白ウサギとヒト喰

短編

 俺は唐突に、異空間へ飛ばされた。

 平々凡々と日々を過ごしていたハジメは、目が覚めると木々が生い茂る地面の上にいた。


 ◇◇◇


 異空間に来て2日が経った。飲まず食わずで見知らぬ土地をさ迷い歩くとは、どれほどツラいことか。


「歩き疲れた。腹減った。……ここ、どこだよ」


 2日前は休日だった。自宅の自室でテレビゲームに全力を注いでいたはずだ。空腹時にすぐ食べ物にありつけるよう、コンビニへ行ったあとだった。

 ジーンズにTシャツ、靴下のまま、気がついたら土と木の匂いで満ちた空間にいた。

 コンビニで買った惣菜パンにも手をつけず、缶コーヒーを僅かばかり飲んだに過ぎない。ハジメの空腹のピークは、とうに過ぎていた。


 宛もなく、石ころが転がる地面の上を、木々の根が這っている地面の上を、ただひたすらに歩いていた。

 どこかに食べられそうな果物や水が、実っていたり流れたりしていないのだろうか。

 己の身に起きた超常現象もそっちのけで、ただひたすらに歩いていた。


 ガルルルッーーーー


 獣の唸りが聞こえた気がして、咄嗟に身を強ばらせる。周囲を見回せば、野生の動物が生息していてもおかしくない森だった。

 鳥の鳴き声すら聞こえなかった今までの状況から、野生動物の存在は脳内から勝手に排除していた。


 恐る恐る振り返ると、視界に映ったのは簡易な衣裳を身にまとったヒトだった。木の影から、窺うようにこちらを見ている。


「ヒトがいる。俺の他にも……! ……違う……」


 ハジメからもれた安堵のため息も表情も、瞬く間に凍っていく。


 一枚の布で裸体を覆っているヒトは、正確にはとても鋭い爪を持っていた。浮かべた笑みの弧を描く口元からは、鋭い牙が姿を現した。


 ガルルッーーーー


 極めつけに、ハジメが聞いた獣の唸りは、ヒトの姿をしたナニカから発せられた音だった。


「っ……!」


 獲物を見つけた喜びを浮かべるナニカから、ハジメは咄嗟に距離を取った。脳内の危険信号がうるさいほどに明滅を始めている。

 深く考える間もなく、ハジメはナニカに背を向けて駆け出した。


 ナニカは俊足を駆使して追いかけてくる。

 状況理解もできないまま、自分は死んで行くのだろうか。


「おい、こっちだ!」


 不意に聞こえた声につられて、辺りを見回す。周囲に自分以外のヒトはいないようだ。

 一体誰が……


「下だ! お前の足元だ!」


「下……? !? う、ウサギ!?」


 ハジメの足元には、いつからいたのだろうか、赤い目をした白兎が一生懸命に走っていた。


「あれはヒト喰だ。追い付かれれば喰われて死ぬ。効率的な逃げ道に案内してやる」


 言うや否や、ウサギはハジメを追い抜き、先導するように走り出した。

 ハジメは訳も分からずに、だがウサギのことは直感で信頼して追いかけた。後ろから追いかけてくるヒト喰から、死に物狂いで逃げ出した。


 ◇◇◇


 ウサギを追いかけてたどり着いた場所は、ウサギには大きな、ヒトにはかがめばちょうど良い洞穴ほらあなだった。


「お前、名前は?」


「ハジメ。君は?」


「名など無い。好きに呼べ」


「……ウーちゃん」


「ウーちゃん!?」


 ふふっ。


 ハジメのネーミングセンスに、ウサギのウーちゃんは目をカッぴらいた後、とても不服そうな表情をした。


「……まぁ、いい。どうせ、一時いっとっきあいだだ」


 喋るウサギが普通ではないことは理解しているつもりだが、先ほどヒト喰を見たばかりだ。ツッコむのも野暮だろう。


「ハジメ、お前は現状をどれほど理解している?」


 現状理解していること……


 ハジメは自身が体験した不可思議な体験を、箇条書きのように挙げた。


「ここが何処だかわからない。俺がいた世界にはヒト喰なんていない、と思う。サメとか猛獣は生きているけど、牙と爪でヒトを喰ってしまうヒトは、俺の認識ではいなかった。あと…… しゃべる動物も極稀だ」


