夜鳴く獣②



 臆せず近寄る珠保の眼前を、鱗に覆われた尻尾が掠める。

「先生! 危ない!」

 瞬間痛ッと顔をしかめ、珠保は右目の上に触れた。瞼の皮膚を切ったらしく、血が流れている。

 あっ、やばい。

 と、咄嗟にそう思ったのは韮川の方だった。

 ……なぜなら。


「……おい」


 顔に似合わぬ、低くドスの効いた声。それは確かに珠保が発したものだ。

「大人しくせえ言うたやろが。何顔に傷つけてくれとんねん」


 その瞬間、稀代の妖怪王ぬらりひょんが何故か怯えた表情で叫んだ。

「お、おい、そこの獣、謝れ! 今すぐ……」

「いい加減にしろよこの重症患者がァ!!」

 あまりの剣幕に、鵺がびくりと肩を竦めて怯える。

 鵺ほどの妖が、ただ声の大きさや迫力に怯えたわけではもちろんない。その小さな体に秘めたる気。獣の意識が強い怪異だからこそ、本能的に自分より上位の相手への畏怖を察することができたのだ。

 一瞬だった。ぬらりひょんですら瞬間見失ったと思った直後には珠保は鵺に間合いを詰め、拳を叩き込んでいた。ぐお、と鵺が苦しげな声を上げる。返す刀の勢いで、そのままパンチと同じ場所にハイキックをぶち込むと、鵺が先ほどの障壁以上に吹っ飛ばされた。

 どう見てもただの人間である彼と、大きな獣型の妖である鵺とは力も大きさも違う。だが彼はその巨体を簡単に吹っ飛ばした。

 実際のところ、喧嘩では負けた事がない男だ。大昔に天狗の血が入った家系ゆえ普通の人間に比べると体躯のわりにかなりの怪力ではあるのだが、それもせいぜい世界大会レベルの格闘家程度のもので、珠保は人外というほど特殊な能力を持っているわけではない。

 ただ、先祖代々数々の陰陽師や退魔師などを輩出してきたいわゆる呪術者の血筋であるため、幼い頃から簡単な術式なら身につけている。その上魔医学を学んでいるのもあり、それなりの呪術の心得はあった。

 今珠保が何をしたのかというと、妖怪の防御力をピンポイントで極度に下げる事のできる札を拳に握って殴ったのだ。そして、その術の効果が解けない間に重ねて同じ場所にキックを叩き込んだ。

 つまり、一種の呪術ではあるものの、異能力だとか超能力だとか魔力だとか、そんな大層なものではなく。雑に説明するなら……ヤンキーがガチで相手を殴る時に拳に石を握る様なものである。

 珠保の戦闘スタイルは、基本的に物理であった。


「ブチ殺すぞ!!」


 鵺が起き上がる隙を与えず、更に腹部に二発、三発。倒れた頭の上に乗って顔面を殴打。

 韮川が必死に鵺に向かってぴょんぴょんと跳ねながら叫んだ。

「この人ほんとにやるから!! マジで大人しくしろよ!! 俺知らねえからな!?」

 珠保が一旦鵺から離れて首をコキコキと鳴らしていると、鵺が唸りながら再び起き上がった。

「お? まだやんのかオラ」

 いささか楽しそうな響きすら含み始めた声音に、あああもう完全に我を忘れてる、と韮川が頭を抱える。喧嘩モードに入るとこの人はこうなのだ。

 そして自分でボコボコにした怪異を、自分で治療するのである。

 もはやちょっとした詐欺だ。悪徳医師だ。魔医者としての腕は確かなのだが。


「ギ……ギザマ……、ナニモノ……」


 すっかりやる気マンマンでファイティングポーズを取っていた珠保は、獣の口から響いた声に、お、と眉を上げて手を下ろした。

 獣の鳴き声混じりではあったが、人間の言葉に近い響きがある。

「なんや、人語喋れるんですね? 俺……私の言葉はわかりますか?」

 鵺はゆっくりとした動作で頷き、ゴホゴホと咳払いをして口を開いた。

 その大きな口から、先ほどよりは澄んだ、ちゃんと人語と理解出来る言葉が発せられる。

「う……すまん。苦痛で我を忘れていた……」

 そうですかと頷いて珠保が韮川を振り向く。もうすっかり医師の顔をしているのにホッと胸を撫で下ろし、韮川が往診バッグを手にとって珠保に投げた。 

 受け取ったバッグから聴診器の様なものを取り出すと、珠保は鵺に近づき、その腹に聴診器を当てた。

「呪いが残ってますね」

「鵺狩りの術者にやられた。俺とした事が不覚を取った」

「なるほど……」

 鵺の毛皮は強力な魔力を持っており、一部のたちの悪い能力者に狩られ闇オークションで高値で取引されているという噂もある。元々人語を解する事が出来るのは、妖怪の中では比較的高位の、大方が個体名を持つ希少種だ。

