第17話

 一月十五日。成人式の日。その日は僕にとって特別な日だった。実際にスーツを着て時間通りに自宅を出た。黒い方の革靴は歩きにくかった。しかも革靴で漕ぐ自転車はペダルから足を滑らせてしまいそうになる。しかもワイシャツとスーツだけなのでとても寒さを感じた。とてもキメキメでサラリーマンの様に見られているのかと僕は思いながら、それでも後ろのポケットに入れた財布と異邦人の単行本もぎこちなくて。煙草とライターをワイシャツのポケットに入れていると本当に大人になったような気持になった。革靴についてきた便利な袋に弁当箱を入れて。手には安物の腕時計。いつもは咥え煙草で自転車を漕いでいたけれど、今日は煙草を吸う気持ちよりもスーツを汚したくない気持ちの方が強くて僕は煙草を吸わずに自転車を漕いだ。キリヤ堂に着くと村尾さんに会った。凄く似合っていると言われ、それから二万円の価値はあっただろと言われた。正確には一万七千円かかっていない。それから一言、君、寒くないのと僕は言われた。確かに村尾さんはスーツを着ている時はダウンジャケットを着ていた。僕にはスーツに合うようなコートやジャケットなど持っていなかった。スカジャンを着てくればよかったと激しく後悔した。キリヤ堂のみんなが僕を見て、凄く似合っている、立派な社会人に見えると言った。普段の僕は立派な社会人に見えていないのだろうか。僕はいつものようにタイムカードを押して休憩室のロッカーでそのまま腰にハサミを下げるホルダーを巻いてエプロンを付けようとした。それを見ていたみんなが僕を止める。上着を脱いだ方がいいと。そう言えば、社員である村尾さんや菅谷さんや小宮山さんはスーツを着ているけれどエプロンなど付けていない。でも僕はバイトだからエプロンを付けないといけないし。確かにスーツを着た社員の人たちは上着を脱いでワイシャツにネクタイでいつも仕事をしている。菅谷さんはワイシャツの上にベストを着ていた。それに村尾さんはワイシャツの両腕に金属で出来ているゴムのようなものを付けていた。キリヤ堂の中は暖房が効いているので上着を脱いでも寒くはない。僕は革靴にシングルの裾上げのズボン、それに普段使っているベルト、そして真っ白のワイシャツと濃紺のネクタイの上にホルダーを腰に巻き、エプロンを付けた。歩くと靴音もいつもと全然違う。いつもがきゅっきゅっなら、今日はコツコツだ。根本さんが僕のスーツ姿を見て、そのままキリヤ堂に就職すればいいと言った。僕だってそうしたかった。でも、そんな話は絶対にこれからも出てこないことは僕には分かっていた。中途採用という言葉を僕は知っていた。村尾さんだって僕と同じ高卒だけど新卒だから正社員として就職出来たわけであり。野良猫の僕がキリヤ堂に正社員として採用されることは絶対にない。顔なじみの常連のお客さんも僕に、スーツを着ていると言うことはキリヤ堂に就職したのかと聞いてきた。僕は、今日だけは成人式をキリヤ堂でやってくれるので特別ですと答えた。お昼休みもみんなが僕に、小沢君もキリヤ堂に就職すればいいと言った。その言葉が僕の心にチクチクと小さい痛みを感じさせた。何故、僕の気持ちが分からないのだろう。僕は時給八百円で採用された単なるアルバイトであって、新卒でもないし、正社員として雇用してくれるはず等ないことぐらい分かるものではないかと思った。朝はとてもいい気分だったのに、今の僕は少しイラつきとブルーな気持ちの両方を感じていた。もやもやした気分で休憩後も働いていた。そんな時、糸井さんと山本さんが僕に、自分の選んだ道なんだからしょうがない、将来のことも少しずつでいいから考えておいた方がいいよと言った。アルバイトとパート。