回遊魚の真下で

 ヨスガの告白を僕は鉛のような重さをもって受け止めた。




「時間が止まった世界でしか自由に動けない?」




「ええ。その説明をするために、まず時間停止の砂時計のメカニズムについてお話しいたします」




 神秘的な光を放つ回遊魚の水槽の下で、ヨスガは話し始めた。




「ソウタさん。時間にも速度があるってご存知ですか?」




「時間の速度?」




 聞きなれない言葉に僕は思わず問いかける。




「はい。時間にも速いとか遅いといった速度があります。そうですね、動画に例えてお話ししましょう。1分間の動画を1分で見る速度を100とすると、0は完全に静止画の状態です。再生速度が変われば、同じ1分間の動画でも視聴時間は短くなったり長くなったりしますね。これが時間の速度だと思ってください。この速度は人間をはじめとしたすべての物体に存在しています。その砂時計は天板の裏表をひっくり返すことで、時間の速度を自在に操れるのです」




 ヨスガの言っていることは物理の法則に完全に反している。だが実際に時は止まっているのだから僕は信じるしかない。




「ということは今、僕とヨスガだけが再生速度100で動いていて、それ以外の物質に流れている時間は再生速度0。つまり時間が停止していると」




「惜しいです、ちょっと違います。時間が止まるのではなく、時間が止まって見えるのです。時の速度が0ということは時間の消滅を意味します。この状態は時間と空間のバランス上、起こりえません。


 今、私とソウタさんが100の速度で動いているとき、それ以外の物質にも限りなく0に近い速度で時間は流れています。ただあまりにもゆっくりなので、止まって見えてしまうんです。動画でも一コマずつゆっくり動かせば、一見静止画と見分けがつきませんよね」




「つまり、この砂時計は能力者を除くすべての時間の速度を極端に遅くしてしまうってことか」




「そうです。世界には100と限りなく0に近い時間の再生速度があって、この砂時計は天板をひっくり返すことによってその再生速度を入れ替えるんです」




 なんとなくであるが時間停止のメカニズムがつかめてきた。と同時に一つの疑問が浮かぶ。




「でも時間の速度が0にならないのなら、どうして他の人間や生き物は気づかないんだ?」




ヨスガは淡々と答えた。




「いい質問ですね。動物が物事を認識するにはタイムラグがあります。 五感で感じたものを脳で処理しなければ認識したことになりません。 しかしその処理のスピードも遅くなっているので状況を理解するにはとても時間がかかるんです。 その砂時計の砂の落ちる時間は、能力者以外の人間の脳が、時間が遅くなっていると理解するぎりぎり手前の時間なんです。 遅くなっていることを理解する前にもとの時間に戻されるので、誰も気づくことなく時間を止めたように感じるんです」




「なるほど、そうだったのか」




「これが時間停止のメカニズムです」




 ヨスガはここまで話し終えると、静止した回遊魚たちを見上げた。




「私は生まれた時から、時間の速度が世界とあべこべなんです。世界が100で流れている時には限りなく0に近く、世界が0に近い時にだけ100で動ける。この意味、分かりますよね?」




 ヨスガが僕を見る。僕はこの言葉で、ヨスガの生まれ持った残酷な運命を察した。脳の思考が限りなく0に近いスピードで行われるヨスガの一日は、1万年に匹敵するくらい長いのだろう。そして能力者が時間を止めた時にだけ、彼女は自分の意志で好きな風に動けるのだ。




「……ああ」




「こんな私をその砂時計の発明者は拾ってくれました。砂時計を使った実験の観察は私にしか務まらない仕事です。仕事の見返りとして彼女は私に空間を与えてくれました。時間が動いているとき、私は別の空間へ移動させられているので、私の姿が皆様の前に現れることは決してありません。食事をはじめとした身の回りの世話も彼女が別空間でしてくれています


 ただし彼女が研究で忙しく放置される一日もあります。そんな時は昨日のように傷の手当てもしてもらえません」




「なるほど。そうだったのか」




 僕は静かにつぶやいた。時間の速度が0に近い状態で痛みに耐える辛さは想像を絶する。しばらく黙り込んでいると、ヨスガが僕を見つめながら言った。




「私がこの話をした理由は同情をしてほしいからではありません。ソウタさんが少しでもストレスなく実験に参加できるよう、疑問にお答えしただけです。


くれぐれも時間停止を私のために使うなんて馬鹿な考えを起こさないでください。私を助けたところで実験が終われば、私のことも砂時計のことも何一つ忘れてしまうんです。そんなことよりも実験後の世界でソウタさんのためになることに能力を使ってください。人生に一度しかないチャンスなんですから。」




 嘘だ。ヨスガの瞳を見て僕は思った。




「わかってるさ。僕は最後まで僕のために能力をつかうよ」




 時間停止が人生に一度しかないチャンスなら、人から頼られることも人生に一度しかないチャンスだ。ヨスガは綾野先輩ではない。人間ですらないかもしれない。それはわかってはいたが、僕はこの時、残りの時間停止をヨスガのために使おうと思った。僕が小さいころから抱いてきた誰かに頼られたいという思いが具現化したものがヨスガであるような気さえした。たとえ記憶が残らなくても、残りの人生を惰性で終えるとしても、僕はヨスガを救いたい。それが僕のためにもなると気がした。


 ヨスガは僕をすがるように見つめて、すっと消えた。頭上では回遊魚たちが元気よく泳ぎ始めた。


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