UDN47ぷらすワン
工藤千尋(一八九三~一九六二 仏)
第1話讃岐さん!その名も讃岐耕太郎!
その男は区営総合体育センターのプールサイドで備え付けのベンチに座り込み、両手を膝に乗せ、俯いていた。スイミングキャップとゴーグルはすぐ横に放り投げられている。
「……」
ぶつぶつと何か呟いているが聞こえない。しかも俯いたままなので顔も見えない。
「……、うるせえなあ…」
え?聞こえているの?
「こっちはもう三時間泳いでんだよ。五分間の休憩ぐらい静かに休ませろや…」
あ、あのお。本当に聞こえてます?
監視員の短い注意事項の言葉の後、休憩時間終了の笛が鳴る。もちろん、強制ではない。自分のペースで泳いでいいし、疲れているなら休憩時間を長めにとっても問題はない。それでも男は監視員の言葉の間にスイミングキャップを被り、ゴーグルを装着する。そして笛が鳴る直前に「水の中には静かにお入りください」の注意を無視するように思い切り音を立てて飛び込む。あ、取り乱していたので顔を見るのを忘れていた。往復五十メートルをバタフライで休まず泳いでいる。確かバタフライは一番疲れる泳ぎ方だったような…。それにしても三時間…。嘘でしょ?
「本当だよ、この野郎」
え?いつの間に?
「休憩時間を差し引いてきっちり三時間。ここは五十五分おきに五分間の休憩時間が入るからな。正確には三回分の五分休憩分、十五分を泳ぎ切ったから今のでちょうど三時間だ」
すたすたと、少しふらつきながらプールを後にするその男。まだ顔を見てないぞ。ちょっと待て。追いかけるもすぐにその男はシャワー室で海パンを脱ぎ捨て、全裸になっている。これはあんまり見たくないので違う方向を見ておこう。
「ここは区営と謳っているけれど実際に運営しているのは委託された民間の業者だ。その癖に設備がボロイ。見ろよ、このシャワーを。いくら温度調整したってぬるま湯しか出ねえ。でもこうやって青色の方に回すとキンキンに冷えた水だけは出るんだぜ」
そんなこと言われても目のやり場に困るし…。
「エル、知っているか?日本人の平均は勃った時にトイレットペーパーの芯より長ければ、太さはそれに収まらなければ平均よりも勝っているってことだ」
え?そうなの?初めて知った。いやいや、それよりも僕はエルじゃないし…。
気が付くと男はすでに腰にバスタオルを巻き、シャンプーやリンス、ボディーソープの入ったビニール袋とまだ水がぽたぽたと滴る海パンとスイミングキャップ、そしてゴーグルを片手に更衣室へ向かっている。か、顔。見ないと。
プールとシャワー室の間にあった更衣室のドアを開けたその男の後を追うが脱水機に濡れた海パンとスイミングキャップ、それにゴーグルまで突っ込んでボタンを押している。壁には「内蓋をして十秒ほどで脱水は完了します」の張り紙。長い。三十秒近くボタンを押しているぞ。
「ここは設備がボロイつったろ?見ろ。内蓋もついてない。もうずっとこのままだぜ」
ホントだ。
「これぐらい回さないとびしょびしょのまんまなの。分かるか?十秒なんかじゃ全然なのな」
へえー、ってまたすたすたと少しふらつきながら歩き始める。ちょ、ちょっと顔を。その男はまたも腰に巻いたタオルをビニール袋や脱水した海パンなどと一緒に洗面台の横に置き全裸になり、ドライヤーを頭に向けていた。しかも三台あるドライヤーの内、二台を上手に片手で持ち、髪を乾かしている。鏡もあるが…、やはり直視できないので違う方を向いておこう。正確には右手にロッカーのカギを専用のリストバンドで、あのジムなどでよく見る例のやつを取り付けているが全裸ではないのだが…。
「こんなドライヤーじゃ一台だけだと乾かすのに時間がかかる。な、徹底的にボロイだろ?」
そんなこと言われても…。確かにその男が指摘するように施設は立派とは言えないかな…。区営ならその分安いかも…。でもさっきは民間企業に運営は委託していると言っていた…。その分安いのかな?
「一日利用なら五百円で二時間まで。定期を買えば一か月五千円。三か月で一万四千五百円。半年で二万八千五百円。時間の縛りはねえ。だけど時間帯によってコースは水泳教室や貸し切りになったりで使えるのが限られたりする。どれで利用しても高い。糞だぜ」
確かにそれなら安いとは言えないかも。それにしてもまだですかー。ドライヤーの音は消えたのに男は鏡の前からまだ動かない。ビニール袋をガサガサする音が聞こえ、そしてパンパンと顔を叩く音が。
「なんだよお。もうちょいだよ。化粧水だぜ。つーか、オールインワンタイプの高い奴だ。この後が一日で二番目に楽しみな瞬間だからよ」
一日で二番目に楽しみな瞬間?相変わらず顔が見えない。早くパンツ履いてくださいよー。こっちはチラ見しか出来ません。あ、腕のリストバンドを外しているのが見えた。ようやくパンツ履いてくれるのか。それにしてもパンツを履くのが一日で二番目に楽しみな時間?なの?
「そんなわけねえだろ。これだよ」
だからパンツ履くまで見れないですからあ。
「ちょうど二キロ。よっしゃ」
あ!体重計か!男が洗面台に置いていたものをバスタオルでくるんでまたすたすたと、少しふらつきながら歩いていく。今度こそロッカーだ。ん?デジタル体重計が表示されたままである。数字は七十三・六キロ。ちょうど二キロってことは…。三時間前は七十五・六キロだったのか!
