海のカーテン

@miraiyashima

海のカーテン

         1


 僕の住んでいる町。道すがら肩がぶつかった相手に、振り返ってメンチ切ったら知り合いだった。なんていうくらいに狭い町。

 エメラルドグリーンの大きな海に囲まれたこの町にまた新しい家が建つ。田舎だけど、長閑で魚介類が美味しい住みやすい町だから、減るどころかひっそりと人口は増加しているみたいだ。

 ここにどんな家が建っては、どんな人が住むのかは僕には関係のないことだ。

 勝手に土地を奪った工事現場のおじさんは、僕が地道に観察を続けていた蟻たちを容赦なく踏んづける。女の人が履くような長いブーツみたいな靴で。

 太陽が眩しすぎる夏だから僕はパンツ一丁でも暑いのに、おじさんは長袖長ズボンのオンボロ作業着を着て、鼻歌まじりに重たい角材を軽々と担ぐ。

 働く大人には心底感心する。だからといっても、ここは僕が先に見つけた場所なので譲る気はない。いつも通りに蟻の観察を決行しようと思う。僕は鼻歌おじさんの目を盗み、意を決して工事現場潜入を試みた。


「危ねぇぞボウズ。勝手に入るな! 」


しまった、もう1人いたらしい。アミアミを張り巡らした足場の上から、口の周りに髭のドーナツを付けたおじさんが、雷と唾を同時に落としてきた。

 僕の手にかかったおじさんのぬめっとした液体は、いかにも不健康そうなべっこう飴の色をしていた。

 僕は自分の唾の色が急に気になって、目の前を横切る蟻に唾をかけて確かめてみた。蟻が真っ黒なせいで、結局何色なのかはイマイチ判断することができなかった。

 それでも僕は諦めきれずに、おじさんにこの土地はんぶんこにしませんかと聞いたけれど、馬鹿野郎と怒鳴られたので仕方なく立ち去った。

「蟻観察帳」にまた一つバッテンが増える。僕は登校中にある絶好の蟻観察スポットを失ってしまった。


「おーい、ショウバヤシー! 」


 声のする方を振り返ると、夏休み期間中に日に焼けたのか、コッペパンみたいに黒くなった大林くんが駄菓子屋の前で叫んでいた。僕は背を向けて逃げる。大林くんは名前に大きいがついているから、背も大きい。僕は小林。そういうこと。喧嘩は苦手。


「お前、ちゃんと登校班で学校に行ってないこと先生にチクるからなー!」


追いかけて来る大林くんと僕の間には叩かれない距離がまだあるので、僕は言い返す。


「大丈夫だよー! 大林くんがいる登校班よりも僕はもっと賢い列を知ってるんだー! 」


「なにぃー!! 」


大林くんは不良だから通学帽のあごひもをハサミ切っている。それなのどうして、あんなに早く走っても帽子が飛んでいかないのだろう。サッカーを習っている大林くんは四年生の中で1番足が速い。


 鈴懸の木の枝が道に向かってバンザイをしている。小学校の門がすぐそこに見えた。走っていたから、途中で僕と大林くんは自分の登校班を追い抜いてしまった。班長の楠田さんが目をまん丸くして困った顔をしていたので、それには本当にごめんなさいと思う。

