父と娘とカップ焼きそば

片瀬京一

父と娘とカップ焼きそば

 キッチンの作業台に置かれたカップ焼きそばの容器からは、白い湯気が立ち昇っている。それを横目に、俺は今まさにその場から追い出されようとしていた。


 愛する我が娘が、俺を追い出そうとグイグイ俺の背中を押してくる。


「いいか? お湯を捨てる時も、火傷しない様に気を付けるんだぞ?」


「わかってるってば!」


「お父さんはお前を心配して……」


「もう! 大丈夫だからあっち行ってて!」


 なおも食い下がろうとする俺に、娘の凛花りんかはピシャリとそう言って俺を睨んだ。鋭い視線が俺の目を真っ直ぐに見上げてくる。


 父一人娘一人の家族なんだ。

 多少過保護になるのは仕方がないじゃないか……。


「お父さん!」


「ぐぅ……わかったよ……」


 未練がましく居座りつづけようとする俺に、腰に手を当てて睨み返してくる凛花。その迫力に負け、俺はスゴスゴとリビングへと引き下がった。

 

「まったく、怒り方がそっくりになってきたな」


 ふと脳裏に浮かんだのは、今は亡き妻の面影。

 ふくれっ面で見上げてくる娘の姿がそれと重なり、ここまで成長してくれた喜びとともに若干の寂しさが込み上げる。


「やれやれ……」


 小さくため息をつき、リビングにあるソファに体を投げ出す様に座る。

 ボンヤリとテレビを見て過ごす日曜日の午後。

 テレビの音に紛れ、キッチンからは楽しげな娘の鼻歌が聞こえてくる。


「そういえば、凛花と初めてカップ焼きそばを食べたのは何時だったかな……」


 そんな呟きを切っ掛けに、懐かしい記憶を辿る。


 ――あれは凛花の母親が死んでまだ間もない頃だったな。当時は色々と忙しくて、あまりキチンとした食事を作ってやる余裕が無かったんだよなぁ。


 当時はまだ今の家ではなくて、二階建ての古いアパートの一室に、親子で住んでいたっけ。


 成長した今では手狭に感じそうだが、当時の凛花はまだ幼く小柄だったので、並んで立ってもだいぶ余裕があったと記憶している。


 ――幼い娘と並んで立つ台所。

 踏み台の上に立った凛花は、三角巾にエプロン装備と準備は万端だ。

 そして目の前には、カップ焼きそばの容器が俺たち父娘の様に仲良く並んで置かれている。


 包装のビニールを剥がし、蓋を半分だけ開けて中の小袋を取り出していると、凛花がその中の一つを手に取った。


「これが最初でしょ?」


「そう。それが最初。よく知ってたね」


「えへへ♪」


 俺の言葉に得意顔でこちらを見上げた凛花が、嬉しそうに『かやく』と書かれた小袋を破り、慎重な手つきで容器に入った麺の上に撒いていく。

 サラサラと聞こえる乾いた音が心地いい。


「これは『かやく』と言って、キャベツとかのお野菜を乾かしたものなんだよ」


「へぇ~。じゃあこっちは?」


 そう言って再び笑顔で見上げてくる娘の手には、大きさの違う小さな袋が一つずつ。

 

「それはソースとふりかけ。お湯を捨てた後に入れるんだ。絶対に先に入れちゃダメだぞ?」


 昔やらかした事を思い出しながら体を屈め、凛花と視線を合わせて念を押す様にそう伝えると、凛花は胸を張って言った。


「大丈夫だよ! 凛花、間違えないもん!」


「あはは。そうか。凛花は偉いな」


 そう言って頭を撫でると、凛花は嬉しそうに目を閉じた。

 

 母親を亡くしてからというもの、塞ぎがちだった凛花の嬉しそうな顔を見て、俺の心にも安らぎが満ちていく。


 カチッ!


