNo.2の支配に従順です。が、中には反抗心を隠して、しぶしぶ従っている者もいるような……
しかし不満があっても、村を脱出することはできません。監視カメラで24時間ウォッチされており、村外との出入りは空路のヘリコプターのみ。
主人公をNo.6と呼ぶNo.2に、主人公は「何が欲しい?」と詰問します。
No.2は命じます。「
しかし観客の私たちには、この“情報”とはどういうものなのか、具体的に明かされません。
No.6の正体、彼の前歴なども曖昧なまま。作中でいろいろと仄めかされはしますが、ウソ八百かもしれないのです。
そして“村”の正体も、村を支配するNo.2やその上位者であるNo.1の正体も全く情報不足、そのヒントすら与えられないままストーリーが展開していきます。
ということで、何から何まで謎のまま、わけわからん……と頭を抱えているうちに、No.6は彼の戦いを始めます。
No.6の行動は二択。
一、なんとかして村を脱出し、自由の身となってロンドンへ帰還する。
二、No.2に挑戦して打ち倒し、村人たちの自由を取り戻して解放する。
事態を打開する方法は、この二つですね。
こうして密かに脱出プランを練り、レジスタンスを画策して、No.2を出し抜こうとするNo.6。
一方、あの手この手で罠を仕掛けてNo.6を陥れ、情報を吐かせようと陰謀を張り巡らせるNo.2。
この二人のタイマン勝負が毎回の見どころとなります。
『プリズナーNo.6』は空前絶後と言っていいほどのSF超傑作ドラマです。
毎回、手を変え品を変え、緻密に組み立てられた知的なストーリーが観客の前に呈示され、こうささやくのです。
「さあ、謎を解こう、今度こそ謎が解けるぞ」
そして観客はいつも出題者に裏切られ、「ああわからん、何が何だか……」と煩悶しながら、エンドタイトルの画面で組み立てられるペニー・ファージング型自転車をボーッと見つめる羽目になるわけです。
まるで幻想的なテーマパークのように美しく風光明媚な“村”の風景。
非現実な異世界感覚で繰り広げられる、一見不条理なストーリー。
知的なパズルを解くかのように配されるSFギミックの数々。
そして結局……謎が解けねー!! ちっとも解けねー!!!
この「謎が解けない」感で観客のフラストレーションをムラムラと増大させ、毎回テンションアップしながら最終二話の大逆転と大団円にもちこんでゆく
しかもすべてが終わってみると、それは明らかに、21世紀に流行りの“ゲーム”なるものの偉大な先取りなんですね。ただし結末不明のゲームですが。
ほぼ60年前に、これだけ完成度の高い、完全無欠の作品が創り出されていたことは、なにかこう、文化の奇蹟に出会うような気がします。
一片たりとも陳腐化していない、観るたびに最新の輝きを放つ映像ですよね。
それほどの傑作。
といっても、Z世代などと
彼等彼女らにとっては、絶対的に「めんどくさい」内容ですからね。
いかにも「謎解き」な感じで、ずーーーーーっと最後まで引っ張って、「おいおい結局ロータスセブン、また振り出しに戻ったんかよ」なラストカットですからね。
しかしそれも、作者の気の利いたエスプリと考えることもできるでしょう。
「自由を求めるNo.6の戦いは永遠に続く」のですから。
そうです、結論はかなりシンプルに、私たちの目の前に説明されていたわけです。
今どきの若者たちよ、『プリズナーNo.6』を観た方が身のためですよ。
これね、21世紀の私たちの、今のリアルの戯画化ともいえるのですから。
噛めば噛むほどに苦悩し思索が深まる、最上級の
*
とにかくわけのわからない『プリズナーNo.6』ですが、それなりの読み解き方はあると思います。
三つばかり、解読の指針になりそうな鑑賞方法を記してみましょう。
あ、あくまで私の個人的な感想ですよ、『プリズナーNo.6』は、百人百様の解釈が可能なお話でもありますから。
① 全体テーマは「自由とは何か」
全編を貫くテーマは明確に示されています。
毎回のオープニング(アバンタイトルの部分)の最終シーン。
No.6が強烈な逆光に染まりながら、叫びますね。
「番号なんかで呼ぶな、私は自由な人間だ!」
これが作品テーマであること、論を待つまでもありません。
全17話を通じて、「自由とは何か」が語られているのです。
とりわけ最終の二話分のエピソードは、「自由とは何か」そのものですし、「自由を保証するはずの民主主義って何だ?」というサブテーマも付随しているところが、じつに意味深です。
そして決定的なのは、No.2を打ち破ったNo.6がついに遭遇したNo.1の正体が刹那、垣間見える瞬間。
そうか、そういうことか!
自分から自由を奪い取って支配するそいつは、結局、“〇〇自身”だったんだ!
