第21話
僕のそんなささやかな幸せの日々はあっけなく終わりを迎えた。キリヤ堂荻窪店は閉店することになった。僕がそれを聞かされたのは閉店予定日の一か月ほど前だった。小宮山さんの説明だと残り一か月は毎日バーゲンセールを行うとのこと、それでも定番商品は通常通りの値段で売ること、売れ残った在庫は全て池袋店に移動させること、社員さんはキリヤ堂池袋店にその後は同じ条件で移籍するということ、アルバイトも希望者は同じく池袋店に同条件で迎え入れてくれるということ。僕は現実を受け入れるのに時間がかかった。みんなも僕と同じような感じだった。池袋は遠いからねえ。アルバイトやパートの人たちは全員池袋店に移籍することを拒んだ。僕はとても迷っていた。僕は社員さんの村尾さんも河本さんも根本さんも千田さんも佐藤さんも大好きだった。森川さんは、小沢君が池袋店に行くなら私も一緒に行くと言った。内田さんと佐々本さんは、キリヤ堂荻窪店が好きだったから、今更池袋店に行ってもペーペーからでしょ、そんな訳の分からない人たちの下で働くのもごめんだし近場でバイトを探すと言った。僕は村尾さんに、僕が池袋店に行ったら今と同じようにキルト売り場の責任者になれるのかと聞いた。村尾さんは、それはまず無理だと答えた。僕の中でいろんなものが天秤にかけられる。どっちを選んでも森川さんだけは僕の元には残る。楽しかった思い出が頭の中を駆け巡る。きっと池袋店に行けば小沢君募金箱なんて絶対に作られないし、売り場の責任者にもなれない。それならばこれを機会にどこかで就職をした方がいいんじゃないか。お世話になったキリヤ堂の社員の人たちには会いたくなれば池袋店に行けばいいだけじゃないか。僕もキリヤ堂を辞めることを選択した。それからキリヤ堂荻窪店は閉店までお客さんが殺到して、ものすごく忙しい一か月だった。生地はなくなってももう新しく発注をかけることもない。日が経つにつれてキリヤ堂二階のフロアの棚には空きが目立つようになった。結局僕は最後まで穴の開いた靴で働き、最終日だけもう一度スーツを、みんなにプレゼントしてもらった焦げ茶色のスーツを着て二階のフロアに立った。経理の森川さんがアルバイトでも有給休暇が取れるんだよと教えてくれて、僕は六千四百円の十日分、六万四千円の現金を最後の給料に上乗せして口座に振り込んでもらった。最終日、早番の人も遅番の人も最後まで残ってみんなでささやかなお別れ会を開いた。休憩室にはたくさんのお菓子と一・五リットルのペットボトルのたくさんのジュースと缶ビールが。お酒の飲めない僕は紙コップにコーラを注いでたくさんの人にお別れの挨拶をした。僕はお母さんぐらい年の離れた糸井さんや山本さんに、たくさんの友達をいっぺんに無くしてしまう気分だと言った。黒柳徹子とブライアンメイがものすごく切ない目で僕を見た。内田さんや佐々本さんは未成年なのに缶ビールをドンドン飲んで楽しそうにしていた。ここでは悲しい顔をしてはいけないのだ。村尾、池袋店で早く彼女を作れよ。佐々本さんの声に最後の最後でみんなが村尾さんに少しだけ優しい言葉を投げ掛けた。みんな村尾さんの根っこの部分は分かっていたんだ。河本さんが僕に、散髪する時はうちの店にいつでも来てね、旦那にタダでやるように言っておくからと言ってくれた。根本さんが僕に、池袋店にいつでも遊びに来てねと言った。何かが僕の胸の奥からこみ上げてくる。僕はそれを必死で抑え込んでいた。白川さんが僕に言った。小沢さん、あなたはまだ若いですが若さはずっと続くものではありません、あなたは若いのに随分としっかりとされていらっしゃる。この先、地に足を付けて、年寄りの余計なお世話かもしれませんがしっかりとした職に就いて、正社員として自分のやりたい道を探してくださいと言った。スーツを着たあなたは普段よりも、同じ年の頃の若者よりもものすごくしっかりとした立派な大人に見えます。僕は涙をポロポロとこぼして泣き出してしまった。社員の人たちには池袋店に行けば会うことはいつでもできる。でも、他の人とはもう明日から会うこともない。お別れだ。小沢君募金箱も今日でなくなる。学校を卒業する時もこんな気持ちになったことはない。僕の涙をきっかけに我慢していた感情を抑えきれずに次々とみんなが泣き始めた。泣いていないのは小宮山さんと菅谷さんと村尾さんだけだった。小宮山さんや菅谷さんが泣かないのと村尾さんが泣かないのは意味が違うのは僕には分かった。村尾さんはもっと悲しいことも乗り越えてきたから涙を我慢できるのだと僕は思った。そんな村尾さんを最後までみんなが涙をごまかそうとボロクソに言った。鈍感男、何も考えていない、だから彼女がいつまで経っても出来ないんだ。村尾さんはそんな女の人たちの涙交じりの罵声をいつものように苦笑いしながら受け止めた。初めて内田さんと佐々本さんの涙を見た。僕もそうだけど野良猫だっていつもたくましいわけではない。野良猫もまた新しい縄張りと餌場を求めてたくましく生きていくんだ。ムルソーだってきっとムルソー君募金箱とか作ってくれたり、キリヤ堂で時給八百円で働いていればもっと幸せな生き方が出来たはずだ。
僕の好きな歌があった。マーチという歌だ。英語で三月をマーチと言う。誰ともいつかお別れをするし、へなちょこな表情でお別れしよう、ちょっと切ないけど。今の僕はへなちょこな表情をしているだろうし、切なさはちょっとどころではない。
キリヤ堂ともう会うこともないみんなにありがとうとサヨナラだ。
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