182●『2024能登半島地震』と二つの映画『日本沈没』(1973)(2006)。⑨残酷な国民トリアージの果てに……
182●『2024能登半島地震』と二つの映画『日本沈没』(1973)(2006)。⑨残酷な国民トリアージの果てに……
歴史に残るSF叙事詩『日本沈没』。
作中の登場人物は、二つに分かれます。
日本を去る人、そして、日本に残る人。
前者には生、後者には死が約束されます。
どのように分かれるのか。
映画(1973)には明瞭に描かれていませんが、去って生き延びる者と、残って死ぬ者を段階的に選別する「全国民のトリアージ」が行われたものと考えられます。
実に冷酷で、非人道的な選別です。
たぶん、こんな感じだったのでしょう。
欧米先進国へ移住できるプラチナチケットは、数が限られます。
まずは富裕層など、
政治家、高級官僚、大企業経営者、学者、医療や法律の専門家、伝統文化の権威、伝統工芸や先端技術のプロ、芸能人、マスコミ関係者などと、その家族。
いずれも資産家から優先で国外移転します。
続くは“準上級国民”層ですね。
優良企業は社員まるごと移転するでしょうから、資産家でなくても、その従業員と家族は、まずまずの優先枠がもらえます、とくに航空会社と海運会社ですね。国外脱出に不可欠な企業ですから。
そして第三に、“非上級国民”の若者男女とその子供たちです。
今後も日本国民が繁殖するために、必要不可欠な世代ですね。
残念ながら欧米の先進国へ受け入れられる限度を超えますので、領土は広いけれども独裁制の国家や、発展途上国が対象になります。
この場合、「使い捨ての下級労働者」として事実上の棄民となる恐れがあります。
戦前の米国西部への移民、ハワイ移民、戦後のブラジル移民など、この国は増えすぎた余剰国民を宇宙コロニーに移住させてジオン化させるのでなく、安価な労働力として無責任に異国へ放出してきました。
その歴史が、より過酷な形で再現されます。
そして最後に、“非上級国民”の40代以上の中高年層と老人たち。
日本の将来にさほど寄与しないと評価される人口層です。
それらは男女ともに、沈みゆく日本国土に「やむをえず結果的に残置」されます。
つまり死ねということですね。
そのような国民選別によって、国民の三分の一が生きて国外脱出を果たし、三分の二が祖国に残って滅んでゆくことになった……と考えられます。
映画『日本沈没』の2006年版で、飛行場の金網フェンスの外に一般人の群衆が鈴なりとなって飛行機に乗せてくれと懇願する前を、資産家らしき老人と、その娘と娘婿らしき若夫婦が粛々と自衛隊の輸送機に搭乗する場面がありましたね。
それがD2計画の実態であり、富める者と貧しき者を分かつ、生と死の境界線というわけです。
1973年版の映画では、そのあたりの事情が全く表現されていませんでした。
しかし、渡老人と田所博士のように、脱出の権利を若者に譲って、日本列島と共に沈む道を選んだ賢人がくっきりと描かれています。
逃げられる、けれど逃げない。
そこに、胸を打つ感動があるのだと思います。
そこが、1973年版の映画ならではの特徴です。
「わしは日本が好きだった!」と万感の思いを噛み締めて吐き出す、田所博士の切ないセリフが、私たちの心を揺さぶり、涙を誘います。
こうなると、物語の前半で、渡老人が山本総理に提示した「なにもしない」政策の意味が明らかになりますね。
決して、政府に対して、無責任な無策に放漫せよという意味ではなくて……
「なにもせんでええ、わしらのような老人は、どこの国にも迷惑をかけず、黙ってこの国に残る道を選ぶだろう。……わしらはのう、日本が大好きなのじゃからな」
*
日本人の多くが、多分、だいたい日本を好いています。
日本人同士はいろいろ軋轢もあって、好き嫌いがありますが……
四季折々に美しい国土と自然の風景は、地震や台風などの災害を除けば、ほぼ誰もが好きであり、誇りに思っているのではないでしょうか。
国内観光旅行といえば、風光明媚な絶景と、ご当地グルメと、温泉。
