第18話
二月になった。僕はバレンタインデーにチョコレートを貰った。しかも山ほどの数のチョコレート。そう言えば僕がキリヤ堂で働き始めてもうすぐ一年になる。義理チョコだと分かっているけれど内田さんや佐々本さんからの十円のチロルチョコとかパートのおばちゃんたちからの百円の霧の都とかスーパーで買ったようなものでも嬉しかった。学生時代に同級生でモテるやつがよくバレンタインデーにチョコレートを貰っているのを見た。僕は確実にそいつらよりも多くの数のチョコレートを貰った。みんなが僕のことを気遣って、義理チョコだからお返しはいらないからと言ってくれた。その言葉に僕はホッとした。お返しを考えたら僕の家計簿はかなり悲鳴をあげてしまう。でも一人だけ、森山さんはそれを言わなかった。森山さんと森川さんだけは義理チョコではない、手作りのチョコレートを僕にくれた。森川さんは、だっはっはと豪快な照れ笑いをしながら、まあ、たまには作ってみたから、帰りに捨ててくれと言いながら。僕は自分が今、人生の中で一番女性にモテていると勘違いしながら、甘いものは僕の生活にほとんどなかったのでしばらくは甘いものが毎日食べられるなあと嬉しく思いながら、森山さんと森川さんにお返しはどうしようと考えた。甘い生活ぐらい甘い。ちなみに村尾さんは誰からもチョコレートを貰えなかった。いつものドーナツ屋で愚痴をこぼす村尾さん。お前はいいなあと。僕から見れば村尾さんがいいなあだった。森川さんが、それじゃあ私がチロルチョコを買ってあげようか、村尾氏と言ったら、村尾さんは、お前から貰っても全く意味がないよと言い、森川さんが、村尾氏はそういうところがいつまで経っても彼女が出来ない理由なのだと言った。僕には言葉の意味がよく分からなかった。結局、僕はホワイトデーに森川さんには色鉛筆のセットを、森山さんには文庫本の星の王子様を、そして他の人にはファミリーパックの数がたくさん入っているチョコレートを買ってきて、それを一個ずつ配ってお返しとした。佐々本さんが僕に、本当にいつまでも不器用と言うか、優柔不断だねと僕が渡したチョコレートを口に入れながら言い、包み紙を僕の手に握らせた。
森川さんの絵が何かの本に載った。一番の賞ではなかったけれど、見せてもらった雑誌に森川さんの描いた絵と森川さんのフルネームが載っていた。NORIKOのサインも絵の右下に小さく載っていた。森川さんは今までで一番興奮していたし、はしゃぎまくって喜んでいた。キリヤ堂の人たちも森川さんが絵を描いていることは知っていたようで、みんなが森川さんに、よかったねとか、すごいねとか、将来はプロの画家になれるよと言った。僕は純粋に森川さんがすごいと思った。自分の夢を持っていて、それに向かって頑張って、そして実際に雑誌に自分の作品と名前が載った。僕は、自分があの時、小説を書くことを諦めていなかったら、森川さんのように報われることもあったのかもしれないと思いながら、それでも小説を書くことの大変さも知っていたし、なんだかんだ言って僕はいろいろと言い訳を探して書くことから逃げているだけじゃないかと思った。その日も仕事が終わった後に三人でいつものドーナツ屋さんでお茶をしながら話をしていた。今日の主役は森川さんだった。村尾さんが森川さんに、それで絵が雑誌に載るといくら貰えるのかと聞いた。森川さんははしゃぎながら、お金なんか貰えるわけがないじゃないと答えた。村尾さんは、お金も貰えないのに絵を描いてその雑誌に載ることの意味はあるのかと森川さんに聞いた。森川さんは大きくため息をして村尾さんに、これはお金とかに関係なく雑誌に自分の描いた絵が載り、その雑誌を買ったたくさんの人が私の絵を見てくれることに意味があるのだと言い、村尾氏のように人生に目標とか夢を持ったことのない人には私の気持ちは永遠に分かることはないと言った。それから、村尾氏は今まで生きてきて何かに真剣に打ち込んだことはあるのか、高校時代は何部だったのか、どうせ帰宅部とかでダラダラ過ごしていたのだろうと言った。村尾さんが一言だけ答えた。俺、高校時代は野球部だったよ、と。森川さんも意外な顔をした。おそらく、村尾さんはそのことをキリヤ堂の人の前では初めて口にしたのだろう。僕もすごく驚いた。僕の中では高校野球とは無茶苦茶きつい練習をして甲子園というところを目指すことだと思っていた。僕の高校にも野球部はあったし、全員坊主頭で毎日練習し、夏なんかは生徒の中では野球部だけは特別真っ黒に日焼けしていて、相当大変なんだろうなと思っていた。森川さんが驚きながら、村尾氏は元高校球児だったのかと聞いた。そうだよと答える村尾さん。何故今までそれを言わなかったのかと森川さん。村尾さんはいつもと少しだけ違った表情で一言、あんまりいい思い出がないんだよとだけ言った。僕も初めて、他人に自分の心の中身を少しだけ見せてもいいと思い、僕が昔小説を書いていたことと、それでどんなことがあったかを全て話した。村尾さんは僕の話を聞いても何も言わなかった。森川さんは僕に、書くことを続けた方がいいと言った。そしていつか小沢君が小説家になったら、その本に私が絵を無料で描いてあげようと言った。その日から僕はまた再びペンを握ることになった。それから少しして思ったことは、自分の文章を取り戻すことはとても大変なことであり、昔の小説を書いていた頃の自分を純粋にすごいと感じながら、今の自分では昔の自分には絶対に勝てないということと、僕の気持ちはもう固まっていたこと。僕は森川さんが好きだ。
