第42話 あおいろラスト(9)

 七



目を覚ましたら、頭に冷たい感触があった。

伏せたままいると、一定のリズムで髪が揺らされる。どうやら、誰かに頭を撫でられているらしかった。少し巻いた前髪から伝って、甘い香りが指が下りてくる都度、鼻先に乗る。

誰だろう、顔は見えない。むろん、頭を撫でてくるような人は思い当たりもしない。

けれど、なぜか自然に渡辺さんだと思った。

少し考えて、なんて都合がいいのだろうと自分に呆れる。彼女がいるわけがないのは、さっきで分かっているはずだったのだけど。


まだたぶん寝ぼけている、それか夢に違いない。そうだとしたら、覚めてしまわないように、と思った。曖昧でも、虚構でもいい。それでも今はそこにあってほしかった。

もちろん本当なら、たしかに掴みたい。けれど、握ったら消えてしまうのなら、すり抜けてしまわないで指先に掛かってさえいれば、それで十分足りていた。微睡みに包まれる。少しくすぐったいけれど、それがむしろ心地よかった。もう少しこのまま、そう考える。そのうちにも時間は変わらず過ぎていく。それでいい。ただ、できればゆっくりと、思っていたら、ふと手が止まった。夢の終わりらしい。

小さく息をついていると、


「……やっぱり髪固い、トリートメントしてるのかな」はっきりそう聞こえた。

今度こそ間違いなく、渡辺さんの声だった。


「んー、ワックスのせい? 試験につけていってどうするつもりだったんだろう。……あぁあれなら」


驚いて顔を上げられないままいると、がさとなにかを漁るような音がする。それから、机の周り、なにかが並べられはじめた。頭の近く、置かれていくものの正体が解らないのが妙に怖い。なにせ渡辺さんのかばんは、ブラックボックスだ。

目当てのものが見つかったらしい、物が置かれるたび、机に響いていた音が止む。


「んー調子悪いなぁ。使ってなかったからかな。……まぁいっか」


その代わり、今度は霧吹きをするような不穏な音がした。しかも詰まったように、歯切れが悪い。それが俺に向けられるのは、自明だった。

焦って頭を起こす。

狙ったように、眼前、構えられたスプレーが顔に吹きかかった。


「え、お、起きた!?」


渡辺さんがスプレーのレバーに指をかけたまま言う。ラベルを見るに、整髪剤のようだった。


「……起きるよ、俺だって」


起きがけだからだろうか、怒る気にもなれず、極めて平静に返事をする。これが、およそ二ヶ月ぶりの会話だった。


「そりゃあそうだけど……タイミングってやつがあるでしょ! ……え。ねぇ、い、いつから起きてたの!?」

「さっきだって」

「さっきっていつ!?」

「……本当ついさっき」


渡辺さんがまだ少し訝しそうに、俺を覗きこむ。嘘はついていない。たしかに、半分は寝ていた。けれど、残りの半分を悟られないため話を変える。


「渡辺さんこそ、なんでここにいるんだよ」

「たまたま大石くんと会って、連れてこられたの」

「葵と? あぁ、あれ、その葵は?」

「用事で来られなくなったみたい。連絡入れる、って言ってたよ」


机の上、置いていた携帯を手に取る。しかし、なにもメッセージは入っていなくて、更新してみてもそれは変わらない。


「まだなかった? でも本当だよ。そうだ、差し入れにってパン預かってる」


顔の前、渡辺さんがパン袋を揺らす。さっき髪から垂れてきたのと同じ、甘い匂いがした。


「それ、渡辺さんのところのパンじゃん」

「そうだけど……大石くんが代わりに、って持たせてくれたの。チョココロネ」

「それってたしか葵が好きなパンだっけ。もしかして渡せなかったのか?」

「もう! これは差し入れ! そんなに信用できない?」

「……別にそうは言ってないだろ」

「言ってるようなもんでしょ!」


渡辺さんが口を尖らせる。続く聞き慣れた文句が耳を過ぎていくのとは反対に、意識したばかりだからだろう、見慣れない私服姿に、少し胸が鳴った。ついまじまじと見つめてしまう。


