異世界でも女装して『ですわよ!』って言えば何とかなる。

イーベル

第1話

 自分の荒い呼吸が収まる気配がない。裸足なのを気にする余裕もなく走り続けている。足はとうに限界を超えている。ちょっとしたトラブルがあればすぐにもつれそうだった。

 顔をしかめつつ振り返れば、自分よりもはるかに大きな体が目に付く。その姿はティラノサウルスに似ていて、のしのしと大きな足音を立てながら追いかけて来ていた。

 今はまだ木々の隙間を縫うようにして走っているから何とかなっている。でも、根本的なスピードはあちらが上だ。ちょっと気を抜けば、首から上がなくなっていてもおかしくない。


 頭がどうにかなりそうだった。

 自分がいた場所は剣と魔法の世界じゃなくて、ごくごく普通の日常が続く日本だ。今日だっていつもの様に学校で友達と話して、ご飯を食べて、風呂に入って寝た。なのに目が覚めたらこの森に放り出されていたのだ。


 土砂降りの中やっと見つけた洞窟で疲弊した精神を休めようとした矢先。あの怪物が飛び出して来たのだ。

 目の前に露出した木の根が見えた。足が上手く上がらなくて爪先を思いっきり引っかけた。体が宙に放り出される。地面の凹凸がおろし金みたいに自分の肌を削った。


「い、やだ……」


 痛みに耐えながら言う。目の前の怪物がそんな事で動きを止める筈もない。その事実に体が強張り動きが鈍っていく。大きく顎が広げられて、思わず目を覆う。


 でも、それが自分に襲い掛かる事は無くて、恐怖を踏み越えゆっくりと瞼を開けた。森には馴染まない緋色。それが怪物の牙を弾き飛ばす。

 声と共に振り返り、緋色が揺れる。それが髪で、目の前にいるのが人間であることを理解するのにそう時間はかからなかった。

 降り注ぐ雨の中、わずかに注ぐ日光で顔が照らされる。細身のシルエット、端正な顔つき。柔らかそうな白い肌。それらの要素で彼女が女である事を自覚する。

 自分よりも細身で非力そうなこんな人が、あの化物の牙を弾いた? 信じられない。


「大丈夫か?」

「だいじょう……ぶ?」


 何を聞かれたのかいまいち実感を持てなかった。だから言われた言葉をそのまま返した。


「言葉は話せるのか。……ふむ」


 彼女はじっと僕を見る。舐める様に、隅から隅まで。そして何を思ったのかワシャワシャと髪を触って来る。


「なっ、何をするんですか」

「いや、黒の髪は珍しいと思ってね。それに、顔が良いな。近くで見るとより一層可愛らしい。私好みだ」


 訳の分からないことを。黒は日本では一番ありふれた色だ。彼女の様な緋色こそ、珍しいというべきだろう。というか……可愛い? 僕は男だぞ?

 体はされるがまま。そんな事を考えていると、彼女の背後に怪物がゆらりと立ち上がったのが見えた。指を刺して「後ろっ!」と危機を伝える。


「ん? ああ、こんなんじゃ落ち着いて話もできないか。ひとまずは片付けるとしよう」


 ────『力強くあれアームズ


 彼女の声色が変わる。ポケットからペンの様な物を取り出すとクルクルと回した。それは回転するたびに徐々に大きくなり、彼女の背丈より少し小さい杖へと姿を変る。そして振り向きざまに横なぎの一閃。怪物の頭を殴打した。

