ある喫茶店で

「あ、すいません。コーヒーください。アイスで。はい、お願いします。」


 注文を終え、上着を脱いだ。今日はあまりにも蒸し暑い。外回りで歩いていると熱気と蝉の声が相まってあやうく頭が沸騰するところだった。


 すぐに近くの喫茶店に入ったのだが、予想以上にいい雰囲気で驚いた。

 かすかに聞こえるジャズはどうやらレコードで流しているらしく、ところどころ音が飛んでいる。

 

 店にいるのは僕の他に数人の客と注文を聞いてくれた男性だけだ。男性はピタッと押さえつけた白髪にシャツにベストで、いかにも「マスター」という感じだ。


 しばらくしてマスターの持ってきたアイスコーヒーは見るからにキンキンに冷えていて、ビールでもないのに思わず唾をのんだ。

 

 ストローに口をつけるとフルーツのようにフレッシュでそれでいて濃厚なコーヒーの香りが鼻に抜けた。喉を滑っていくコーヒーは本当においしいのに、次の瞬間には喉にも舌の上にも何の味もしない。まるで水を飲んだのかと思うほどだった。


 全くいい喫茶店を見つけてしまったとひとり心の中でガッツポーズをしていると、隣の席にに70代くらいの女性の集団が来た。年齢にしては3人とも華やかな恰好をしている。ソファに紙袋を置きながら1人の女性が座るのが視界の端に見える。


「はー、よっこらしょっと。

久々に来たねぇ。あんたたちとはいつも会ってるけど、こんな明るい場所でじゃないもんねぇ。あら、梅昆布茶はないのかい。黒豆茶もない。あらまあ。どうしようかしら。え、さっちゃんクリームソーダにするの?ハイカラねぇ。じゃあわたしもそうしようかしら。ウメちゃんもそれでいいの?じゃあ決まりね」


 なんだか騒がしいが、実家の母を思い出す。母はどうしているだろうか。最近はあまり連絡もできていない。定年退職した親父と2人暮らし、仲良くしているだろうか。


「すみませーん。クリームソーダ3つください。はーい。おねがいします。

なんだか、女学生時代に戻ったみたいね。うふふ」


 うちの母もこうして友達とお茶をしたりしているだろうか。そうだったらいいなあなどと思いながら、次の訪問のことを思い出してカバンから資料を取り出した。


「学校に通っていたころもよくこうして3人で喫茶店に来たわよね。そのときはなんで1人も注文しないのに、席に座ってお喋りさせてくれるのかわからなかったわよね。なんで、彼がちらちらこちらを見るのに目が合わないんだろう、ってずっと思ってた。」


 次の取引先の社長は気分屋でその日の気分によって取引の結果が変わるんだ。注意しておかないといけないな。今日は暑いから気分…


「そうねえ。あ、そういえば、私、今日のために竜彫ったのよ。ここ、腕のところに!ちょっと痛かったけど、竜のカッコよさには勝てないわ。あらさっちゃんは恵比寿さん?どこに彫ったのうなじ?あらほんとだ!生きのいい鯛ねえ。ウメちゃんは、梅の実でしょ。ふふ、やっぱり。どこに彫ったの?え?言えないようなとこ?もうウメちゃんはハレンチね!まあ彼もそういうところがよかったんでしょうけど。」


 社長のことを考えていたのに途中から頭に入らなかった。竜、恵比寿さん、梅の実?なんの話だ。彫った?嘘だろ。隣をみたいがこの距離じゃあまりに不審だ。彼女たちの年代になると人生でやり残したことを考え、それをやりたくなったりするのだろうか。


「あ、来たわ。クリームソーダ。ついに来ちゃったわね。ほんと最後の晩餐がクリームソーダになるなんて思わなかったわ。わーい。あらおいしい。しゅわしゅわしてておいしいわ。」


「けど、食べていくほどなんかクリームとメロンソーダが混ざって汚いわね。なんだか、はかないのね。私たちにピッタリ。」


「…なんだかまだ実感がないの。このボタンを押したら、この喫茶店も、今やマスターの彼も、私たちもぜーんぶ一気にふっとんじゃうなんて。」


「あの人と私たち3人の関係を終わらせるには、もうこれしかないのよ。まさか40年にもわたってうまいことやってたなんてね。けど私たちはもう十分生きたわ。クリームソーダのようにはかなく散りましょう。なんちゃって。あはは、うふふ。」


 何を言っているんだ?嘘だろ。3人に気づかれないように隣を見ると、1人がまるでお中元のハムが入っていそうな箱を紙袋から机の上に取り出した。

 

 これは本当にまずい。正直なにがなんだかわからないが、彼女たちは爆弾をもっているのか。こんなところにはいられないと急いで資料を片付け、立ち上がろうとしたとき、


「でも、なんだかどのタイミングでボタンを押そうか、よくわからないわね。彼を見ちゃうと、まだこうしてずっと見てたいもの。」


「そうだわ。この隣の方が席を立ったらボタンを押しましょうよ。そしたら、すべてがしゅわっとはじけるわ。そうしましょ。」


 浮かしかけていた腰を下ろし、アイスコーヒーを追加注文した。そして再びカバンから資料とノートパソコンを取り出した。


「いつ立つのかしらねぇ」


 私は今、キンキンに冷えたアイスコーヒーを飲みながらこれを書いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る