第5話

 僕は翌日、目覚まし時計に起こされてから部屋が暗い気がした。カーテンを開けると部屋の中は明るくなった。それから今日持って行く弁当を作った。いつものように卵焼きを作って、昨日の夜に食べた安売りの時に買ったひき肉でまとめて作って冷凍しておいたハンバーグと人参のソテーをおかずにして電子ジャーに入っているお米をぎゅうぎゅうに詰め込んだ。アルミホイルでご飯とおかずを仕切っているけれど、弁当箱は僕の漕ぐ自転車の中で揺らされて、おかずの汁がいい塩梅でお米に味を付けた。弁当箱を持って、ポケットの中にカミュの異邦人の単行本と財布と煙草を突っ込んで僕はキリヤ堂へ向かって自転車を漕いだ。生地が僕を待っている。ハイライトを吸いながら僕は自転車を漕いだ。

 昨日より少しだけ遅めにキリヤ堂に着いたらもう従業員専用の入り口の扉が開いていた。建物の中に入ると電気も点いていた。四階の事務所にタイムカードを押しに行くと村尾さんがすでに一人で何かをしていた。村尾さんが僕に気付き、おはようと言ってきた。僕は頭を下げて、おはようございますと言った。今日も弁当なのかと聞かれて僕は、弁当ですと答えた。それから僕は昨日貰ったカーテンのお礼を言って休憩室にある自分のロッカーへ向かおうとした。村尾さんは僕にバイトは時間までにタイムカードを押せばいいのだからこんなに早くに来なくてもいいと言った。僕は、家からお店まで自転車で十五分ほどかかるので途中で何が起こるか分からないから早めに出ていることと、前の本屋さんを寝坊でクビになったので遅刻だけはしないように余裕を持ってお店に出勤したいのでどうしても早くお店に着いてしまうと言った。そんなやりとりをしていると事務所の中にドンドン従業員の人たちが入ってきてタイムカードを押していった。みんなが僕に、おはようと言ってくれた。僕は昨日と同じように腰にホルダーを下げてハサミを入れ、青いエプロンをつけて、メモ帳とボールペンをエプロンのポケットに入れて二階に向かった。僕は子供のように河本さんの姿を見つけて今日もいろいろと一緒にいながら教えてもらおうと河本さんに声をかけた。河本さんは僕に、今日からみんなと同じようにお客さんの頼まれた生地を切ってもらうと言った。それから二階の端っこにあるキルトのコーナーの担当者を小沢君にやってもらうと言った。僕はとてもびっくりした。前の本屋さんでは自分の担当など持たされたことなどなかった。河本さんは僕に、常にキルトのコーナーの生地は小沢君が見張っていて、お客さんが雑にしまったキルトをすぐにきれいにしてやること、バーゲン品以外の定番のキルトは在庫をしっかりと確認しておいて、残り五メートルより少なくなったら発注をかけるから言ってくるようにと言った。それから余裕があれば他の生地もしっかりと見て常にきれいにお客さんが見られるようにしておくこと、何か分からないことがあればすぐに他の誰にでもいいから聞きに行くようにと言った。僕は河本さんに言われたことをメモに書いてキルト売り場のキルトを見た。いろんな種類のキルトがあった。これを全部僕が担当するのかと思うと僕はとても嬉しくなった。キリヤ堂のキルト売り場の社長になった気分になった。ふわふわでどこか懐かしいキルト。こんな生地の上で眠ったら夏とかは気持ちいいだろうなあと僕は思った。美しい光沢のサテンキルトもあった。サテンキルトでバックを作るととても高級そうなバックに見えるだろうなと思った。可愛いプリント柄のキルトもあった。バーゲン品の棚に乗っているのが在庫を気にしなくていいキルト。プリント柄のものばかりだった。定番商品はしっかりと壁や棚に飾ってあった。値札を見ればバーゲン品にはバーゲン品というシールが貼られていた。たくさんのキルトを眺めていたら僕はお客さんに声をかけられた。そのお客さんは生地を三つ、台に置いて僕に、カットをお願いしますと言ってきた。