それでも僕はなかなか自分の想いを森川さんに伝えることは出来なかった。ハゲの菅谷さんは女性に甘い言葉をよく簡単に言える。そんな菅谷さんの軽さが羨ましかった。僕は、これは出来レースであり、森川さんだって、僕のことが好きだとほぼ確信を持っていたし、僕が少しだけ勇気を出して、自分の気持ちを相手に伝えるだけで済む話だと思っていた。それでも大事なことは後回しにしてしまう。森山さんにまでいい顔をしている自分にも腹が立った。もう、森山さんに対しては僕の気持ちはないのに、それでも森山さんがその気になるような対応をしてしまう。突き放すことが出来ない。映画は感動するか泣けるかはどうか知らないけれど、僕が見た映画ではファミリーと言う映画が一番よかったよと森山さんに教えてあげた。他にも灰とダイヤモンドとかもいい映画だと思ったけれど、僕が映画を見て泣きそうになったのはファミリーしかなかった。森山さんはすぐにその作品をレンタルビデオで借りて見たらしく、とても絶賛していた。こういうことをしてしまうから僕は優柔不断と佐々本さんに言われてしまうのだ。
そしてある日、村尾さんと二人きりになった時に僕は衝撃的な話を聞いてしまった。バイヤーの一人が数日前に森川さんに声をかけ、二人はそのままホテルでセックスをしてしまったこと。そして、森川さんは処女だったことを村尾さんはそのバイヤーから聞いたこと。そして、そのバイヤーは、俺も気がどうかしてた、なんであんな女を誘ってしまったんだろう、あんなブスでデブに責任を取れと言われても無理だよねと村尾さんに笑いながら言っていたこと。僕は生まれて初めて、今までにこんなに怒りの感情を持ったことが無いほど全身にものすごい怒りを感じた。そんな僕を見て、村尾さんは僕に、君が悪いんだぞと言った。その通りだ。僕は自分がずるい大人になっていることを知っていた。昔の僕だったら、自分の感情に従い、キリヤ堂をクビになってもいいと自分の生活のことなど考えずにそのバイヤーを殴りつけるだろう。気が晴れることなどないが、周りのみんなが止めに入ってもそのバイヤーを殺すつもりで殴りつけるだろう。もしかしたら腰にぶら下げたハサミを使ってしまうかもしれない。しかし、そのハサミは美しい生地を切るためのハサミである。僕は村尾さんに、今日の帰りに僕は森川さんに告白しますと言った。村尾さんは最後まで僕に、悪いことは言わないから森山さんにしておけと言った。普通の男だったら誰だって森川さんと森山さんなら森山さんを選ぶことは僕にだって分かっていた。
僕はその日、仕事が終わってから森川さんに、家まで送って行きますと言った。自転車を押しながら二人で森川さんの自宅までの道のりをゆっくりと歩いた。最近の森川さんは見ていて痛々しいぐらいいつもの明るさを失っていたけれど、僕と二人きりで歩くのは初めてだったのでいつものような明るい森川さんを演じていた。森川さんもきっと今日が特別な日になることを感じていたのだろう。バイヤーの話はしなかった。たわいのない話をしながら出来るだけゆっくりと歩いた。僕は臆病だから。最後の最後まで後回しにしてしまうし、もし振られたらどうしようだとか、もし振られてもなかったことにして森山さんにすぐに乗り換えてしまうのかなあとか、成功したらすぐにやらせてくれるのかなあとか、僕の童貞もいよいよカウントダウンに入ったのかなあとか。そして、もう最後の角を曲がれば森川さんの家というところまで来てしまい、僕は自転車を押すのを止め、その場に立ち止まった。伝えたいことがあるんです。僕は勇気を振り絞ってそう言った。森川さんはものすごい笑顔で、それはなんだろうかなと言った。それから僕は黙り込んでしまった。本人を目の前にして思いを伝えることがこれほど怖いとは。僕は昔からそうだった。好きな人に告白する時はラブレターを何度も書いては破って捨てて。そして時間をものすごくかけて手紙で告白を済ませてしまう。それで成功した試しもなかった。中学生の時、僕にチョコレートをくれた女の子は僕に堂々と自分の想いをしっかりと言葉にして伝えてくれた。そんな僕の姿を見て、とうとう森川さんは僕を応援し始めた。