「我のことはよい。捨て置け。ハジメのいた世界がどこだかは知らないが、十中八九ここと同一の世界ではない」


「うん」


「我は、お前がもといた世界へ帰るための手助けをする。そのために、ここにいる」


 ウーちゃんの言うことはよく分からなかった。役割…… 使命、というものだろうか。


「ヒト喰はヒトを喰う。ハジメがもとの世界へ帰るための必須条件は、喰われないことだ」


「そりゃ、まあ」


「ヒト喰は凶器に成り得る鋭い牙や爪を持っているが、嗅覚や聴覚、視覚はヒト並みだ。だが……」


「だが?」


「本能の赴くままに…… 勘が異常によい」


「は?」


 ガルルルッーーーー


「!?」


 ハジメとウサギは瞬時に、洞穴の入り口へ視線を向けた。間違いなく、洞穴のすぐ傍まで迫っている。

 もしかしなくとも、ヒト喰の勘でたどり着いたのだろう。


「ガルルッ!!」


 ヒト喰が洞穴に顔を覗かせた瞬間、ハジメの頭上から僅かに光が射し込んだ。

 見上げると、ウーちゃんが素晴らしく跳躍し、スーパーキックで土天井に穴を空けていた。


「ハジメ! ここから外へ出るぞ!」


「うん!」


 ウーちゃんが跳躍で外に出たのに続いて、ハジメも洞穴の上へ脱出を試みる。

 外へ出した両手で自身の体を持ち上げ、胴体、片足の順番で夜風に晒される。

 あと片足、ッ……!


「ガルッ!」


 洞穴に潜り込んできたヒト喰が、ハジメの残る片足を掴んできた。強い力で、ハジメを洞穴へ引き戻そうとしてくる。


「ハジメ!」


 少し先まで駆けていたウーちゃんが、追いかけてこないハジメに気付き振り返る。ハジメの苦し気な表情から、土の下で行われている攻防を察知して、慌てた様子で駆け寄ってきた。


 ハジメは引き戻されまいと、必死で足を上に引き上げようとする。


「離せ……!!」


 やっとの思いで張り上げた声は、焦りよりも怒気を孕んでいた。


「ゥ……!」


 瞬間、ヒト喰の握力が弱まり、ハジメは転がり出るように、残る片足を引き上げた。


くぞ!」


 ウーちゃんの声で我に返り、全速力で白いウサギを追いかける。


 ハジメの頭の片隅には、ヒト喰の悲しげな呻きがこびりついていた。


 ◇◇◇


「間一髪だったか」


「いや、アウトでしょ。ヒト喰が一瞬でも怯んでなきゃ、引きずり下ろされてた」


 洞穴から脱出して、ひたすら走った。振り返ってもヒト喰の姿は見えない。追ってきてはいないのだろう。


「ねぇ、ウーちゃん。ヒト喰ってこの辺りに何人いるの?」


 ウーちゃんと会ったときと、さっき現れたヒト喰は同じように見えた。個体それぞれが識別できないほど似ている場合は、同じように見えても別個体だったかもしれない。


「我が知る限り、一人きりだな。我は森から出たことはないが、おそらく森にいるのは我とあやつの2人きりだろう」


 足を止めた1匹と1人は、休憩がてら木陰に腰を据えた。


「森の出口がどこにあるかはわからない。異世界人が通り抜けることのできる道ならある」


「え?」


「我とヒト喰は通れぬが、お前のような異世界人なら、森を抜けて元の世界へ帰ることができる」


 ウーちゃんとヒト喰は森から出られない。


「ウーちゃんたちは、森で生まれたの? 家族は?」


「……いないな。2人きりだ。生まれた場所は知らない。気がつけば、我もあやつもここにいた」


 生まれた場所を知らずに、ただ2人で森に住まう。2人きりの居住者であれば、これまで幾度となく接触したことはあるのだろう。

 ウーちゃんやヒト喰の出口がなくとも、幾度となく異世界人を元の世界へ送り届けたことはあるようだ。


「たった2人きりなのに、ずっと敵対を続けるの?」


「仲良くなれるものなら、仲良くしたい。しかしな、あやつは異世界人を食するものだと思っている。我は、帰る場所と帰り道があるのなら、送り届けてやりたいと思ってしまう」


