第10話
夏も終わり、秋も過ぎて冬になる。僕がキリヤ堂に入って十か月になる。僕の生地物語の最初の一年が終わろうとしていた。僕はたくさんの生地に触れた。お客さんは女の人ばかりだった。どうしてもお客さんの洋服に目が行ってしまうようになった。うちのお店で売っている生地と同じ柄のものを身に着けたお客さんを見ることも多かった。お客さんはみんなが着飾っている。それでもみんな生地を着ている。ダッフルコートだってダッフルから作られているからダッフルコートと呼ばれている。僕はキルト売り場の責任者としてたくさんのキルトを売ろうと努力してきたけれど常に売れているキルトは無地カラーのものとバーゲン品の安いものだった。それでもバーゲン品の中にも入荷した時に僕がいいなと思うものはあっという間に売り切れになり、誰が買うのだろうと思うような柄のものはいつまでも売れ残っていた。僕が売ったキルトでカバンを作って、連れている小さな子供がそれを持たされていたら僕はすごく嬉しい気持ちになった。また、キリヤ堂は月に一回、新聞に折り込みチラシを入れる。毎月広告が出された日から三日間、全品、表示価格の三割引きでお客さんは生地を購入することが出来る。毎月その三日間にお客さんは殺到する。毎月その三日間を狙ってまとめ買いするお客さんも多かった。中には一メートル百円の綿プリントを何本も台に持って来てあるだけ全部と言うお客さんも多かった。でもシルクとか高い生地だけは割引対象外なので特別なお客さんが特別な時にしか買わない。僕もシルクを切ったことは今まで十回もなかった。だからシルクを切る時はいつも緊張した。いつもサテン系の生地をたくさん買う若いお客さんがいた。あの人はコスプレイヤーだと思うと根本さんが教えてくれた。コスプレイヤーと聞いて僕はドキッとした。僕の中ではコスプレイヤーとはアニメの登場人物と同じ衣装を自分で着る人たちで、うる星やつらのラムちゃんの格好をする人たちと言うイメージがあった。マンガ家の一本木蛮さんが頭の中をよぎった。サテン系の生地は光沢が美しく主に裏地に使われることを僕は聞かされていた。キルト売り場にもバックサテンキルトは定番商品で置いてある。そう言えば僕の安いスカジャンもサテンだ。サテンは基本、表地には使わない。見た目は光沢が美しくきれいだが綿のような包み込む自然な優しさがない。洗濯にもむかないのでサテンを着る人は特別な人である。ストリートファイターⅡの春麗が着ているのがサテンだ。チャイナドレスとか。河本さんから年末年始のシフトを聞かれる。フリーターにとって年末年始休暇は困った問題でしかない。時給で働いている僕にお正月休みをくれても給料が減るだけである。かと言って実家に帰るわけでもない。僕はなるべくいつもと休みの日数が変わらないように年末年始の連休分の休みを連勤することでカバーするようにした。クリスマスイブもクリスマスも普通に働いていた。そして村尾さんと森川さんと遊びに行く。クリスマスイブやクリスマスにいつも通り三人でいつものドーナツ屋さんでいつもと変わらないどうでもいい話ばかりしている。森山さんは予定があると言って帰っていった。内田さんも佐々本さんも。森川さんが、村尾氏はイブやクリスマスに予定がないのは終わっていると言った。村尾さんが、それはお前もだろうと言った。僕は、イブやクリスマスと言っても元々キリスト教のイベントであって、日本人にはあまり関係ないのではと言った。それを聞いた村尾さんが僕に、そんなことを言っていたらダメだと言った。イブやクリスマスは一年で一番女の人の股が広がりやすい日だそうだ。また、男も大金を使って女の人にプレゼントを贈らないといけないのだと言った。そう言えばオーヘンリーの賢者の贈り物はクリスマスプレゼントのお話だった。確か、男の人が好きな人のきれいな髪の為に自分の懐中時計を質屋に入れて高価な櫛を買うが、相手の女性は好きな人の為に自慢の髪の毛を切って商人に売り、そのお金で好きな人の自慢の品の懐中時計を吊るす鎖を買う話だった。お互い相手の為に一番大事なものを売ってしまい、プレゼントが無駄になってしまう話である。プレゼントは無駄になってしまったがお互いが一番正しい選択をした。どちらの判断も間違っているとは言えない。僕だったら相手に何が欲しいかあらかじめ上手く聞こうとするかなあ。東京の冬は雪が積もる。僕の穴が開いた靴に雪が入って来る。水溜まりなら避けて通ることも出来るが、積もった雪は諦めて雪の上を歩かないといけない。それでも僕はバカだから、積もった雪が珍しくて、嬉しくなって、わざと足跡を付けるためにきれいに雪が積もっている部分を踏んづけて歩く。ズボッと言う感触がいい。でも自転車で積もった雪の中は上手く運転が出来ないし、雪の上を歩いた日は流石に靴の中がぐちょぐちょになってしまう。古新聞や雑誌で穴を塞いでも意味がない。年末の三十日から元旦の三日までの五日間、キリヤ堂はお休みに入ってしまう。二十九日の仕事終わりにタイムカードを押しに行った時、小沢君募金箱には年越し蕎麦用の蕎麦や、お節料理用の佃煮とか栗きんとんとかタッパーに入った煮物とかオモチとかが大量に入れられていて、僕は食料がいつもより大量に入れてくれたことと、こんな僕でも年越しと正月気分を満喫出来ると思って嬉しくなった。僕の部屋にはクーラーはある。でも電気代がかかるから使わない。アイスノンが冷凍庫にあったし、暑いのは平気だった。