エピローグ

新たな始まり

「なんだスパッツか」




 あり得ないほど静謐な朝の渋谷駅で、眼鏡をかけた小太りの中年男性が紺色のスカートに手をかける。男性は女子高生の後ろでしゃがみ、スカートから手を離すと次の獲物を探しにホームを歩き出す。彼以外はすべて静止しており、電車の列に並ぶ女子高生見つけては背後でしゃがみ、スカートを丁寧に慎重にめくっていく。僕はどのタイミングで彼の前に現れてやろうか思案していた。大抵は自身の痴態に気づいて顔を真っ赤にするのだが、たまに僕が男だからか構わずに続ける観察対象もいる。


 僕はしゃがんでいる男性の真横に立ち、手を振りながら彼のほうを見つめる。




「ったく近頃の女子高生は、みんなスパッツかよ」




 男性が悔しそうにスカートから手を離すと、横にいる僕と目が合う。信じられないような形相でその場に倒れこむ、腰まで抜かしてしまった。




「え?! なんでぇ動けるんだ?!」




「あなただけ以外にもいるんですよ、動ける人」




 僕は男性に手を差し伸べる。はるか昔に思える高校時代のブレザーを着て、右手にはスマホを握りしめる。




「僕の名前はヨスガです。その砂時計を発明した者の使いで、時間停止能力を得た人間が能力をどう使うのか観察を行っている者です」




 ほかの人間たちと同じように固まったままの男性を見つめて僕は続けた。




「どうしたんですか? 僕にかまわず続けてください」




☆☆☆




 この男性でもう何人目だろうか。僕は幾重にも重なる久遠の刹那を経て、観察官の仕事に励んでいた。時間の狭間に取り残されてしまうのは、想像を絶するほど過酷だった。それに唯一自由に動ける仕事中も観察対象によっては安らぐような時間では無くなってしまう。それでも僕はこの仕事に満足をしていた。僕にしかできないことを突き詰めた結果の、天職であると感じた。100の速度で進む現実の時間で何年経ったかはわからないが、僕の体は老いることはなく永遠に高校生のままであり続けた。


 男性は栗原くりはらと名乗った。多額の借金を抱え、妻にも先立たれた不孝な中年だった。栗原さんは僕の時間停止についてのルール説明を聞くと、絵を描くために使いたいと言ってきた。久しぶりにまともな観察対象のようだ。まあ出会ったときはスカートをめくっていたのだけど。




「私は鉄道が好きでね。こうやって誰にも邪魔されず実物をスケッチできる機会を探していたんです」




 砂時計を使うようになって3週間。栗原さんとも大分打ち解けた。彼が時間を止めた場所はかつて沙綾が飛び込もうとしていた駅のホームだった。夕焼けに照らされたオレンジ色の電車が映える。栗原さんはホームの端に座り、まもなく駅に入ろうとする電車のスケッチを始めた。この人は絵を描きだしたら止まらない。話しかけても無視されることがほとんどだ。僕は退屈になって、思い出のホームを歩き出した。


 ホームの上は人で溢れかえっており、これから入ってくる各駅停車に乗るであろう高校生やサラリーマンが規律よく並んでいる。その中に沙綾と同じ高校の制服を着た女子生徒が目についた。列の一番前に立ち、電車を待っている。妹な訳ないのだが、僕は顔を覗いて確かめたくなった。短く切りそろえたショートカットに微かに緩んだ頬、そして特徴的な笑窪。僕が一生忘れないであろう人の顔がそこにはあった。




「綾野先輩……」




 先輩は時間の狭間から解放されて、遅れてきた青春時代を謳歌しているようだった。横には彼氏だろうか、同じ年くらいの男子生徒と楽しそうに話している。当然、僕のことも砂時計のことも忘れてしまっているのだろう。それでも僕は満足だった。先輩の大人びた美しい横顔を見て胸の中が満たされていくのを感じた。




「ヨスガくん、終わりましたよ」




 栗原さんがスケッチブックを持って僕を呼ぶ。僕は綾野先輩に別れを告げて、ホームの端まで歩いていく。




「時間、戻しますね」




 栗原さんがそう言うと、夕焼けがさらに濃く茜色に染まって僕らを包む。僕は動かない綾野先輩に近づくと、そっと小さくキスをする。




「さようなら、綾野先輩」



 ずっと憧れていた弱く柔らかい唇の感触を僕は忘れないように記憶に刻み込もうとした。もう二度と先輩とは会えない。そんな気がしていたからだ。このキスが僕にとっての最初で最後にキスになると思った。でも、それでよかった。僕にとって綾野先輩を愛し続けることは、この先永遠に訪れる、孤独との戦いを生き抜く糧になるのだから。


 途端に暗黒の世界に僕だけが飛ばされ、体感速度が徐々に遅くなっていく。 ああ、やっと僕はヒーローになれた。ダサくて、かっこ悪くて、不器用なままのヒーローだけど。

 生きることも死ぬこともできない世界で、彼女の声が耳から流れ、体中を満たしていった。


「……ソウくんはずっと、私のヒーローだよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ストロボガール -落ちこぼれだけど、僕は時間を止められる- 藤 夏燦 @FujiKazan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