 あともう少しで学校に着くといったところで大林くんに首根っこを掴まれて、僕は宙に浮きそうになった。


「離してくれよ、大林くん。僕は君にはなんら迷惑をかけていないじゃないか。班長の楠田さんに迷惑かけてるだけで。」


大林くんは朝なのにもう汗の匂いがする。


「やだね。気にくわねぇんだよ。お前だけ自由行動しやがって。」


鼻の穴がカバみたいに広がっている。身長差のせいでどうしても下から覗く形になるので、大林くんの鼻クソがはっきりと見えてしまう。


「そう言う大林くんだって登校班にいなかったじゃないか。」


「俺は不良だからいいんだ。お前は真面目だろ! 不良ぶるんじゃねぇ」


「違う。僕はそんなくだらない理由で登校班に集まらないわけじゃない」


「あ? 馬鹿にしてんのか? 」


鼻息で鼻くそが飛んできそうでワクワクする。


「僕にはやらなければならない重要な研究があるんだよ。」


「かっこつけてんじゃねぇ。なにが研究だ? 言ってみろよ! 」


「蟻の研究だよ! 」


「アリィ? 」


大林くんの片眉だけ動かせる器用さには感心する。鏡で練習してみたけど僕にはできない。


「そうだよ。ちょうどそこにも歩いてるだろう。」


僕がそう言って見つけた蟻を指差すと、大林くんが学校に向けて彼を蹴った。


「お前のくだらない研究なんか、邪魔してやるよ」


「大林くん、残念ながら蟻は彼だけじゃないんだ。蹴っても、踏んでも蟻はそこらじゅうにいる。けど、研究に必要のない蟻の殺傷はやめてあげてくれよ」


「うるせぇ! あの蟻みたくお前のこともいつかぶっ殺すからな! 」


僕のランドセルを蹴ってそう言い放つと大林くんは、ガニ股で校舎へと入っていった。

 蹴られたときによろけた体勢を直して、僕も下駄箱に行く。上履きを床におろして片方ずつ履いていると、冷水機の周りをさっき大林くんに蹴られた蟻が小刻みに震えながらも、必死に歩いていた。

 蟻も僕も。大林くんに蹴られたくらいでは、案外死なないのかもしれない。


 体育館にみんなが集まると始業式が始まった。その中で、夏休み期間中に活躍した生徒の栄光を称えるための表彰式があった。

 町内でサッカー大会が行われたらしく、大林くんの所属チームが優勝したということだった。

 壇上で自分の名前が呼ばれるのを待つ大林くんの横顔は、夏休みの旅行先で見た坂本龍馬の銅像みたいに凛々しかった。緊張していたせいで、賞状を受け取る時の動作が頭の良い人が片手間に作ったロボットみたいにぎこちなかった。

 その後も始業式はしばらく続いた。ずっと直立していたせいで、僕は式の途中で意識を失くし貧血で倒れてしまった。保健室で目が覚めると、僕は夏休み明け初日の学校を最短記録で早退した。

 

2


 大林くんの授業中の行動は、寝てるか、振り返って僕を睨んでるか、クラスで2番目に凶暴な小太りでおかっぱの升くんとお喋りをしているかの三択だ。


 算数の授業の時だけは例外で、角刈りで筋肉隆々の五十嵐先生がすごく怖いので大林くんは大人しくしている。

 僕はというと授業をしっかり聞かなくても算数はそれなりにできるので、ここぞとばかりに大林くんを睨み返す。

大林くんはいつも結構なペースで鼻くそをほじる。そして飛ばすか、食べるかする。

 鼻クソの中には良質なバクテリアがいて、体にいいとどこかで聞いたことがある。

 僕は大林くんが飛ばした鼻くその位置をおおよそ覚えておいて、誰もみていない隙にピンセットでそれを採取する。蟻の餌になるのだ。けれども8勝0敗。実験結果としては乏しい。蟻は大林くんの鼻くそをいまだかつて巣に持って帰ろうとしたことはない。算数自体も好きだけど、実験材料が手に入るこの時間は僕にとって最高だ。先生が教室内を歩くたびに、鼻くそが踏まれませんように。と僕は祈り続けた。


 大林くんにとっては苦行の算数の時間が終わり、次は体育だ。しかも授業内容は大林くんの独壇場、サッカーだ。

 女子がまだ何人か教室を出ていないうちから大林くんが着替えを始めたので「大林くんのエッチ! 」と黄色い悲鳴とともに黒板消しを女子に投げ付けられている。真っ白な体操服に黄色いチョークの粉がついたのにも構わず、大林くんは升くんは飯田&峯尾の子分2人を引き連れて、一目散に校庭に向かった。


 僕はしめしめだ。体操服を誰よりもゆっくりと着替えて、クラスに残ってる人がいないことを確認して、大林くんの鼻くそをできるだけ採取する。それをジップロックに入れて自分の机に大切にしまってから教室を後にした。