 杖の質量で出せるとは思えない打撃音。怪物がよろめき、地面に倒れ込む。一瞬だった。

 自分にとっては恐怖の対象だった者が赤子の手を捻る様に……。未だに信じがたい。

 彼女が戻って来る。危機が去り、そこで彼女の全容を見る余裕が生まれた。


 目立っていた緋色の髪。近づいた事で見えて来た、シャープな茶色の瞳。血色の良い肌は触れなくても柔らかさが伝わってきそうだ。

 自分とは縁遠い美人。その姿に目を奪われる。


「所で少女よ」

「……え?」


 自分を刺す言葉であることに時間がかかった。彼女に見蕩れていたのもあったけれど自分との認識にギャップがある。それを修正するために首を振った。


「少年です。なんで女にするんですか」

「ああ、すまない。君の姿があまりにも可憐だったものでね。君、どこから迷い込んできたんだ? 場所が分かればそこまで送ってもいい」


 そう聞かれて僕は言いよどむ。最初は自分の家を想像した。でもその思考を中断する。あんな怪物がいる以上、ここが日本なのか、そもそも地球なのかも怪しかったからだ。

 だから彼女の問いに、沈黙を貫くしかなかった。


「……そうか。ひとまず私の家に来ないか。傷の手当てをして、話はそれからにしよう」

「あ、ありがとうございます」

「うむ。お礼が言えるいい子だな」


 そう言って彼女は僕の頭を撫でる。こんな事をされる年頃じゃないんだけどな。……でも頼る当てもなくこの森の中をさまよっていたからか、その温もりにとても安心感を覚えた。


「……そういえば、名乗っていなかったな。私はミツレ。ミツレ・スカーレットと言う。ミツレで構わない。少年の名前は?」

文月ふづき紫苑しおん。僕のことは紫苑と呼んでください」

「ああ、分かった。よろしくシオン君。しかし……ここらでは聞かない名だな。まあいい。取りあえずこっちだ」


 頭に置かれていたはずの手がナチュラルに移動し、いつの間にか指を絡めとっている。それに導かれるまま彼女の家に向かった。


  ▼


 ミツレさんの家は日本ではあまり見られない、レンガで組まれた城。大きな庭がその周りを囲んでいる。ここに王様が住んでいると言われても僕は信じてしまうだろう。

 そんな所に僕は恐れ多くも迎え入れられる。自由に使っていいと言われた大浴場で身体に付いた汚れを流し、その間に衣服を洗濯して、もう一度着てから食事を頂いた。シチューとパン。それが今の自分にはそれが何よりも染み込んで、人間の世界へと戻って来たのだと改めて実感させてくれる。

 しかし、それにしても……。辺りを見渡す。今自分がいるのは広間だ。ここで舞踏会を開くと言われても納得してしまいそうな広さを持っている。

 でも、家具は必要最小限。ミツレさん以外の人間は一人たりとも見当たらないときた。違和感がぬぐいきれない。


「どうしたのかな。口に合わなかったとか?」

「いえ、そんな事は……。ただ、こんなに広いのに使用人さんとかはいないんだなって」

「ああ、そう言うことか。私は慣れてしまったが、少し寂しく感じるか」


 目を落とす。過去に想いを馳せるミツレさんの表情は言葉通り暗く、寂しそうだった。


「両親が生きていたころはたくさんいたんだけれどね。亡くなってからは、維持するのも馬鹿にならなくて、暇を出したんだ」

「……すいません、余計な事を聞いてしまって」

「構わない。過ぎた事だ。いつまでも引きづっていたって仕方がないだろう? まあ、私の話はどうだっていい。し損ねたシオン君の話をしよう。落ち着いたみたいだしね」


 表情を立て直したミツレさんは、微笑んで食器を静かに置く。


「君はどこから……いや、どうやって来たんだ」


 考える。自分がどうやって来たのか、その方法を。でも現時点で答えが出ることは無い。情報があまりにも不足している。だからひとまずは首を横に振った。 


「すいません、分からないです。ただ、気が付いたらここにいて」

「ふむ、自覚は無いのか」

「自覚……? じゃあミツレさんは見たんですか!?」


 興奮のあまり席から立ち上がって聞くと、ミツレさんは頷いた。僕と違ってその態度は冷静沈着だ。


「ああ、見たとも。ここからすぐ近く……君がいた場所だね。そこから強い魔力を感じて、遠見の魔術で見たんだ。そしたら空間に穴が開いていて、そこから美少女が……」

「だから僕は男ですって」

「その時はそう見えたんだから、仕方がないだろう」


 悪びれもせずそう言うと、咳払いして逸れた話を修正する。


「あれだけの魔力を発生させる魔術師だ。私はしばらく様子を見ていたんだが……『土龍どりゅう』にあっさりと追い詰められていたから、助けに入ったという訳だ。心当たりは?」