同じ立場の糸井さんと山本さんには僕の気持ちが分かっていたのだ。僕はその言葉をとても嬉しく感じた。人に自分の気持ちを分かってもらえることはとてもすごいことだ。ムルソーも誰か一人でも分かってくれる人がいたなら、あんなに悲しい結末を迎えることにはならなかった。早番と遅番の人が入れ替わる時間になり、内田さんと佐々本さんが二階に現れた。内田さんは僕の姿を見て、うわー、似合わねー、うそうそ、大人っぽく見えると言った。佐々本さんは普段裁縫の先生にしか見せないやる気のないシンディローパーなりの笑顔を見せ、いいんじゃないのと言った。そして五時過ぎに河本さんから、小沢君はもうフロアの方はいいから四階に行ってと言われた。僕は何だろうと思いながら四階に行った。四階のフロアに着くと晴れ着を着ておめかしした森山さんと、PTAの人が着る高そうなスーツを着た三階の岸本さんがいた。どうやら二人は成人式に出席した帰りにそのままキリヤ堂に来たようだ。他に森川さんや谷口さん、神田さん、白川さんがいた。神田さんはいつものオッケーの指の輪っかを何度も僕にしてくれた。白川さんはとても丁寧な言葉で息子さんよりも年が下であろう僕に敬語を使ってお祝いの言葉を言ってくれた。そしてキリヤ堂の影の番長的な存在の谷口さんが森川さんに指示を出して、これから写真を三人で並んで撮ってあげると言った。そして森川さんの手には僕が見たことのないカメラが。僕は使い捨てカメラとか本格的なカメラを見たことは何度もあったけれど、それらとは全く違う。森川さんが、これはポラロイドカメラと言ってその場で写真が出てきて見ることが出来るのだと説明した。ポラロイドカメラという言葉は知っていた。実際に見るのは初めてだった。それから谷口さんが僕に、ちゃんとした撮影なのだから、エプロンを取って、ロッカーにあるスーツの上着の方を着てくるようにと言った。僕は急いで休憩室に行き、ロッカーの中にエプロンとハサミやホルダーを放り込み、フル装備して元の場所に戻った。撮影が始まる。僕を中心に左に森川さん、右に岸本さん。森川さんが僕の左右の女の子にもっと小沢君に寄ってと言う。森川さんだって、森山さんの気持ちぐらい、もう分かっているだろう。それでも笑顔で、ノリノリで。僕にピッタリくっつくくらいにと指示を出す。僕は自分の体の匂いとかを気にした。僕のことを臭いと思われたりしないかなあと。パシャリという音のあと、ジーっという音と共にカメラから白い紙が出てくる。それを谷口さんに手渡し、ドンドン撮るよと森川さんがカメラを構えた。パシャリ、ジー。パシャリ、ジー。それから一人ずつ撮影すると言って、ようやく森山さんと岸本さんが僕から離れる。僕は実は息を止めていた。鼻息が荒くなった音や、口で呼吸する音を森山さんや岸本さんに聞かれたくないと思っていた。だから二人が僕から離れた時に僕は見つからないように大きく息を吸って吐いた。かなり苦しかった。そして僕一人でパシャリ、ジーが三回。あとの二人はパシャリ、ジーが二回。フィルムの数が決まっていて十枚しか撮れないから小沢君だけ一枚多めに撮ったよと森川さんが言った。さっきから谷口さんは森川さんから受け取った白い紙をしきりに団扇の様に振っていた。谷口さんが一枚の普通の写真とは違う、正方形に近い、分厚い写真を僕に手渡した。僕がそれを受け取り、その写真を見る。森山さんも岸本さんも僕の両脇に近付いてきて、覗き込むようにその写真を見た。そこにはスーツを着てぼさぼさの髪の毛の僕と、晴れ着でめかし込んだ森山さんと、PTAのようなスーツを着た岸本さんが写っていた。僕だけが硬い表情で真顔だった。両脇の二人は笑顔を上手に作っていた。人から見たら僕はこういう風に見えているのか。