 校庭に出ると剛田先生がホイッスルでみんなを集める。剛田先生は若くてちょっと爽やかすぎるから生徒に少しナメられている。

 サッカーの授業。大林くんと同じチームになれば使えない奴だと罵倒され、敵のチームになったらファウル祭が待っている。どちらに転んでも最悪だ。

 こんなときに都合よく貧血になれればいいんだけど、そううまくはいかないのが人生らしい。

 チームは先生が決めます。と言うとブーイングが起きた。すると剛田先生は今回だけだぞと言ってあっさり引き下がり、チームはグッパージャスで決めることになった。僕は敵チーム。


 分け方は平等だったはずなのに、仕組まれたように力量の差が激しい。

大林くんに升くん。でくの坊の佐川に、おかわりくださいの白城。その他の子もみんなそれなりに運動神経がいい。


僕のチームは、もちろん僕。そして、子分の飯田&峯尾。先生質問がありますの斉藤くん。メガネで僕の親友の千葉っち。と僕も含め窓際族もろもろ。


 先生のホイッスルが急に壊れて、いつまでも鳴らなければいいという僕らチームの願いは虚しく、試合は決行。


1点、2点、3点。大林くんのチームにどんどん点が入る。テレビで見るサッカーの試合は、30分応援し続けても1点も入らないことなんてよくあることだ。

でも、これはこれでいい。大林くんたちのチームに気持ちよく勝たせておけば、特に問題はない。


「こばっちぃー!パース! 」


ほとんど試合に参加せず、申し訳程度に敵のゴール前にいた僕に千葉っちがパスをしようとしている。大林くんは何をしているんだ。ゴール前がガラ空きじゃないか。

千葉っちが大林くんを押し除け、最後の力を振り絞って蹴り上げたボールは思いのほか高く飛んで、突っ立っていた僕の頭に当たってヘディング。ゴール。と同時にホイッスルが校庭に鳴り響き授業が終了した。


 案の定、次の授業で大林くんはずっと前の席から僕を睨んでいた。あんなへぼチームに1点でも取られたと怒り心頭。 大林くんの頭からは湯気が出ていて、大涌谷みたいだった。サッカーの授業で走り回って疲れたのか、鬼の形相で僕を睨んでいた大林くんは、いつの間にか机に突っ伏して寝ている。

 僕は大林くんのことを好きではない。誰よりも走って、怒って、笑って、疲れて眠る。そんな大林くんがなんだか眩しい。

 道徳の西田先生の板書はいつも見えない線が黒板に引かれてるみたいに、真っ直ぐに綺麗だ。心が綺麗な人は顔も声も。すべてが綺麗なんだなぁと感心する。鼻くそはきっとほじらないと思う。


 すべての授業が終わり、廊下で蟻観察帳をひらいて、今日はどこに寄って帰ろうかと悩んでいると仁王立ちした大林くんが僕の前に立ちはだかる。


「お前、もう一回勝負だ」


鼻の穴が綺麗になっている。


「勝負ってなんのさ」


「サッカーだ。お前に取られた一点。勝負をつけてやる」


「あれは僕の一点というより、千葉っちの一点だろ。僕は立っていたらたまたま頭にボールが当たって、勝手にゴールに入ってた。それだけなんだ。」


「確かにあれはお前だけの一点ではない。サッカーはチームでやるスポーツだからだ! 千葉のことはもう捕まえて、外に待たせてある。」


逃げろよ、千葉っち。


「知らないよ。僕にだって都合ってものがあるんだ。僕は忙しい」


そう言って大林くんの横をすり抜けると、後ろから大林くんの叫ぶ声が聞こえた。


「すかしてんじゃねー! お前みたいにクールぶってる奴なんか俺は大っ嫌いだー! 」


僕は開いていた蟻観察帳をランドセルに閉まって、決して振り返らなかった。靴に履き替えて昇降口を降りると、千葉っちが律儀に外で待っていた。


「千葉っち、大林くんのことなんて待つ必要ないよ。あの得点は事故なんだから」


千葉っちはメガネを中指であげる。


「いいんだ。僕、あの時少し嬉しかったんだ。大林くんもお前なかなかやるじゃんって褒めてくれて…。それで放課後サッカー教えてくれるって。だから、僕のことは気にしないで帰ってよ。最近、蟻の観察の方はどう? 」


