第6話 アテンドTHE大化改新(6)

     六



放課後、俺は美術室に一人で来ていた。

力作「無と線」は適当すぎるとのシンプルかつ明白な理由で、見事に居残り対象となった。それもクラスで俺ただ一人が。

職員会議がある、と先生が教室から出て行ったら、一人きりで美術室に取り残される。美術室どころか、放課後に別棟にいるのなんて俺以外いないのではないかと思う。

まだほぼ凸凹のない平たい板を、呆然と見た。とりあえず既に引いていた一本の線を太く彫ってはみたが、ここからなにをしたものか。まだ線一本、どんな模様でも彫ることができるはずなのだけど、その「どんな」が一向に思いつかない。制約は嫌いだけれど、なにもないのもそれはそれで難しいものだ。指針なく海に放り出されるのに似ている。なにか一つでもあれば、そこからイメージが広がっていこうものを、漠然としすぎてイメージも何も形を成す前に霧となって消えていく。それはまるで、いまだ進路の決まらない今の俺に重なっている気がした。

うんうん唸った挙句、立ち上がって、教室内を目的もなく歩き回る。癖だ、考え事をする時はどうも落ち着いていられない。「将来の徘徊は約束されているな」と葵に笑われたことがある。参考になるものはないかと飾ってある風景画や西洋人モデルの石膏像を眺めた。が、こんなものが彫れたらとっくに芸術家になっている。三周して結局成果なく、元の席に着いて天井を仰いだ。

だるい、面倒だ。こんなものに考える時間や労力を費やすくらいなら、三角関数の問題を考えるほうが幾分もいい。とはいえ、逃げたところでまたここへ送還されるだけだ。窓の外からは夕日が差し込んでいた。赤っぽいオレンジの光が窓枠狭しと入りこむ。立てかけられた画板に反射して、部屋全体が同じ色に染まっていた。聞こえてくるブラスバンドの演奏までも色づいて聞こえて。

つい舌打ちをひとつ打つ。あまり夕日は得意じゃない。ため息をわざとついて、浮かんできそうになるイメージを払った。

そして、間のいいことに閃いた。少し太いだけの一本線の上に、鉛筆で半円を描く。タイトルは「夕日」。これでもう何本か直線を引いたら、十分作品になるだろう。好き嫌いと使えるかは別の話だ。

明かりをつけないと手元が見えなくなるまで作業をしたら、文字通りの荒削りながら一応作品は完成した。先生が帰ってこないので(存在を忘れられている線が濃厚)、教卓の上に作品を置いて電気を消したら部屋を出る。

廊下は、真っ暗だった。非常警報灯が赤く光るのが、不気味な感じを増長する。

帰るのが日に日に遅くなってしまっている。自分は奔放なくせ、息子には過度に心配性な母だ。スマホを開くと、「今日は何時に帰るの?」というメッセージがうさぎのスタンプとともに暗闇に浮かび上がった。「今から帰る、まだ学校」とだけ素っ気なく返す。ほとんど待つ間もなく返ってきたのは小躍りするうさぎ。ギャル、いやまるで年下の中学生とやり取りをしているかのようだ。返すメッセージは、ない。

そのまま閉じて、スマホのライトを頼りに昇降口を目指す。そこらに散っているカメムシの死骸を踏み抜いたら即ゲームオーバーだ、足下を見ながら慎重に進む。しかし、汚い廊下だこと。光で照らすと、舞う埃も地を這う埃もくっきり見えた。大掃除一回で、間に合うかどうか。業者を呼んで、大掃除機で吸い上げてやっとのレベルだろう。

だが、よく見ていたら一部だけやけに綺麗なところも発見する。その部分だけは死骸も埃もなにもない。掃除係がどうせばれないだろうと、この辺りだけ掃いたのだろうか。

杜撰な仕事をするくらいなら、潔く全くやらない方が手抜きがばれなかったりして。

どうでもいい教訓めいたこと、というよりただのサボりの言い訳が考えついた。どこで使えるわけでもない。だが、そういう時のための例のノートだ。カバンを開けて取り出す。

ちょうど紙が切れていたので、ノートを窓の縁に乗せ新しい紙を滑らせた。ライトで照らしながら、文章をしたためる。ついでに、母が中学生みたいとも書いておいた。終えたところで、携帯が震える。

「たいちゃん、連絡切れちゃったから心配したんだよ。帰ってこられる?」

「……うん。すぐ帰るから」

「本当に? お迎え行こっかー?」

「いいよ。むしろ家にいてくれ」

 迎えに来る、と聞けば助かりそうなものなのだけど、母の言うそれは徒歩で来ること。夜道にあの人をふらふらさせることほど恐ろしいことはない、そのままどこへへも流れていってしまいそうだ。母が動きださないうちに帰ろう。そう思って急ごうと踏み出した足が、カメムシを踏む。最悪だ、今日はついていない。



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