しかし寒いのは苦手だったので部屋では毛布に包まるしかなかった。毛布に包まるにもコツがあって、毛布も冬だといきなり包まっても冷たい。毛布の中に顔を突っ込んで自分で息をハアハアと送り込んでやると比較的早く温かくなる。また、冬場のオナニーは汗をかくので終わった後に汗で体が冷えて風邪をひきやすい。その辺の調整がとても大事だった。五連休をもらってもやることもないし、どうしようかなあと考えていたら三十一日は森川さんが、遊ぼうと言ってくれて、元旦は村尾さんが、初詣に行ってから奢るからパチンコへ行こうと言ってくれていた。僕はパチンコを奢ってくれるのは嬉しいけれど、どうせなら村尾さんが前から言っていたエッチなお店を奢ってくれたら嬉しいのにと思った。連休初日の三十日、僕は家でテレビを見たり、本を読んだり、音楽を聴きながら過ごした。誰かに電話をしようとも思ったけれど、せっかく前よりも電話代が減ったのに、ここで電話をかけたら絶対に長電話になってまた電話代が高くなってしまうと思って電話をかけないようにした。お腹が空いたので大量に貰った蕎麦を食べようとしたけれど、蕎麦を茹でている時点で麺つゆがないことに気が付いた。麺つゆなど家には置いてない。夏場にそうめんを食べる時もいつも醤油を水で薄めて食べていた。同じ要領で醤油を薄めた水を沸騰させてみるが不味い。仕方がなかったので僕はコンソメスープを作ってそこに蕎麦を放り込んで食べた。味は蕎麦とは違うけれどこれはこれで美味しく食べれた。夜はお味噌汁で使う出汁と醤油でつゆを作ってみた。これは完全に蕎麦だった。記憶ではそばつゆはもう少し甘みがあったかなあと僕はそこにみりんを足してみた。ますます蕎麦に近づいた。砂糖は怖かったので入れなかった。明日も蕎麦を食べよう。大量にあるから。少し贅沢をしてお惣菜の天ぷらを買って来ようかなあ。前の本屋さんでは年末年始のお休みはなかった。僕は体が鈍ったらいけないなあと思って手にハサミを持っているつもりで生地を振る仕草をしてみた。寒い部屋の中で実際には手には持っていないハサミを生地に滑らせるようにしたり、チョキチョキ切ったり。誰も見ていないので調子に乗る僕。いつもなら絶対にやらないジグザグ切りとかものすごいカーブを描いてみたり。生地はたて糸とよこ糸で織られている。実際にはハサミを滑らせたら絶対にカーブには切れない。そんな生地あるのかなあ。ノリノリに生地を切るフリをしていたら急に僕の自宅の電話が鳴った。誰だろうと思って出たら森川さんだった。森川さんは電話で開口一番、僕にご飯を食べたのか聞いてきた。僕は、蕎麦を食べましたと言った。森川さんは、お蕎麦を食べるのは明日の大晦日だと言った。それから明日の予定をどうするかと聞いてきた。村尾さんがいないからお金は僕が払わないといけないと思ったら少しだけブルーになった。それでも女の人と休みの日に二人だけで会うのは初めてのことだったので楽しみだった。そんなことは絶対にないと分かっていながら僕の財布の中にはコンドームが常に入っている。ダサいけど準備のいい童貞だ。森川さんは、うちに遊びに来なよと言った。僕はお金を使わなくて済むとホッとしたのと、初めて女の人の家にお呼ばれしたことと、森川さんは実家暮らしだから親御さんとかいるので森川さんのお父さんにお前は誰だと怒られるんじゃないかということを考えた。でも、森川さんは実家暮らしというからには自分の部屋があるのだろう。もしかすると何かが起こるかもしれない。そういう感情は絶対に森川さんに悟られないように平然を装って電話で話をしながら僕は敬語で、おうちに行っていいんですかとか、何時ぐらいに行けばいいですかとか、どうやって行けばいいですかとか、親御さんは怒ったりしないですかとかいろいろと聞いた。話していると森川さんも少しいつもと違って緊張しているみたいで軽いギャグとかをたくさん入れながら無理やり明るい空気を作ろうとしているのが伝わってきた。いつも村尾さんがいて三人で会っていたから森川さんと二人きりで会うのは初めてのことだった。村尾さんに、絶対に森川を選ぶのはやめておけと村尾さんと二人の時に言われていた。村尾さんがブスでデブだという森川さん。森山さんにしておけという村尾さん。可愛くて胸の大きい森山さん。それでも明日のことを考えるといろんなことを考えてしまう。女の人と二人きり、しかも相手の部屋に呼ばれて行く。僕には緊張するなと言う方が無理である。電話を切った後、僕は誰も見ていないのでどうする、どうする、おいおい、女の人の部屋に呼ばれちゃった、どうする、明日、何かが起こるかもしれないぞと枕をボスボスと殴り続けた。財布の中にはコンドームが一つ。僕はそこに足りないとまずいなと思ってさらに二つ追加した。お札の枚数よりもコンドームの数の方が多い財布。夜中に自動販売機で買ったコンドーム。結構勇気が必要だった。周りに人がいないことを確認しながら。いざ自動販売機に近づいても人が来たらサッと別に興味がないようなフリをして素通りしてからまた自動販売機の近くに戻る。そして買ったら速攻でダッシュしてその場から離れて。僕はどこまでも姑息だ。僕ももう二十歳になったし。その日の夜、布団の中に入って寝ようとしても、頭の中で村尾さんの森山さんにしておけという言葉がいつまでも繰り返された。
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