「……そっか」


 ウーちゃんとヒト喰の望む行動は相反する。どちらかが妥協しなければならないとき、妥協せざるを得ないもしくは、妥協しても良いと思えるのはどんな時だろうか。


「ヒト喰が怯んだというのは、本当か?」


「うん」


「そうか…… ヒト喰は、良くも悪くも己の欲に忠実なやつだ。食欲いう欲が最も強いだろう。痛覚で怯むなら分かるが、なにもしていないのに怯むとは……」


「俺、大きな声を出してたよ。『離せ』って」


「ふむ……」


 ハジメの叫びに、ヒト喰は悲しそうな反応を示した。獲物を捕らえようとする唸りが止み、悲しげな呻きを洩らしていた。いま思えば、悲しみから手元の力が緩くなったのではないだろうか。


「感情のない凶暴なやつかと思ったけど、ヒト喰も悲しみを感じるんだね」


 ハジメの呟きに、ウーちゃんが目を丸くしてハジメを見上げた。


「ヒト喰が、悲しみ……?」


「うん。俺に強く言い返されて、少し悲しそうだった。気のせいかもしれないけど」


 ハジメの言葉を聞いて、ウーちゃんは顔を伏せると何かを考え始めた。


「我らは、お互いに分かり合おうともしていなかったのか……」


「? ウーちゃん、なにか言った?」


「いいや。気のせいだ」


 ウーちゃんが、何事か呟いたような気がしたが、聞き取れなかった。聞き返してみたが首を振っている。ハジメに話すほどのことでもなかったのだろう。


「ハジメ」


「ん?」


「元の世界へくぞ」


「うん……!」


 ◇◇◇


 再び1匹と1人は走り出した。辺りは月明かりと夜闇、森特有の木陰で薄暗い。


「ここだ」


 ウーちゃんが立ち止まり、視線の先にあったのは大木だった。


「大きな木……」


「樹齢はとうに数えられなくなっている。我も随分長生きしている筈なのだが」


 首を天空を仰ぐほどに持ち上げて、ようやく大木の天辺てっぺんが瞳に映る。


「巨木の根元辺りに虚ろがあるだろう。そこに入って念じろ。元の世界を、脳内で鮮明に思い描くのだ」


「……わかった」


 大木の根の近くにある空洞に入る。

 念じれば、元の世界へ戻ることができる。


「ウーちゃん。とっても短い間だったけど、ありがとう」


「気にするな。異世界人を元の世界へ送り届ける、我の唯一の使命、生きる目的だ」


「うん……」


 ウーちゃんの台詞は、どこか悲しかった。寂しいと、強く思う言葉だった。


 知らずのうちに下がってしまっていた視線を上げる。

 もう一度、最後にお礼を言おう。


「……!」


 顔を上げた瞬間、ハジメの視界に映ったのはウーちゃんと、遠く後ろから近づいてくるヒト喰の姿だった。


 ハジメの動揺に気づいたウーちゃんが背後を振り返る。ウーちゃんの視界にも、ゆっくりと歩み寄ってくるヒト喰の姿が映った。


 気のせいだろうか。ウーちゃんの瞳に映るヒト喰は、慈愛を背負っているように見えた。


「ウーちゃん……」


 ウーちゃんを置いて、元の世界へ戻っても良いのだろうか。ヒト喰に襲われてしまわないだろうか。


「ハジメ、心配するでない。お前のお陰で気が付くことができた。腹も括った」


 ウーちゃんは優しい微笑みを浮かべて、決意に満ちた瞳で言った。


「元気でな、ハジメ」


「……うん。ウーちゃん、ありがとう!」


 目をつむって脳内に強く思い浮かべる。ハジメが帰るべき世界の日常の風景、光景を。


 辺りが光に包まれる感覚があった。瞼の裏は、目映まばゆい光を受けて真っ白だ。


 ウーちゃんはこれからも、飛んできた異世界人を元の世界へ戻すのだろう。友となる、ヒト喰と呼ばれた者とともに。


「ヒトを食べるより、ウーちゃんと似たようなものを食べるだろうから、ヒト喰じゃないか」


 超肉食から草食に変わるだろう。


 呟きながら目を開けると、数日前に居たテレビゲームのあるハジメの部屋だった。


 ◇◇◇


「我の名前はウーだ。お前の名前は、そうだな…… ーーーー」


「ガル!」


 どこかの世界の1匹と1人が、幸せそうに微笑みあう。

 次に訪れる異世界人はナニカに追われることもなく、1匹と1人の助けを得て、元いた世界へ帰るだろう。




 ◇◇◇ 終 ◇◇◇

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白ウサギとヒト喰 @gomokugohan

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