第29話

 僕の綴った生地物語はそこで終わっていた。


 僕は静かにノートを閉じた。あとは残っている僅かな記憶だけだった。ハリットでは本社の金沢に何度も出張で行き、本社の人はみんな温かったこと。東京支店の人は支店長以外そんなに優しくなかったこと。毎日弁当を作って会社に行っても誰も褒めてくれなかったし、いつまでも生地を覚えることが出来なかったこと。僕はハリットではずっと会社のお荷物だったこと。いつもは温厚な嘱託の立派なスーツを着たおじいさんが、僕がトイレを使った後にトイレを使ってトイレが詰まりうんこと水が溢れた時に激怒して、僕はその人のうんこと水の中に手を突っ込んでトイレの詰まりを直したこと。嫌なことばかりでまたも正社員なのに会社を一週間無断欠席したこと。東京支店の支店長のおじいさんが僕の家に来て、辞めちゃうのかと悲しい声で言ったこと。そして無断欠席した後に会社に行ったら周りの人にボロクソ言われたこと。それでも本社に呼び出され、社長さんを含め、みんなが優しく僕を慰めてくれたこと。そして最終的に僕は、小説家になりたいと言ってハリットを辞めたこと。

 僕の生地物語を綴ったノートと一緒に手元にはハリットの本社の人全員から貰った僕がハリットを辞める時に僕の為に書いてくれた一人一人の手書きの手紙がある。キリヤ堂の人たちからや本間さんから貰った年賀状もある。それでも、もう僕にはこのノートと手紙と年賀状を読むことしか出来ない。僕はあれから随分と歳を取り、生地を通じて出会った全ての人と今はもう誰一人として連絡を取ることも出来ない。河本さんの旦那さんの美容院も今はもうない。キリヤ堂も本間テキスタイルもハリットも今はもうない。結局キリヤ堂池袋店にも僕は一度も行くことはなかった。手元にある懐かしい言葉を読むたびに当時のことを思い出し、あの人たちは今、どこで、何をしているのだろうかと想像するしか出来ない。



 僕は今でも小説を書き続けている。それでもやっぱり十八才の時の僕にはいつになっても勝てない。それでも僕は書き続けることを辞めない。



 生地の世界は今では衰退の一途をたどっている。あれだけの情熱に溢れ、たくさんの人のアイデアや技術や夢に溢れていた世界も時代の波に飲み込まれつつある。あれだけ圧倒的な支持を得ていたアルバローザも今はもうない。それでも本当に今でも情熱を持ち続け、生地の世界を盛り上げようとしている人たちも少なからず存在する。

 僕は一人の女性と出会った。その女性の名前は成田典子さんと言う。

 彼女は日本の生地の世界で先頭に立ち、今もなお、生地と言う素晴らしい伝統と文化の灯火を絶やさないように輝きを放っている。そんな彼女は最近、四十年という月日を共にした生涯の伴侶を亡くされてしまった。悲しみに打ちひしがれながらも彼女は今でも形のないものと戦いながら、ただひたすら己の人生を生地に捧げながら生きている。そんな悲しみや絶望も美しい生地は優しく包み込む。僕はそう信じている。


 人は誰もが生きている限りたくさんの物語を綴っていく。物語の数は無限にある。運命はいくつもあると歌った人がいた。全ての理解を諦めて全てに失望したムルソーだって美しく優しい生地に包まれていたらもっと違う物語を生きていたはずだ。僕は優しい物語が好きであり、生地はたくさんの人と共に僕を優しく包んでくれた。


 これは僕の一つの物語。


 これが僕の生地物語。

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