「な、なによ」


なにもない、首を振る。そのあと、少し間の沈黙が訪れた。


「…………とりあえず顔洗ってきたら?」

「──あぁ、うん」


言われるまま、俺は洗面台へと立った。


目の前に渡辺さんがいた。いたらいたで早速害を被ってろくでもないけれど。でも、彼女がいた。もう来ない、と思っていた彼女が、たしかに目の前に。


冷たい水で顔を洗ったら、ようやく頭の整理がついてくる。はっきり夢から覚めても、離したくないと思っていた。そして、逡巡していられるほど残された時間は多くない。ならば、どうすればいいかは、単純だった。席に戻る。


「ねぇ、まだ勉強しようとしてたの?」


渡辺さんは、積んでいた教科書のうち一つを手に取っていた。つまらなさそうにめくりながら、机に顔の側面を預けている。


「……いいや、ここに来たらつい癖で」


告白するくらいの心算をしていたのに、いつも通りの彼女を面前にするとペースが崩れる。一つ息を整えた。残された時間は少ないとはいえ、別に急く必要はない。


「なんだ、勉強の虫になったのかと思った。そもそも公民館選んだのもそのため? ってちょっと勘ぐった」

「そんな風に見えるか、俺が」

「ううん、全く」

「でもじゃあどうして? 予想はついてるけど」

「なに」

「名残惜しかったから、でしょ。くるまで大石くんと話してたんだ」

「そんな大仰な。ただなんとなくだよ、なんとなく」


言ってから、それを言葉にする必要があると思った。


「なんとなく、ここに帰ってこようと思ったから」


言ったら、すぐにけらけらと笑われた。


「なにその、家みたいな言い草。川中くんの家は公民館じゃなくて、パン屋でしょ。もっと香ばしい匂いしたよ」

「あと、もっと狭いし、怖い親父が目光らせてるな」

「そうそう。…………でもまぁ、ここが落ち着くっていうのは分かる。懐かしいね、この感じ」


懐かしい、そう聞いて、渡辺さんにとってはとっくに過去なのだとはっと気づかされる。そしてそれは、明日からの俺にとっても同じだ。


「俺は渡辺さんがいなくても、ここで勉強してたけどな」

「私がいなくてもちゃんと勉強してた? あ、寂しかったでしょ。ってそっか、ばーゆいたからそれはないかー」


渡辺さんが、いたずらっぽく笑う。きっと冗談、ジョークのつもりに違いない。それと分かって同じように返そうとして、


「……少しだけ、そうかもしれない」


口にしたら、そうではなくなった。

自分で言い放っておいて、恥ずかしさでじわじわと顔が紅潮してくる。

渡辺さんには、どう伝わったのだろう。目線が背けられる。横顔から表情を伺おうとしていたら、そっか、と唇の間からこぼれた。それから、また参考書が当てもなくめくられ始める。


二人が黙るだけで、広い館内は簡単に音を失う。前はなんてことなかった沈黙が、肌の裏をくすぐった。落ち着かなくて、少し身体を揺する。


それは渡辺さんも同じだったのだろう、頭を起こす。仕切りに前髪を手櫛して、それからパン袋を手元に寄せた。袋の中から一つを取り出してかじる。口を動かしたまま、無言でこちらへ袋を差し出した。


「いいのかよ、これ」


反応はない。躊躇いはあったけれど、もう一度念を押す。


「これ、葵に渡そうと思ってたんじゃないの。渡せなかったなら供養するけど」

「違うの」


一言、強い調子で返事があった。一呼吸あって、彼女はパンを置く。


「本当に違うんだよ。これはね、大石くんにあげようと思ってたわけじゃないの。大石くんから預かったんだけど、でもね、そうじゃなくて。とにかく違うの」

「……分かった。ありがとう」

「どういたしまして、って大石くんに言っといて」


俺は袋を自分の手前まで引いた。


「甘いもの嫌いじゃなかったっけ」

「たまにならいいの。川中くんが食べてるの見てるのもつまんないし、それに二つも食べられるの」

「ちょっと苦しいかも」

「でしょ? それと…………さっきはごめんね、悪気はなかったんだ」

「分かってる」

「あとね」

「もう謝らなくてもいいけど」

「別のこと。私も、寂しかったよ」


少しだけね、と加えられた。


「……おう」

「反応薄い。そういうのよくないよ」

「それは渡辺さんもだろ」


チョココロネを一口かじる。渦の中から溢れ出すチョコが、とにかく甘かった。こんなに甘いのか、と思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る