「……全くないです。そもそも僕が魔法を使えるなんて思えない」

「ふむ。移動特化型の特異タイプかと思ったが、そうではないのか。つまり自分で元いた場所に帰るのは不可能と言うことだな」


 自分の精神が凍った。考えない様にしていたことを唐突に突き付けられた不可に耐え切れなかったのだ。刺激は無かったけど居心地が良かったあの場所に、僕はもう帰れない。

 それはこれから一歩間違えれば死が見える、この綱渡りみたいな世界で生きていかなければならないことを意味していた。


 まだ、満足のいくだけの人生を送っていない。後悔を残さないという決意する時間すらも与えられなかった。そんなのってあんまりじゃないか……! なんで僕だけがこんな目に会わなくちゃいけないんだ! 目の前のミツレさんに怒鳴り散らしそうになる。それを何とかこらえると体の中が震えて、視界が滲む。


「っ……すまない。愚直に言い過ぎた」


 息を呑み、慌てた声だった。僕は上手く返せずに、目を袖で擦る。

 ミツレさんが駆け寄って、背中をさすった。優しさに甘えてしまっている。人に迷惑をかけるのは悪いことだ。こんなところを見ず知らずの人に見せてはならない。そう自分に言い聞かせて目線を上げた。


「すいません。見苦しいところを見せました」

「見苦しいことではないよ。苦しい時に泣けるのは大事なことだ。心がバランスを取るのに必要としている時に我慢すべきじゃない」

「我慢すべきですよ。特に他人の前で弱さを見せるべきじゃない」


 僕は自分の中で思い浮かべていたことを反復させる様に口にした。ミツレさんの優しさに自分の中の価値観が揺らぎそうになって怖かったのだ。

 でも直後に後悔する。これは考えているだけで良かった。優しくしてくれている人に向ける言葉では無かった。撤回しようとして、その前に彼女が言う。


「そうだね。弱さは他人の前で見せる物じゃない。晒してしまったら利用されて消されるかもしれない」


 背中をさすっていた手が首から後頭部へと移動する。自分の髪を指がすり抜けて、力強く抱き寄せられる。向こう側でも経験したことのない、肉親以外の人肌の温もり。樹木と土の感触を長々と味わっていた故に、妙な安心感がある。


「でも、だからこそ私は、一人ぐらい心を許せる隣人を作っておくべきだと思うよ。私がその隣人になるのは気に入らないかな?」


 耳元で告げられたその言葉に僕の緊張の糸を引き千切られてしまう。こらえていた物がどんどんと溢れ出して、彼女の胸元に染みができる。申し訳ないとは思うけれど、それ以上に自分が追い詰められていたことを自覚した。