僕は初めてお客さんの生地を切ることになった。緊張した。キルト売り場担当になったばかりなのに、お客さんが切って欲しいという生地は全て僕の切ったことのない生地だった。全て二メートルずつと言われ、僕はぎこちない手つきで生地を広げ、台の上にあった竹の物差しで一メートルずつ長さを測り、二メートルと斜めになってもいいように二十センチほど多めに測り、ハサミで切れ目を入れ、生地が真っ直ぐになるように縫い目をよく見て生地にハサミを走らせた。チョキチョキしなくてもハサミを前に軽く押してやるだけでハサミの刃を縫い目がまっすぐに導いていく。まるで線路の上を走る列車の様に正確に。お客さんが僕に切って欲しいと言った生地は全てプリント柄の綿百パーセントのバーゲン品だった。手で触れば分かる。綿百パーセント。僕は切った生地を丁寧に折りたたんで台の横に積み重ねられていた黄色い買い物かごの中に入れた。二つ目、三つ目と同じように切り、きれいに折りたたんで買い物かごに入れる。それから台の横に吊り下げられてある紙を一枚ちぎってから、僕はメモ帳を取り出して昨日根本さんに教えてもらったことを読み返した。それぞれの生地の部門と長さと名前と値段を書くこと。僕はそれぞれの生地の値札を見て、紙に部門3、プリント、280円、2Mと三行同じことを書いてお客さんに紙と生地の入った買い物かごを渡した。お客さんは、おまけしてくれてありがとうと僕に言った。僕が斜めに切ってしまってお客さんの注文した二メートルより少ない長さにならないように少し多めに切ったのをお客さんはよく見ていた。河本さんが後ろから僕に声をかけてきて、初めてなのにちゃんとやれてすごいと言ってくれた。僕は、とても緊張したと答えた。物差しの使い方がスムーズでよかったと言ってくれたので僕は昨日、他の人がやっていたのを見ていたからと答えた。河本さんは、さっきのお客さんは二メートルだったけど十メートル、二十メートル、あるだけ全部と言うお客さんもいると言った。僕はその数字を聞いて自分に出来るのだろうかと思った。河本さんは僕に、タオルを畳んだことがあるかと聞いてきた。僕は、ありますと答えた。どうやって畳んでいるかと聞かれたので端っこを揃えて半分ずつに畳んでいくと答えた。河本さんは、どんなに長い生地もそれと同じように畳めばいいと言った。僕はなんとなく分かった気がした。それから河本さんは壁に飾られている定番商品の値札の裏側を僕に見せた。そこにはボールペンでたくさんの数字が書かれていた。河本さんは、定番商品には値札の裏に切った分だけ数字を書いていくと教えてくれた。生地の中には紙テープが一緒に巻かれていて、残りの長さが分かる生地もあれば、分からない生地もあるのでそう言う生地には切った長さを書いていくのだと教えてくれた。しかも切った長さをそのまま書くのではなく、前の人が切った生地の長さにドンドン数字を足していくと教えてくれた。例えば5と書かれていてそこから二メートル五十センチ切れば7・5と書くと。僕はメモを取った。それから僕はドンドンお客さんの生地を切った。生地は二種類ある。ハサミでチョキチョキ切る生地とハサミを滑らせて切る生地。僕は切った後の巻かれてある生地をどこに戻せばいいのかだけを他の人に聞いた。河本さんが、今日の僕の休憩は一時からだと言った。僕は一時までお客さんの生地を切りながらキルトコーナーをよく見て回った。