 凛花を愛でる様に撫でていると、セットしておいた電気ケトルが小さな音を立てて停止した。


「凛花、お湯はすごく熱くて危ないからパパが入れるよ?」


「え~、凛花がやりたい」


「だーめ。もっと凛花がお姉さんになったらね」


 不満気な声をあげ口を尖らせる凛花だが、これは譲れないところだ。

 大事な娘に火傷でもさせたら、それこそ妻に申し訳が立たない。


 そばで見ている凛花にお湯が跳ねない様に気を付けながら、慎重に容器にお湯を注ぎ終えると、電気ケトルを脇に置き、蓋をしながら凛花に声をかける。


「凛花、そのソースの袋をこの上に乗せて」


「こう?」


 凛花はそれぞれの蓋の上に、ソースの小袋をそっと乗せた。

 そして、後ろに立つ俺の方へくるりと踏み台の上で器用に振り向くと、不思議そうな顔で尋ねてくる。


「ねぇパパ、なんでソースの袋を上に乗せるの?」


「ん~、ソースを温めるのと、蓋が開いちゃわないようにする為かな」


「ふーん」


 そう返事はしたものの、良く分かっていなさそうな表情を凛花が浮べる。

 マンガやアニメだったら頭上に『?』が三つくらい浮かびそうだ。

 そんな凛花の頭をクシャクシャっと撫でると、卓上タイマーを3分にセットする。


「じゃあここ押して?」


「うん!」


 元気よく返事をした凛花が、差し出されたタイマーのスタートボタンを押すと、小さな電子音が鳴りタイマーがカウントダウンを始める。


 独身時代はこのたった3分の待ち時間が実に焦れったかったものだが、こうやって娘と二人でならそれほど悪くない時間に思えるのは、何とも不思議な感じだ。


「さて……俺は麦茶でいいか。凛花は何飲む?」


 待つ間に飲み物でも用意しようと、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し凛花に振り返った。すると――


「まだかな、まだかな~♪」


 そこには、不思議な歌を歌いながらタイマーのカウントダウンを見つめる凛花の姿があった。踏み台の上で背伸びをしながら、ぴょこぴょことリズムを取りながら口ずさむ。その後ろ姿があまりに微笑ましく、麦茶のボトルを手に持ったまま、思わず吹き出してしまう。


「あはははは」


 そんな俺を不思議そうな目で見ていた凛花だったが、次第に俺に釣られて凛花も声を出して笑いだした。


 そのまま他愛も無い話に花を咲かせていると、いつの間に3分経ったのかタイマーが大きな電子音で鳴り響いた。


 調理手順通りに作るのであれば、今度は余分なお湯を捨てる事になる。

 いわゆる『湯切り』というやつだ。

 それをせずにソースを入れたらどうなるか知っているかい?

 お湯で薄められたソースが絡む麺など、俺の味覚から言えば美味い物じゃあない。


 だがしかし、ここで一つ問題がある。

 熱湯の取扱は幼児には大変危険であるという事だ。

 だからこそ、お湯を注ぐのも俺がやったのだ。

 ここでも当然、父親である俺が湯切りをやるつもりだった。

 しかし――


「やー! 凛花がやるー!」


 なぜか湯切りは自分がやりたいと言って譲らない凛花。

 くっ! 何故だ?


「お湯入れるのはパパがやったんだから、捨てるのは凛花がやるのー!」


 答えは単純明快だった。

 しかしそうきたか……確かにパパばかりやったら不公平だよな。

 だが断る。

 とはいえ、このままではせっかくの麺がふやけすぎてデロデロになってしまう。

 ふやけきった麺など美味くもない。

(賛否はあろうが俺好みではないのだ)


 そこで一計を案じた俺は、一つの妥協案を提示した。


「じゃあパパと一緒にやろう? それならいいだろ?」


「……わかった」


「もっと大きくなったら一人でやっていいから」


「約束?」


「約束♪」


 凛花が差し出した小指に自身の小指を絡め、古来からの約束の作法である、指切りげんまんをする。そこまでしてようやく凛花を笑顔に戻した後、改めて湯切り作業に入った。


 容器を持つ凛花の手の上から、そっと俺の手を添える。

 指切りげんまんしている時にも感じたが、こうしてすっぽりと包み込めてしまう凛花の手は、非常に小さく頼りない。だがそれは俺に父親としての自覚を、再確認させてくれた。


 凛花のためにも、俺ももっとしっかりしないとな。


 こうして二人の共同作業により、容器から排出された熱湯がシンクに注がれていく。タパタパと音を立てながら注がれる熱湯が、モウモウと湯気を立ち昇らせながら、シンクの排水口へと吸い込まれていく。