……と、あまりにも皮肉で逆説的で
なんとも哲学的な仕舞い方ではありますが、これで多くの謎にきっちり説明がつくのでは……
② “村”……天国な牢獄。
次に、舞台となる“村”です。
ロケ地は北ウェールズのポートメイリオン。
詳しくは知りませんが、一つの村がテーマパーク風に開発造成されて、幻想的なリゾートホテル群となっているようですね。
実際、あのネズミさんの超巨大テーマパークの中に住んでいるような印象すら漂う、得も言われぬ無国籍感に満ち満ちた異世界感覚。
この舞台設定が、『プリズナーNo.6』の不可欠の魅力となっています。
ポートメイリオン無くして『プリズナーNo.6』成らず。
なぜならば、この美しい村でなくては、お話が成立しないからです。
本作は「自由とは何か」を追求するNo.6が、牢獄から脱走を試みる物語です。
で、これを米国のプロダクションが作ると、たぶん映画の『大脱走』(1963)や、『パピヨン』『アルカトラズからの脱出』『ショーシャンクの空に』といった、鉄条網に囲まれた収容所や刑務所からの脱走作戦になってしまいますね。
この場合、牢獄は暗くジメジメして不潔で臭くて汚い、耐えられない劣悪な環境として描かれるのが定番です。少なくとも、快適さとは程遠い場所とされます。
しかし『プリズナーNo.6』の“村”はその真逆。
日本ならハウステンボスと志摩スペイン村とジブリパークを足したような、言うこと無しのリゾート空間です。
牢獄だけど天国、それが“村”。
もちろん裏側には人権無視のえげつない施設も存在しているのですが、唯々諾々として、おとなしい村人たちの生活は、うらやましいほど豊かで幸せに見えます。
だからまず、観客は悩むのですね。
「こんな天国から、どうして脱走したがるのか?」
英国人ならともかく、貧しきニッポン人から見たら、ありゃ地上の天国でっせ。
ああ、老後はこんなところで暮らしたいなァ、美味そうなパンケーキにNo.6みたいにかぶりついてみてェなあ……なんちゃって。
そもそも21世紀の私から見ても“村”の人々は豊かです。皆さん60年ほど昔の人たちなんですけどねえ。嗚呼、我ら日本人の貧しさよ。
この“見た目の美しさ”こそが英国製の『プリズナーNo.6』ならではの、“村”の特質ですね。
つまり“天国な牢獄”。
痛烈な皮肉が隠されているわけです。
この「居心地の良さ」こそ、人々の心を自ら縛り付けて自由を自主的に放棄させる鎖でもあるのだ……と。
さすが英国作品だと思います。
牢獄でありながら、天国な風景。
まさにファンタジーの世界です、それもイングリッシュ・ワンダーランド。
ルイス・キャロルの“不思議の国”のリアルバージョンですね。
そう、ここは“脱出できない不思議の国”。
つまり『プリズナーNo.6』は……
『不思議の国のアリス』ならぬ『不思議の国を出られないNo.6』という大人の寓話なのです。
これは米国映画にみるような、リアルに汚い監獄からの脱走作戦じゃなくて……
英国ならではの、“美しくも出口のないワンダーランド”からの
『プリズナーNo.6』は、明らかにSFだけど、お話の演出はファンタジー。
それもバリバリの、
そう考えれば、しっくりと理解できるかもしれません。
③ この“村”の人々は、今の私たち。
謎また謎に包まれた『プリズナーNo.6』。
わからないことだらけのお話は、観客をわからないままの世界に置き去りにして、主人公たちだけがわかったような顔をしておしまいになります。
「えーっ、終わっちまっただ」
そんな結末です。
しかしその結末、まさに現代の、この社会に生きている私たちのことではないでしょうか?
なんとなれば、私たちのこの社会、さっぱりわけがわからない謎だらけの“プリズナー村”と、“わけがわからない度”は同じようなものではありませんか。
長年生きてきたつもりでも、わけのわからない、不可解なことが山のようにいくらでもありますよね。
世界全体、その不条理な不可解さにおいては『プリズナーNo.6』の“村”と変わらないのです。
いえ、『プリズナーNo.6』の“村”は、全17話のそれぞれのエピソードごとに、現在の私たちか生きているこの国に、この県に、この地域に、この市や町に、あるいは会社に職場に、学校に、PTAや町内会に、あるいは部活や同好会や各種団体、あるいは家庭に、どこか似ているのではありませんか?
自由を奪われている、あるいは、自主的に放棄させられている……という点において、21世紀の私たちの社会こそ、“村”そのものではないか?
そして私たちこそ、あの、羊のようにおとなしい腑抜けな村人なのだと。
『プリズナーNo.6』の各話を観るたびに、そんな感慨も抱くわけです。
存外、『プリズナーNo.6』は、わかりやすい物語ではないでしょうか。
描かれているのは、“私たちの社会の、もう一つの閉鎖的な断面”だと考えれば……
21世紀の今も、『プリズナーNo.6』の新しいファンは、多くはないでしょうが、意外と生まれているのかもしれませんね。
『プリズナーNo.6』が絶滅危惧種にならないことを祈りつつ。
*
さて、謎が謎を呼びながら、読者を放り出すかのように最後まで謎のままで終わってしまう、誠にけしからん無責任な名作ファンタジーがありましたね。
ルイス・キャロルの『スナーク狩り』。
その結びの句。
For the snark was a boojum, you see.
これぞ英国のナンセンス幻想譚。
『プリズナーNo.6』は、じつのところ、物語のテーマである「自由とは何か」を“芯”にして、“皮”すなわち語り口を『スナーク狩り』調にして包んで焼いて、SF風味の甘いソースをまぶしたパンケーキ……そんなところではないでしょうか。
私は、そのように理解しているのですが……
『プリズナーNo.6』の最終17話を見終えた印象がそれに重なるのです。
“さよう、スナークはブージャムだったのさ!”
〈次章へ続きます〉
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