「こっちはとくに進展はなしかな。サッカーなんかして、指を怪我したらお母さんに怒られるんじゃないのかい? 」


「サッカーは足のスポーツだから、バレないようにやるよ。こばっちの見せてくれた蟻観察帳。完成度が高くて、すごく面白かったよ。僕いつかこばっちは絶対に蟻博士になれると思うよ! 」


「ありがとう。千葉っち。頑張るさ。じゃあ、僕はお先に」


「また明日ねー!! 」


千葉っちの高い声が僕の背中を押してくれるような気がして、なんだか恥ずかしくなって僕は走った。


         3


 漁師さんが昼ご飯を食べるために、定食屋が立ち並ぶ漁港には、その食べカスを求めた蟻が集う。この町の漁港は蟻観察には欠かせないスポットの一つだ。

 紺色の色褪せた暖簾を、塩風になびかせている居酒屋「おでん屋兵次郎」の前に蟻の列ができているのを見つけた。

 巣の外に出て、こうして働いている蟻はほとんどががメスで、オスは何をしているのかというと何もせずに死ぬか、交尾した後に子供たちの餌として食べられて死ぬかのどちらかである。

 そんなことは僕が見つけた大発見ではなく、どこかの偉い人がすでに発表した有名な話である。

 僕はそんなふうに誰かを唸らせるような蟻の秘密を知りたくて、日々研究している。

 大林くんの鼻くそをあげようとランドセルからジップロック取り出していると、頭上でガラリという音がした。顔を上げると、おでん屋さんの安っぽいステンドグラスの戸が開いていた。鰹出汁の香りと共に、歯に爪楊枝を刺したシゲおじさんが暖簾をくぐって現れる。


「おっ。ピヨ彦じゃねぇか。」


シゲおじさんは黒いタンクトップに、ハイビスカスが描かれた白のハーフパンツを履いて、そのまま海に飛び込めそうな格好をしている。たくさんワカメを食べているはずなのに髪の毛が薄い。