 立ち登る湯気に視界を閉ざされながら楽しげに笑う凛花。


 熱湯で熱せられたシンクがボコンと音を立てる。

 それに驚いた凛花が、手を滑らせ容器を落としそうになるというトラブルはあったものの、どうにか無事に湯切りを終えた。


「さて次はソースを……」


「凛花がやりたい!」


 おもむろに小袋を開けようとした俺の裾を引き、凛花がそう言いながら見上げてくる。目をキラキラさせたその顔は非情に愛らしい。


 だが服についたシミは落としにくいのだ。

 家事が得意なわけでも、まして好きなわけでもない俺は、正直なところあまりやらせたくはなかった。


「ソースが跳ねたら服が汚れちゃうかもしれないし……」


「でもやりたい!」


 食い気味に即答である。

 ちょっと考えた末、結局俺は折れた。


 娘のやりたいというその気持ち。

 それは大切だと思うし、親としても喜ぶべき事である。

 凛花が自分でやりたいと願うなら、俺は親として挑戦させてあげたい。

 そう思ったのだ。


 ただし、親の義務として注意だけはしておく。


「袋を開けた時にビチャってこぼれない様に気を付けろよ? 服についたら洗うの大変なんだからな」


「うん!」


 俺の本音が多分に含まれた言葉に元気よく返事をした凛花は、真剣な眼差しで袋に取り掛かった。俺が見守る中、指に力を入れ袋を切り裂いていく。


 しかし、案の定と言うか想定内と言うか、無事に袋は開けられたものの、容器に入れる際に少しこぼれてしまった。


「ごめんなさい……」


 しゅんとした凛花の視線の先には、ソースが点々と付着した作業台。

 俺は落ち込む凛花からソースの袋をやさしく取り上げると、脇によけておいた容器の蓋の上に乗せ、優しく声をかけながら凛花を抱き上げた。


「大丈夫だよ凛花。台の上がちょっと汚れちゃったけだしね」


「うん……」


「ほら。まず先に手を綺麗に洗っちゃおう」


 そう言ってシンクの蛇口から水を出し、抱いたままの凛花を水に近づけると、凛花は小さな手を伸ばしてソースを洗い流した。


 綺麗になった凛花を再び踏み台の上に戻してタオルを渡す。

 しかし、手はちゃんと拭くものの、顔は落ち込んだままだ。


 どうやら自信満々で袋を開けたのに、こぼしてしまった事が余程ショックだったらしい。

 俺はティッシュを取ると、凛花に差し出しながら目線を凛花に合わせる。


「じゃあ今度はこれでソースがこぼれてる所を拭いてね」


 無言でそれを受け取った凛花は、俺に言われるがまま、今度はこぼれたソースをティッシュで拭き始める。だがその顔にはやはり元気がなく、まだ失敗したことを引きずっているのは明らかだった。


 俺は後ろからそれを眺めながら、小さく息を吐いた。

 大人には大した問題では無い事も、小さな子供にとっては大きな問題なのだろう。


 失敗を失敗だと認識し、それに対して落ち込んだり悔しいと思うのもまた成長の証だし、凛花にはそれを糧にして頑張ってもらいたい。


 そんな風に思いながら、俺は再び凛花に視線を合わせ、諭す様に言った。

 

「凛花。こぼしちゃっても拭けばいいんだよ。失敗しちゃっても大丈夫。ほら、拭いた所を見てごらん。綺麗になったろ?」


「うん……綺麗になった」


 そっと凛花の頭に手を乗せて優しくなでる。

 凛花の目にジワリと涙が浮かぶ。


「なんでも失敗したらやり直せばいいんだよ。できなければパパに言えば助けてあげるからね。それに……もしパパが失敗しちゃったら、凛花が助けてくれるだろ?」


「うん! 私が助けてあげる!」


「ありがとう凛花」


 そう言って凛花を抱きしめる。

 即座に抱きしめ返してくる小さな腕に、少し目頭が熱くなった。

 しばらくそうした後、一度だけギュッと強めに凛花を抱きしめる。


「よし! じゃあ仕上げて食べようか!」


「うん! 凛花お腹ペコペコ!」


 二人で元気よくそう言うと、二人一緒に仕上げに取り掛かる。

 結局かき混ぜる時も、青のりをふりかける時も、少しだけこぼしてしまった凛花だが、今度は自分でティッシュを取りに行き、汚れた所を自分で拭いていた。

 その時の誇らしげな笑顔は、今でもはっきりと覚えている。



 ピピピッピッ


 懐かしいタイマーの音が、俺の意識を現実に呼び戻す。

 音はすぐに止み、やがて台所からボコンと小さな音が。

 そして、香ばしいソースの匂いと共に凛花が笑顔でやって来た。


「お待たせ~♪」


 テーブルの上には、仲良く並んで置かれた二つのカップ焼きそば。

 そして、昔と変わらぬ食欲をそそるソースの香り。


「お父さん。もうちょっとそっち行ってよ」


「なんだよ。いつもはそっちに座ってるじゃないか」


「いいじゃないたまには。それにあっちだとテレビが見にくいし」


 そう言われて横にずらされる俺だが、内心は困惑気味だ。


 いつもは気にせず見てるよな?

 なんで今日に限ってこっちに座る?


 嬉しく無い訳ではないが、正直ちょっと照れくさい。

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、凛花は「いいからいいから♪」と言いながら強引に俺の隣に入ってきた。


「はいお父さん。お箸」


「おお、ありがとう」


 困惑したままの俺の横で、凛花は「いただきます」と言ってカップ焼きそばを食べ始める。


「ん~♪ このソースの味と香り大好き♪」


「奇遇だな。お父さんもこのソース好きなんだよ」


「たまに食べたくなるよね~?」


「そうだな。でもお父さん、麺は縮れ麺だった時の方が好きだった」


「あ、私も!」


 父娘で顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。

 

 娘と笑い合いながら興じる他愛も無い会話。

 そんな心地よい空間で食べるカップ焼きそばの味と香りに、少しの幸せを感じる日曜日の午後だった。

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父と娘とカップ焼きそば 片瀬京一 @kyoichi-katase

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