 つまり見た目は獣でも、ヒトに近い存在。あやかしの中では高等種である。そんな妖怪にまで金儲けのネタになるとわかれば危険を顧みず手を出すのだから、げに恐ろしきは人間なのかも知れない。

 もっともそれを一番体現しているのは誰よりこの医者だと、韮川は常々思っているのだが。

「ああ、あと、さっきの質問の答えですが」

「質問……?」

「私はれっきとしたただの人間で、医者です。理由なくナワバリを荒らす怪異には容赦しませんが、君が患者であるなら治療するのが私の仕事です」

 質問とは、ナニモノ、と尋ねられたものに対してだったらしい。妙なところで律儀な男なのだ。

 厳密に完全なる「ただの人間」かというと色んな意味で疑問が残るのだが、ともかくとして妖怪や怪異の類ではない、人として生まれ育った生き物であることには相違ない。

「君、名前は? 個体名はないですか?」

 聞かれて鵺は低く唸ると、まっすぐに珠保を見下ろして言った。

「虎の王、と書いて虎王コキ。西の獣の王だ」

「なるほど。では鵺くん、君を治療して差し上げたいんですが、ちょっと面倒なタイプの呪なので医院での軽い手術が必要です。ですがその姿だとサイズ的に医院に入れません。人型もしくは何らかの動物の姿に化けられますか?」

「なれる……が、今、俺名乗ったよな?」

 わざわざ聞いておいて鵺くんと呼ばれるのは心外だとばかりに虎王が首を傾げる。

「なんか名前がカッコ良くて気に入らないので、鵺で通します」

「な、なんだそりゃ!?」

 いつの間にか人の姿に戻っていたぬらりひょん……韮川が思わずプッと吹き出した。名乗らせた意味とは。

 虎王と名乗った鵺が大きく体を震わせて赤く光った。その巨体がするすると縮んで、一人の若い男の姿となる。

 韮川ほどではないが身長180センチ以上はありそうな長身の男の姿に、珠保が不快そうに顔を歪め、韮川を睨みつけた。

「なんで妖怪って長身のイケメンばっかりやねん」

「いやまあ……俺は元々こういう顔ではありますけど、そりゃせっかく人間の姿になるなら見目は良いに越したことないですからねえ」

 珠保は苦虫をかみつぶしたような顔でチッと舌を打った。

「生まれつきの見た目で苦労してる人間かっているんやぞ! あとさりげない俺はイケメン自慢やめろ、殴るぞ」

「札を捨ててから殴ってください! いや殴らないでください!」

 ばれたか、とまだ拳に握ったままの札を往診バッグに仕舞い、珠保は鵺だった男を振り向いていった。

「せっかく人型になってもらって悪いんですけど、全裸の男を連れて回るわけにいかないので犬かなんかになれませんか」

 そう、男は全裸であった。

 なかなかたくましい良い体をしている……というのはさておき、ぬらりひょんの場合は人として生活するのに慣れているのもあり、洋服も身体の一部として視認させるタイプの変身能力を体得しているのに対し、人型にまだ慣れていないのかそれとも獣型ゆえの特性なのかはわからないが鵺は自身の肉体そのものを人間の姿に変化させているだけなのだった。

「虎にならなれるが……」

「それはそれで目立ちますね!?」

 いくら京都の街とはいえ、虎を連れ歩いているのはかなり異様だ。

 まあこのあたりは夜に出歩く人間も少ない。珠保の職種は特殊だから、虎の一匹連れて職質されてもなんとかなるだろうし、よく考えたら裸の若い男よりはマシな気もする。珠保が頷くと、男は体調4メートルほどの虎の姿に変化した。

「さて、まずは自転車を回収して帰らないと。そこの路地の先のパーキングのそばに止めてあるから、韮川くん頼めるか?」

 小さなキーホルダーのついた自転車の鍵を韮川が受け取りながら言う。

「いいですけど、明日でもよくないですか?」

 珠保は心底めんどくさそうに吐き出した。

「この辺で撤去されたら取りに行くの面倒やねん」

 どうやら、一度経験があるらしい。


 ふらふらとした足取りでついてくる虎を時折振り向きつつ歩く珠保の後ろ姿を見送りながら、韮川は明日の劇場入り間に合うかなあ、とため息をついた。

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