「僕は清彦だ。」


黄色い通学帽をかぶって歩いてる後ろ姿が、ヒヨコみたいだからと僕のことをピヨ彦と呼ぶ。


「おめぇ、また蟻っころかぁ?」


シゲおじさんは皮のむけた足をビーチサンダルから覗かせて、蟻を踏まないように僕の後ろに回る。


「おじさん、今日漁してないの?」


「んぁ? ピヨ彦、ワカメの旬は春なんよ。おじさんは夏前にずいぶんと働きました」


息にお酒の臭いが混じったシゲさんおじさんの口の間で、爪楊枝が喋るたびに上下する。


「じゃあもうワカメ採らないの?」


「まったく採らねぇってわけでもないけどよ、ワカメはあちぃのが苦手なもんで真夏の間はせっせと休んでんのよ。俺と一緒」


「ふぅん。」


蟻はやはり大林くんの鼻くそを持って帰りそうにない。


「おい、ちゃんと人の話聞いてんか?おめさん、本当蟻以外のことには興味ねんだなぁ。」


「ちゃんと聞いてたよ。全部。ワカメは春が旬で、夏はお休み。シゲおじさんと一緒ってとこまで」


「よろしい。ピヨ彦は賢い賢い」


通学帽越しでも感じるゴツゴツした手で、頭を乱暴に撫でてくる。


「そうだ。次ピヨ彦に会ったらよ、見せようと思ってたもんがあったんだ。ちょっくら付いてくっか? 」


「どんなものかにもよる。僕は忙しい。」


「まぁまぁそう言うなって、蟻は蟻でも殺人蟻がよ…」


僕はシゲおじさんが自慢げに話そうとするのを遮る。


「あぁ、それなら知ってるよ。海外の船に猛毒を持ったヒアリがのってて、それが最近日本の漁港で頻繁に見つかってるって話でしょ? 」


先に言われて、シゲおじさんはひょっとこみたいな顔をしている。


「まぁ…そうよ。んでよ?こんな田舎には海外からの船はこねぇーでいいんだけどさ。一応漁師なら知っとけってことでこの前、組合からヒアリの資料を配られたんよ。」


「ふぅん。」


「見たいべ?」


「…うん」


珍しくシゲおじさんの提案に魅力を感じたので、僕はシゲおじさんに付いていくことにした。

 その資料はシゲおじさんが作業場にしている海沿いの掘建て小屋に置いてあった。中に入ると、漁をしていたときにシゲおじさんが着ていた迷彩柄のツナギが壁にぶら下がっていた。

 ライターと潰れたタバコがのった机の引き出しから資料を取り出して、僕に見せてくれた。

 全部のページに隈なく、目を通したけれど資料の内容は僕の期待したものではなかった。おそらくシゲおじさんはこの資料を読まずに、僕をここに誘ったのだろう。


 肝心のヒアリの生態については外容しか書かれてなかった。

体調2〜6mmで主に赤褐色。脚が六本。その下にヒアリの写真が一枚添付されていた。しかも白黒コピーなので意味がない。それに足が六本という情報に関しては、昆虫のほとんどは脚が六本なので当てにならない。

 その後の文章もヒアリを見つけた時は絶対に触らないとか、どこどこに連絡をして専門家の対処を依頼するとか事務的なことが書いてあるばかりだった。


「シゲおじさん、ありがとう。でも、これはそんなにためになりそうもないから返すよ。万が一の時のために、シゲおじさんは読んどいたほうがいいと思うけどね」


僕はまったく折り目のついていな資料をシゲおじさんに返す。


「そうけ。博士にはこの資料じゃ物足りんかったってわけか」


「僕は博士でもなんでもないよ」


「なんでぇ? いつも、蟻を馬鹿にするなー!って怒ってるピヨ彦が蟻博士でなくてなんなんよ」


「僕はただ蟻を見てるだけで、まだ博士じゃない。クラスの奴にはもっと自分がなりたい目標に向かって、ちゃんと努力してる子もいるんだ」


ここに来てからずっとブーンという音を鳴らして、まるで虫の息。といった様子の、かろうじて稼働している冷凍庫からシゲおじさんがアイスを二つ取り出す。そして、片方を僕に投げた。


「はよ食べんと、溶けるぞ。」


「うん…。」


食べ終わると稀にアタリ棒が出てくるサイダーのアイス。


「ちゃんとしたって例えばなんよ?」


「大林くんはサッカーを頑張ってる。夏休み中もずっと頑張ってて、よく焼けてた。なんか大会で優勝したらしい。」


「あぁ、あの背が高くて、若い時の沢田研二によう似とる子な。」


「それは知らないけど…」


「そうけ。」


「升くんは太ってて何もしてないように見えるけど、ちびっ子相撲の全国大会で毎回いいとこまでいくらしいんだ。」


「そいつのことは知らんなぁ。」


大林くんと升くんは常に一緒にいるはずなのに、なぜ升くんのことは知らないのだろうか。


「黙って聞いてていいよ。」


「おうっ。」


「友達の千葉っちは、ピアノが弾けるんだ。すごく上手に。そのかわり怪我するといけないから、お母さんにスポーツはあまりするなって怒られるみたいで少し可哀想だけど。そうやってみんな、何かを頑張ってるんだ」