人間はともかく、この自然が好かれているからこそ、成立する観光ネタですよね。
私たちのこの国土はやはりユートピアであり、だからこそ、最後はこの美しい自然に包まれて骨を埋めたい。
そんな人々の思いを掻き立て、この国土の美しさと大切さを再認識させてくれた。
無くなることによって、かけがえのなさを知る……。
それが『日本沈没』(1973)の本質だったのでしょう。
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さて、2006年版の映画『日本沈没』と、2021年のTVドラマ『日本沈没-希望のひと-』では、田所博士は生き残る設定となっています。
それもそのはずで、両作品とも、1973年の『日本沈没』に比べて、結末が根本的に変えられてしまったからですね。
2006年版の映画も2021年のTVドラマも、いわば『日本(中途半端に)沈没』。
それなりに国土が沈まずに残ったならば、田所博士が日本列島と「心中」する意味は無くなってしまいますよね。
*
ですから、1973年版の元祖『日本沈没』は、「日本を去る人」の物語ではなく、「日本に残る人」の物語だったのです。
*
そうなると、物語はこれで完結。
“続編”の必要性は薄れてしまいます。
事実、2006年のリメイク映画『日本沈没』と、アニメの『日本沈没2020』(2020)でも、続編は作られませんでしたね。
2021年のTVドラマ『日本沈没-希望のひと-』では、後日談のエピソードが作られたようですが、すみませんが印象に残っていません。
じっさい、続編にはたいして関心が持てないのです。
だって、国民の三分の二、
同じように税金を払っていたのに、当然のように死を選ばされてしまった。
これ、沈没してゆく船に閉じ込められたまま見捨てられ、溺れゆく三等船客のようなものですね。
そこには、タイタニック号の犠牲者みたいな怨念が渦巻くかもしれません。
国民の三分の一は、残り三分の二の無辜の命を踏み台にして生き延びた。
ですから国民の三分の二の犠牲者の側に感情移入している、ごく普通の国民である観客にとって、同じ納税者なのにまんまと
「知ったこっちゃないぜ」が本音なのでは?
こちとら沈む列島に取り残されて国土と心中させられるんだ、脱出組がどうなろうと知るもんか……!
その心中お察しします。
そういうことではないでしょうか。
*
となると、この先に読みたいのは……
「何が何でも一億二千万の国民を一人残らず脱出させる!」というお話ですね。
手段を選ばずに、です。
このようなことを実現しようとすると、平和的な移民は考えられません。
D1とD2の計画の間に、極秘の「D1.5」計画が必要でしょう。
それはニッポンの核武装です。
(あ、これはあくまで私個人の創作的妄想であって、政治的主張ではございません。全く、私の信条ではありませんので、何卒誤解なきよう……)
つまり核ミサイルを満載した戦略原潜を数十隻揃え、その核抑止力を背景にして、一億二千万の国民が火の玉となって大陸へ侵攻、武力で領土を掠め取って国家を樹立するというものです。
全国民やぶれかぶれの「オール野盗化」ですな。
「逆元寇」とでも言うのか。
もちろん大変な犠牲が出るでしょうが、もともとこれは特攻作戦。
じっとしていて国民の三分の二が死ぬのなら、やってみる価値あり……という恐ろしい政治判断なのです。
核戦争となり、第三次世界大戦の勃発につながる恐怖に、先進各国はおののくことでしょう。
そのとき日本国首相は宣言します。
「われらは民族の生存権を行使しているだけである。これまで獲得した領土、ここで線引きして休戦するならよし。しかし我々を殲滅させるというなら、ためらわず核を使用する。われら日本国民に失うものは何もないからだ!」
まあ一種の悪夢ですが、架空戦記としては、アリでしょうか。
*
【次章へ続きます】
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