 休憩時間になり休憩室で弁当箱をロッカーから取り出し、ポットでお茶を汲んだ僕は机の隅っこに座った。経理の森川さんがのぞき込むように、僕の弁当を見せて欲しいと言ってきた。小沢君の今日のおかずはなんだろう。僕は、ハンバーグですと答えながらお弁当箱を包んでいる布を広げて蓋を開けた。休憩室にいる人全員が僕の周りに集まってきた。僕は少し恥ずかしい気持ちになった。でも僕はお金がないから自分で弁当を作るしかなかった。僕の弁当を見てみんなが感心するような言葉を次々と言った。それを自分で作ったのかとか、朝作っているのかとか、冷凍食品じゃないのかとか。僕は、冷凍食品も安い時は買うと、自分で作っているけれどほとんど前日の夕ご飯の残り物であると、卵焼きだけはどうしてもスペースが足りなくなるので朝に作っていると答えた。村尾さんが僕に、君は面白いねと言った。村尾さんの言葉にその場にいる女の人たちが口を揃えてそんなのだから村尾さんは彼女が出来ないのだ、いつまで経っても実家暮らしでぬるい、小沢君を見習って明日から自分で弁当を作ってきなさいと言った。それから森川さんに、隅っこじゃなくこっちで食べるようにと机の中心に移動させられて僕はみんなに囲まれて質問攻めを受けながら弁当を食べることになった。僕はたくさんのことを聞かれた。特に森川さんがすごく話しかけてきた。本屋さんではいつも店の裏の倉庫のところで一人座って弁当を食べていた。僕は聞かれたことだけを素直に答えた。森川さんは全然美人ではなかったけれど僕より五歳くらい年上に見えて、眼鏡をかけていて、社員さんだからOLのようで胸も大きくて僕は少しだけドキドキした。そしてとても明るくて面白いことをたくさん言って、村尾さんには容赦なく関西人のようなツッコミを入れていた。僕は森川さんと村尾さんが付き合えばお似合いなのになあと思った。僕の家の家賃がいくらかとか、月のお小遣いはいくらなのかとか、趣味はなんなのかとか、家にテレビはあるのかとか。それから料理の話になり、どこのお店の食材が安いとか、たくさんの料理のレシピをみんなに教えてもらった。僕はそれをメモに書いた。掃除や洗濯の話もして、僕がどんな一人暮らしをしているかを興味津々でみんなが聞いていた。僕の部屋はとてもきたない。ゴキブリもたくさん出る。でもそれは言わなかった。村尾さんは給料がそのままお小遣いになっていると言ってみんなに家に金を入れろと責められていた。得意料理は何かと聞かれ僕はから揚げと答えた。そしてから揚げは鳥のもも肉を使った方が美味しいことを教えてもらった。でも胸肉の方が安い。僕の趣味は読書と音楽鑑賞だった。どちらも図書館で借りることが出来た。また、本もCDも百円で買うことが出来た。家にいる時はテレビを見るか、音楽を聴くか、長電話をするか、本を読んで過ごしていた。休憩時間いっぱい僕はみんなと話をしていたので異邦人を読むことが出来なかった。それでも僕はみんなと話をすることが楽しく感じた。僕には東京の友達がいない。寂しいからお金が無いのに月に電話代を三万円も使っていた。本屋さんでは月に二百時間以上働いて税金を引かれて月の給料が十四万五千円くらい。そこから家賃六万円を引いて八万五千円。電話代を引くと五万五千円。光熱費で一万五千円。タバコ代で五千円。残り三万五千円が生活費になった。僕はもしもの時の為に少しずつ貯金もしながら食費を抑えて暮らしていた。それでもお米を買う時は一気にお金が減った。パスタとか小麦粉は安くてお腹いっぱいになった。調味料も基本、塩と醤油。小麦粉を水で溶いて具のないお好み焼きを作って醤油をかけて食べていた。本屋さんをクビになって給料も貰えなかったのでもしもの時の為に貯めていたお金に手をつけた。それでもすぐにキリヤ堂で雇ってもらえたのでラッキーだった。しかも本屋さんより時給が五十円高い。一日六千四百円。月に二十六日働いて十六万六千四百円。税金を引いても十五万五千円以上手元に残る。僕の月の給料が一万円増えた。しかも優しい人ばかり。女の人ばかり。そして僕はキルト売り場の責任者。僕はもっと早くに本屋さんを辞めて、キリヤ堂に来ていたらよかったと思った。

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