学生の時よりは大人になっている。それでもいつも見る村尾さんのような風格はない。よく見る新卒のサラリーマンよりも風格はない。それでも僕は学校を卒業してから二年近く経って、ちょっとは社会人ぽくなれたのだ。あの頃と違うことは一つだけ。自分の力で生活をしていること。しかもたくさんの人の協力とか支えがあって、ようやく暮らすことが出来ている。前の本屋さんで働いていた時は本当に苦しかった生活もキリヤ堂に来てからは随分楽になった。時給も高かったから手取りが増え、いろんな人が食べ物をくれて、村尾さんがいつも奢ってくれたから。そして一人だけで撮ってもらった写真も谷口さんから受け取って見る。息を止めていない僕は少しだけ笑顔になっている。僕はたくさんの写真を今までの人生で撮られてきた。僕が一番笑っている写真は東京に来るためのお金を貯めていた工場でのアルバイトを辞める時に養護学校からその工場に就職した子と肩を組んで撮った写真だった。あの工場で出会った仲のよかった大学生の人とか、中卒で働いていた外車に乗っていた優しかった子とは写真を撮っていなかった。高校の卒業アルバムに僕は個人写真と集合写真にしか写っていなかった。二枚とも僕の目は少し冷めたような、佐々本さんのような目をしていた。そしていろいろと盛り上がりたかったけれど、谷口さんが、写真を撮り終わったから小沢君は二階に戻って仕事を続けなさいと言ったので僕はエプロン姿に戻るために休憩室に戻っていった。森山さんが僕に、あとでねと声をかけた。そうだ。森山さんも根本さんも今日はシフトには入っていない。二階に戻ると河本さんが、あれ、撮影はもう終わったのと言った。僕の特別な日、仕事が終わりタイムカードを押しに行くと小沢君募金箱に先日スーツを買った時と同じようなスーツ用の袋が。僕はまさかと思った。経理室にいる谷口さん、森川さん、下地さん、小宮山さん、村尾さんが拍手をしてくれた。森川さんが、みんなから小沢君へ成人祝いのプレゼントだと言った。僕は、みんなとは誰ですかと聞いた。森川さんは、だからみんなと言った。僕は深々と経理室にいるみんなに頭を深々と頭を下げて、そのスーツが入っているだろうスーツ袋を手にし、早足で休憩室の自分のロッカーのところへ移動した。経理室を出る時に森川さんから、これは森山さんや根本さんには内緒でと言われたので僕は貰ったスーツ袋を隠すようにロッカーの中にしまった。休憩室では森山さんや根本さんが周りの人におめでとうと言われていた。僕の姿を見つけたみんなは僕にもお祝いの言葉を投げかけてくれた。もう、僕の中では答えは出ているのかもしれなかった。僕の好きなマンガで、ウサギと山猫はしょせん友達にはなれないんだよというセリフがあった。僕は野良猫で、森山さんは飼い猫だ。水も餌も与えられ、雨に濡れることもない。一日中家のベッドの上で眠ることだってできる。野良猫は残飯を漁り、自分だけの場所を探し彷徨う。自宅に帰り、貰ったスーツを取り出してみた。落ち着いた焦げ茶色に薄いチェックの柄。チェックと言っても少し違う。規則正しい格子状ではない。とても上品な柄だった。スーツ袋の中から一枚の紙を見つけた。小沢君成人式おめでとうと書かれ、そこには社員さん全員の名前と、森山さんと岸本さんと三階の今川さんと一階のよく知らないアルバイトの子以外の人の名前が書かれてあった。ここに名前が書いてある人たちがお金を出し合ってこのスーツを僕の為に買ってくれたのだと僕は思った。年下なのに内田さんや佐々本さんの名前もそこにはあった。僕は後日、その人たち一人一人にお礼を言って回った。

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