寝かせる

望月おと

【寝かせる】


──食べ頃まで寝かせてください。


******************



 憂鬱だった毎日が嘘のようだ。楽しみができると、人生はこれほどまで変わるものなのか。


 いままでこれといった趣味も持たず、ひたすら仕事に打ち込んできた。かと言って、仕事で上りつめたわけでもない。積み重なっていくのは、勤務歴だけ。


 「なんで貴方をこの部署に置いているか分かります?」年下の部長に呼び出され、呆れ顔で言われた。


「貴方が私に仕事を教えてくれた人だからですよ。……使えるかどうかは別として、ね」


 元部下たちは次々出世していく。自分に頭を下げていた頃が夢のようだ。今は彼らに頭が上がらなくなってしまった。


 こんな感じだから仕事場に自分の居場所はない。かと言って、家にも自分の居場所があるわけではない。当時のラッキーカラーだったエメラルドグリーンの外観をした、このアパートで独り暮らしを始めて十年が経った。その間に季節が幾度も移り変わったように同棲相手も変わっていった。年上、年下、同級生、年齢だけでなく性格や見た目の異なった女性たちと付き合っても、彼女たちが別れ際に告げる台詞は皆同じ。


「あなたには将来性が感じられない」


 自分でも思うことだ。女性ならよりそう思うだろう。結婚に関して、彼女たちはとてもシビアだから。


 三十代も後半に入り、独り身を案じた田舎の母親からお見合い写真と一緒に【精がつくから】と、とんだ珍味が届いた。今思えば、この出会いが自分の生活──いや、人生を大きく変えた。


 初めはグロテスクな見た目に絶対食べられないと敬遠していた。奇妙なモノを送ってきた母親に苦情の電話を入れたら、「何!? 食べてない? あんなに美味いものはないってのに! だから、アンタは結婚出来ないんだ!」と電話越しに説教された。食わず嫌いと結婚出来ないのは決してイコールにはならないだろうに……。


「食べれば分かる! あ、今度こっちに来る時は気をつけるんだよ」


 よく分からないことを言い残し、母親との電話は終わった。しばし、段ボールの中に詰め込まれているグロテスクな見た目をした食べ物(?)を見つめた。


 実家がある田舎では昔から独特の食文化が根付いている。虫を食べる地域があるように、実家の方でもイナゴなどの虫を甘露煮にして食べている。肉というと猟で仕留めた鹿などの動物を食べたりしていた。幼い頃から、それが当たり前だったから、都心に出た頃は「森や山がないのに肉はどこからどうやって仕入れてるんだ?」と疑問だった。


 珍味が入った透明の真空パックには【食べ頃まで寝かせてからお召し上がり下さい】とシールが貼られていた。食べ頃になるまで、大体4~5日ほど掛かると添えられている。


「……本当に食えるのか、これ」


 不安しかない。どう見ても食べ物には見えなかった。細かい筋がたくさん入っているし、何よりその物の周りを鮮血のようなものがまとっている。分類で言えば、精肉の類だ。要冷蔵とも書かれていた。


 4~5日待てば、母親が言っていたように美味になるのだろうか。ドキドキしながら、時間が経つのを待った。


 こんなに待つことに対してウキウキした気持ちになったことはない。待つという行為は、どちらかと言えば嫌いな方だ。だが、得体の知れない食べ物を前にして、心が弾んでいる。今までに食べたことがない、見たことがない物だから尚更かもしれない。どんな味がするのか、怖いもの見たさの好奇心が胸の奥をうずかせた。


 一日目、淡いピンク色をしていた物は少し濃いピンクに色づいた。周りを纏っている液体は変わらず、赤いまま。美味しそうだから食べてみるか!という気は、全然起こらない。


 二日目、また少し色が濃くなった。ピンクというよりかは赤に近い。熟してきているのだろうか。もしくは発酵? いずれにせよ、美味しそうな食べ物にはまだ見えない。


 三日目、赤ワインに似た色合いになってきた。筋も最初ほど気にならない。これは──ひょっとすると美味しいかもしれない。そんな期待が生まれ始めていた。


 四日目、もう少し寝かせたい気もする。美味い酒もじっくり寝かせるものだ。見た目は、ワイン漬けのホルモンのよう。明日、食べることにしよう。明日が待ち遠しい。


 ──そして、ついに迎えた五日目。


 インスタント麺を作る時に使用している愛用の鍋で湯を沸かし、ブドウと似た色合いに染まった真空パックを投入した。ゴボゴボ沸き上がる湯同様、心の中で期待が沸々と煮えたぎる。