 感情の濁流が収まって僕はミツレさんから離れた。


「すいません。……ありがとうございました」

「うむ。いい面構えになった。そっちの方が可愛いぞ」

「それ、あんまりうれしくないんですけど」


 思いっきり泣いた後はすごく、軽やかな気分だ。彼女の冗談に笑って返せるぐらいには回復している。気力を取り戻した自分を見てミツレさんは何かを決めたようだった。


「よし、決めた。シオン、うちでメイドにならないかい?」


 ミツレさんは爽やかな表情でそう言った。……何言ってるんだこの人は。


「……聞き取れなかったのでもう一度お願いできますか」

「いや、メイドにならないかって」

「気のせいじゃ無かったか……」

「だって行く当てもないのだろう? 元々住んでいた場所に帰るための資金作りだって必要だろう?」

「……それはそうですけど、でもメイド? 執事じゃなくて?」

「ああ、こんなに可愛い顔をしているんだから、執事なんてもったいないじゃないか」

「もったいなくないし、僕の精神が持たないです」

「じきに慣れるし、絶対に似合うから……」


 僕は後退りする。その様を彼女は困った様に眺めた。にらみ合いがしばらく続き、彼女がポンと手を打つと人差し指を向けた。


 ────『静止せよフリーズ


「え?」


 体が強制的に大の字にされて空中にピン止めされてしまう。そこから指一つすら動かせない。そんな僕に指をわきわきさせる彼女がカツカツと足音を立てながら近づいてくる


「な、何するんですか?」


 彼女は僕の問いに答えること無く、パチンと指を鳴らす。するとどこからかふわふわとメイド服がやって来る。フリフリのフリルが付いたそれは彼女の腕に着地。空いた腕を伸ばし、さっき止めたばかりのボタンをプチプチと外していく。肌を爪先が撫でてこそばゆい。やがてズボンすら降ろされて、パンツ一丁だ。何が悲しくてこんなだだっ広い部屋でこんな格好を……。


「さて」


 彼女が指を鳴らすと人差し指の先に火が灯る。じりじりと僕のトランクスに近づけられて、端を炙──


「いやあつっ!」


 反射で体を引く事すら許されないこの状況で、僕は声を上げることしかできない。それを見てミツレさんは満足した様に頷く。頷かないで……。


「君の衣服を洗濯したときから思っていたが、私は君の下着が気に食わない」

「僕の下着が気に食わない!?」

「淑女たるもの、見えない所にこそ気を配るべきだ」

「だから、僕、男ですよ!」


 言語が微妙に伝わっていないのかと思ってゆっくり言う。彼女はフッとほほ笑むとまた僕のパンツに火を……。


「いや、やめて下さい!」

「嫌かい?」

「来たままパンツを燃やされるのは嫌に決まっているでしょう!?」

「そうだろうな。そこで、君に選択肢をあげよう」

「……選択肢?」


「ああ」と彼女は頷き、火を消すと人差し指を立てた。


「一つ、パンツを燃やされる。その場合新しい下着を支給しよう。私に仕える間はそれで生活しなさい」


 彼女はトランクスを気に食わないと言っていた。となると新しい下着は……あまり考えたくないな。それに彼女は強制的に着せる手段を持っている。この様に身動きをとめればやりたい放題だ。

 彼女は立てる指を一本増やし続ける。


「二つ、ここでメイド服を着る。この場合パンツは燃やさずに、見逃してもいい。さてどちらがいいかな?」


 それは今拒否していたことを受け入れる選択。前者に比べるとハードルが低くなった様に見える。一回着たら、脱ぎ捨てても構わないのだから。

 でもそれが正しいのか、不安が残る。交渉術のひとつが頭によぎったからだ。

 確か、最初に無茶振りをして、それから二番目の要求を通しやすくするとか……そんな感じだった。彼女がそれを知っていて、利用していると仮定するとこの二つ目の選択肢を通したいことになる。

 彼女の目的はなんだ?


「あと十秒」


 ミツレさんが急かしてくる。また人差し指に火が灯っていた。細かいことを考える余裕はなさそうだ。メイド服は一度着て脱いでしまえばいい。一回ぐらいならば、助けてくれた恩として受け入れてもいいだろう。それが恩返しになるかと言われれば微妙だが……。


「分かりました。着ます! 着ればいいんでしょ!」

「よし、言ったね」


 指の灯りを消して、彼女は戦いに使っていた杖を取り出した。それを振るうと僕の服が一瞬でメイド服へと切り替わってしまう。彼女の熱意に呆れてため息を付いた。


「おー。やっぱり似合う似合う~。私の眼に狂いはなかったわけだ。クルっと回ってみて!」

「……一回だけですよ」


 サービス精神で言われた通りにくるりと回る。長いスカートが翻り、足元に空気が差し込んでくる。服を着ている状態で味わったことのない違和感を覚える。


「良いね。良いね~。感激だ!」

「……ほどほどに楽しんだら、服、返してくださいね。流石にずっとこれを着るのは嫌ですから」

「え? いや、脱げないよ。それ」

「え?」


 シオンは呪われたメイド服を装備した……?

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