「ピヨ彦だって、蟻の研究頑張ってるでねーか」


シゲおじさんはハズレだったのか、二本目のアイスを開けようとしている。


「僕だって一生懸命、蟻の研究をしてるつもりだ。だけど、帰り際に大林くんに言われたんだ。そうやってすかしてるやつは嫌いだって」


「そんなやつには仕返しだ! 仕返し。すかしだけにすかしっ屁ってな。」


「最近、僕だけがくだらないことをやって生きてるんじゃないかって不安に思うんだ。だから、早く大人になりたいって思う。そうすれば本当に蟻博士になれるかもしれない」


シゲおじさんはまだ自分の寒いギャグに体を震わせている。


「大人なぁ。ピヨ彦、大人にもいろいろ種類ってもんがあるんだぜぇ〜。俺みてぇな大人になりたいか?」


「シゲおじさんは、僕の好きな大人だよ」


「ピヨ彦はさらっとそういうこと言うから女子にモテんべなぁ〜」


シゲおじさんが照れるので、なんだか僕も照れる。


「いや、女子とは話すことすなんて、ほとんどないから知らないけど…」


「俺もさぁ、若い頃はよく早く大人になりてぇって思ってたなぁ」


「そうなの?」


「そうよ! 情けない話かもしれないけど、オヤジのやってたワカメ漁そのまま継いだもんだからさ、俺はこのちっちぇ町から生まれてこの方出たことないんよ。」


「うん。」


「ガキの頃、よくオヤジが外にワカメを天日干ししててよぉ。それを見たクラスの奴らが言うわけよ。お前の部屋のカーテン全部、ワカメなんじゃねぇーのって」


「そんなわけないのにね」


「まぁ実際オヤジの部屋の窓には、ワカメかかってたっけどね。継ぎたくねぇ。絶対に継ぎたくねぇて思ってたけど、俺は頭悪りぃから他に働き口もなくてよ。オヤジにしごかれながらワカメの漁師になったわけ」


「今でもやりたくないこと?」


「それがよ、最初は毎日毎日おんなじこと繰り返して何になるんだって思ってたんだけどよ。ある日な、いつも通り朝早くワカメ摂るために海に潜ってたんよ。したらな、浅瀬に3頭も座礁イルカが浮いててよ」


「こんなところに?」


「まぁ海はどこまでも繋がってるからよ、イルカいても不思議ではねぇけどさ。俺が最初にそれを見つけたもんだから、慌てて漁師の仲間かき集めてさ。2匹は死んじまってたんだけど、1匹はみんなで押し返してどうにか助けたんよ」


「ジゲおじさんすごいね。」


「俺は単純だからよ。そのことがあってから、なんかワカメ採りが地味な仕事には思えなくなってよ。毎日続けてるとこんなこともあるんだなぁって」


「シゲおじさんは運がいいからだよ」


「まぁそのことが大きいけどよ。この仕事を特別に思った理由は別にそれだけでねぇぞ。」


「なに?」


「こんなちっちゃくて来づれぇ町にな、わざわざワカメだけを買いに来る客もいるだ。ピヨ彦、俺はそういう人のために働いてるんよ」


「うん」


「くだらねぇことも地味なことも。そのまま本当にそうしちまうのか、それともちげぇもんに変えるんかは所詮、自分次第なんよ」


「シゲおじさん、僕はシゲおじさんはみたいな生き方、結構好きだよ」


「照れんねぇ。負けんなよピヨ彦。ヒアリはあんなちっちぇのに何十倍もでけぇ人間を脅かすんだからよ」


「そうだね。それなのに僕は、僕と同じ人間に対して、何もしないうちから負けた気になってた。シゲおじさん、ありがとう。また来るよ」


そう言って僕は磯臭いシゲおじさんの作業場を出た。


「ピヨ彦ー! お前がいつか大きくなっなら、大空を羽ばたく男になるって俺は信じてるぞー! 」


シゲおじさんはそう言いながら、ワカメをぶん回している。


「おじさーん! ヒヨコは大きくなってもニワトリだから空を飛ばないんだー! 」


「そうなんけぇー? そんだらちょうどいい! いっそのこと不可能を可能にしてみせろー!」


「やってみるよー! 」


シゲおじさんと僕。2人だけが知っている秘密のサインを交わして、まだ明るい夏の空を見上げながら、飼っている蟻が待つ我が家に走る。

 この町に家が建つ。その度に僕の大切な蟻たちが犠牲になるかもしれない。

けど、きっとそれは誰かにとってはとても意味のあることなのだと僕は思う。

だからこそめげずに、これからも新しい蟻の住処を見つけて蟻観察帳の地図を広げていく。

 いつかシゲおじさんの見たイルカのような存在に出会うまで。

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