「三週間前までは百キロ超えてたんだぜ。二十日と一日で二十七キロ落とした。太るのは簡単だが、痩せるのはほんのちょい簡単ではないかな」
え?え!えーーーーーー?三週間で二十七キロの減量!?三週間は二十一日だから、二十七キロだと平均すると一日で一キロ以上のダイエットぉ!?
「最初は急激に落とせるけどここまでくるとなかなか落ちねえんだ。これが。ほれ、もう着替えたから行くぜ」
あ!驚いている間にもう着替えている!いつの間に?ま、まだ顔が。見えてないですからあ。てくてくと、少しふらつきながら歩いていくその男を追いかける。そうか。ふらついているのはそれが原因か。きっと食生活もかなり無理をしているのだろう。それにしても…。いい大人がアニオタ丸出しの美少女キャラがプリントされたリュックサック?しかも同じようなキャラクターの缶バッジが二つも。受付で会員証らしきものを受け取り、そのまま靴を履き、階段をゆっくりと登っていく。か、顔を…。
「この次が一日で一番、楽しみな瞬間だ」
え、一日で一番楽しみな瞬間ですか?ま、眩しい…。その男が施設の自動ドアから外に出ると同時に初めて振り返ったのに太陽の光が…。男にしては長めの、ゴムで縛れるんじゃないかぐらいの長髪。顔が見れると思っていたのに目が慣れてきた時にはすでにその男はまた背中を見せてすたすたと、少しふらつきながら歩いていく。施設の駐輪所に停められてある原付にカギを刺し、シートを開け、白ツバ半キャップブラックのヘルメットと…、あれは紙パックの牛乳のような…、飲むヨーグルトのような…、でもあの柄は…コンビニなどでよく見る…。
「プロテインだぜ」
ああ!そうそう!プロテインだ!薄いベージュに緑の柄。その男はそのまま停車した状態の原付にまたがり、取り出したヘルメットも被らずに、それをミラーにバランスよく乗せ、プロテインを…、あれ?ピンッという音とその直後に煙が。あーー。その男、プロテインを飲まずにタバコ吸ってる!目は慣れてきたのでよく見えるけれど、その男は俯いたまま、咥えタバコで煙を吐き出すだけで、その長めの髪が顔を隠していて肝心な顔が見えない。あれ?施設禁煙じゃないの?
「うるせー。俺は原付に乗ってるんだぜ。灰皿も百均のやつを取り付けてる。車の中で窓を開けてタバコ吸ってて問題になるのか?」
た、確かに。理屈はそうだけれど…。それにしてもあれだけの運動量をこなした後に水分であるプロテインより先にタバコを吸うとは。あ!ヘビースモーカーで泳いでいる間は我慢してたのか。それで一日で一番楽しみな瞬間がこの一服なのか。
「ばかやろー。タバコなんざいつでも吸える。まあ、順位なんかつけらんねえ。こいつはランキングには参加させねえ。それよりさあ。水泳って水の中でも大量の汗をかいてるんだぜ。ここまで体重を短期間で落としてると体の水分が干からびてるのが分かる。シャワーの後も軽く拭くだけで水気はとれる。ほら見ろ。からからに乾いてるだろ」
そう言ってその男が左手を、拳を握りながら「く」の字に曲げて、上げて見せる。本当だ。乾燥している。脱皮しちゃうんじゃないかってぐらい皮が乾燥している。ゴクゴク。ゴクゴクゴクゴクゴク。プロテインを一気飲みしている。まあ、あれだけ動いた後の水分補給なら五百ミリリットルなら一気飲みも余裕だろうし、むしろ足りないだろう。
「一気飲みじゃねえよ。素タバコじゃ味気ねえだろ。ちょい残ししてる」
二本目のタバコを咥えてピンッとライターの音が。そして俯いた状態で煙がまた。ああ、さっきプロテインを飲んでいる時も長めの髪が邪魔で顔が見えなかった。本当にちょい残ししていたプロテインとタバコを交互に口へ運ぶ。か、顔はまだですかー。
「これでいいのか?」
その男はそう言って咥えタバコ、右手でその長めの髪をかき上げ、こちらを向いてくれた。左手にはプロテイン。え!ええ!う、美しい…!七十三・六キロのその男の顔はまるで女性と言われても信じてしまうぐらい美しい。かわいいとかではない。かっこいいでもない。名前とか年齢とか職業とかも気になる。一体何者ですか?あなたは。
「ありきたりなことが知りたいの?つまんねえな。ま、いっか。お前に興味はねえけど。俺の名前は讃岐耕太郎。四十歳。信じられねえけど『うどん県』香川生まれの香川育ち。この東京で元うどん屋の現在無職ってやつだ。他に質問は?なければもう行くぜ」
咥えタバコで器用に喋るなあと感心しつつ、名前が「讃岐」で香川県出身の元うどん屋で現在無職の肩書に出木杉君でしょ?ともっと詳しく聞きたいと思いつつ、その美しさでアラフォー!?四十歳であることに驚きつつ。その三つのことを同時に感じてしまった。えーと。他に質問はと言ってたからいろいろと詳しく聞いてみよう。ブルン、ブルン、ブオオオオオン。え?いつの間にかヘルメット被って原付で走りだしちゃった。ちょっと待って下さ――――い!!え?私は誰だって?そんなことより讃岐さんを追いかけますので!!讃岐さーーーーーん!!
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