頑張れ小沢君、頑張れ小沢君。これはもう大当たり確率一分の一のパチンコと同じだと思った。スタートに球を入れれば確実に大当たりする。それでも言葉が出せない僕。応援の言葉を続ける森川さん。たまに通行人が僕らを見ていく。僕は森川さんのことがずっと好きでした。ようやく言葉を振り絞って想いを口にした僕。ありがとう、小沢君、私も小沢君のことが好きだったよと森川さんが言った。僕は人生で初めて彼女が出来た。僕はバイヤーのことにも、森川さんが自分の処女を遊び相手に失ってしまったことにも触れなかった。ただ、キリヤ堂の人たちには二人の関係は内緒にしておこうと二人で決めた。もう桜がちらほらと咲き始めていた季節だけど、その日の夜はとても肌寒かった。それでも僕の両手は汗でぐっしょりと濡れていた。最後の角を曲がり、森川さんを家まで送り届けた。それじゃあと自転車を逆方向に向けた僕に森川さんが、小沢君、本当にありがとう、すごくすごく嬉しいよと僕に言った。僕だって同じ気持ちだった。自転車に乗り、ゆっくりと走り出した僕を森川さんはいつまでも両手を笑顔で振り続けていた。僕は角まで何度も振り返り片手でそれに応えた。角を曲がって僕は自転車を停めて、曲がり角の塀からそっと顔だけ出して森川さんはまだ手を振っているのかを確認してみた。流石に森川さんの姿はなかった。しかし、森川さんの家の玄関の塀から僕と同じように顔だけを出してこっちを見ている森川さんの顔が半分見えた。いつもかけている特徴のあるメガネ。そして僕の目と森川さんの目が合う。そして笑いながら塀の中から出てきて全身を見せる森川さん。僕も角から姿を出して笑ってしまう。今度こそ帰るからと言って何度も同じことを繰り返す僕。結局、キリがないので森川さんに自宅の中に入ってもらってようやく僕は帰ることが出来た。その時の僕の頭の中は人生で初めて女の人と付き合うことになった、彼女が出来た、自分専用の女の人。エッチなことだってしてもいいし、出来る。デートだって出来る。今まで僕の自宅に泊まった女性は佐々本さんだけだったけれど、これからは森川さんも泊めてもいい。それも二人一緒に。ずっと出番のなかった財布に入れっぱなしだったコンドームが活躍する時が来る。いろんな楽しい感情が芽生える中、少しだけ、森山さんの気持ちを考えたら罪悪感が芽生えた。明日からも僕は森山さんに対して突き放すような行動は出来ない。そこでしっかりと突き放すようなことが出来れば森山さんだって傷つくとしても、そうなんだで済むと思う。ウキウキした気分の中、森山さんの存在だけが僕を百パーセントのウキウキにすることを許さなかった。次の日、僕は約束を破って村尾さんにだけ報告したら村尾さんに、君は本当に愚かな選択をしたと言うか、絶対に後悔するぞと言った。数日後、キリヤ堂に森川さんを傷物にしたバイヤーがやってきた。僕はそのバイヤーの姿を見た瞬間、売り場であり、お客さんも普通にいるにもかかわらず、そのバイヤーのもとに走っていき、肩を掴んだ。バイヤーは僕に、君はどうしたんだ、何故僕の肩を掴んでいるんだと言った。僕はその言葉に何も返事をせず、ただバイヤーの目をじっと睨みつけた。睨み続けていた。もう片方の手は固く拳を握っている。僕は熱くなっていた。バイヤーが何を言っているかなんて僕の耳には聞こえなかった。たまたまその場を通りすがった村尾さんが慌ててバイヤーの肩を掴んでいた僕の手を掴んで離すようにと僕に言った。僕は冷静さを取り戻して手を離した。バイヤーは村尾さんに、この子は何かあったのか、何故怒っているのかと聞いた。村尾さんとそのバイヤーは同期らしく、仲もよかったと思う。村尾さんは呆れた表情でバイヤーに、お前にはこの子の怒りは一生分からない、俺もバカだけどお前は救いようがないバカだと言った。村尾さんのそんな表情を見たのも、そんなかっこいい言葉も僕は初めてだった。キリヤ堂の正社員である村尾さんには会社の中でも人間関係や人付き合いもあるだろう。そんな人が同じ正社員であり、これからも同じ会社でずっと働いていく人よりもアルバイトである僕の味方になってくれた。僕にはそれがとても嬉しかった。キリヤ堂の中ではいつも同じ職場の女の人たちにボロクソ言われ続け、僕よりも年上なのにいつまで経っても実家暮らしで給料全部自分の小遣いで僕より全然お子様だとか、そんなのだからいつまでも彼女が出来ないだとか、趣味がパチンコと風俗遊びのさえない男だとか。そんな村尾さんは僕の中では誰よりもかっこいい。高校で野球をやっていて、それを誰にも言わず、僕と森川さんにだけ一言、あんまりいい思い出がない、としか言わない。村尾さんの生き方は異邦人のムルソーに似ている。
僕はすぐに童貞じゃなくなった。
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