「あと、三分……」


 ゴクリと唾を飲み込んだ。三分後、待ち望んだ瞬間が訪れる。母親が美味だと絶賛していたグロテスクな食べ物。この正体が何なのかは大体想像がつく。というか、原型を留めている。おおむね想像通りの物だろう。


 母親がどうやってこの珍味を入手したのかはわからないが──自分も持っている物なだけに、おぞましいとさえ感じる。しかし、ヒトは美味しい物に目がない動物だ。美味しいと分かれば、どんな物でも平気で口にする。それが例え【他の動物の臓器】だったとしても。


 ついに待ちわびた時が訪れた。皿の上に乗せた食べ物からは赤ワインに似た香りと共に濛々もうもうと熱い湯気が上がり、眼鏡のレンズを曇らせた。


 あの赤い液体は鮮血ではなく、赤ワインだったようだ。誤解が解け、ますます腹の虫は空腹を主張するように大きな声で鳴き始めた。


 目の前にあるソフトボール大の球体を何を使って食べるか悩んだ末、スプーンですくって味わうことにした。スプーンを入れた感じは思ったよりもやわらかく、プリンや茶碗蒸しと類似している。中からは濃厚な赤いソースが溢れ出てきた。


 ギュッと両目をつぶり、意を決するとスプーンに乗った珍味を口の中へ運んだ。


 不思議な……あれ? でも──思ったより、美味い!!


 ワインが効いているからだろうか。生臭いかと懸念していたが、全くそんなことはない。母が絶賛していただけのことははある。こんなに美味しいものがどうして流通していないのか、不思議なくらいだ。


 この日から、すっかり珍味の虜になってしまった。母から送ってもらう分だけでは足りず、大型連休を利用して久々に実家に帰省することにした。


 都会から離れ、実家がある田舎へと電車はレールの上を走っていく。同じ速度で走っているのだろうけれど、山・川・田んぼの田舎特有の景色に変わった途端、徐行運転に変わったのかと思うほど列車はのんびりと進んでいる気がした。最寄の駅を出たときにはたくさん居た乗客も、今では片手の指で数えられるほどしかいない。


 誰もいない寂れた駅に降り立ち、懐かしいと故郷を思うよりも何もなく不便な場所だという考えが先行してしまった。すっかり都会に染まってしまったらしい。この地に居たときには平然と話していた御国言葉も今ではすっかり抜けてしまった。


「おー、来たんけ」


 見慣れた真っ赤な軽自動車が駅の前に停められ、運転席から母が顔を出していた。「ただいま」素っ気無く返事をし、荷物を後部座席へ置くと助手席に乗り込んだ。


 ほのかに動物臭がする車内。だが、この田舎ではよくあること。狩りが日常茶飯事。どこの家庭でも、どの車でも同様の臭いがする。


 真っ赤な車は緑に覆われた田んぼ道をクリスマスの主役のように目立ちながら颯爽さっそうと走り抜けていく。どこまで行っても、ずっと同じ景色。幸いなのが青い空に雲が浮かんでいること。形を変える雲のおかげで退屈な車内も少しはマシになった。


 人の顔を見るや否や、結婚の話を繰り出す母。なぜ、そこまでして結婚させたがるのか……。口うるさい母のこともあって、結婚に良いイメージを持てないのも事実。


「アンタ、珍味気に入ってるんだろ?」


 話題は急に珍味の話に変わっていた。流れる雲よりも母の話の展開スピードは早い。聞いていなかったとバレたら長い説教が始まってしまう。「うん」と即座に返した。


「それなら尚更。はよう結婚しなされ」

「は?」


 全然、話が見えない。そもそも話題はつながっていたようだ。結婚と珍味と一体どんな繋がりがあるというのだろう。いや、すべてを結婚とイコールにしたがる母だ。今回も何の繋がりもないのかもしれない。


「アンタ、あの珍味が何か知ってるんかい?」

「知らない。何の説明も聞いてないし。パッケージにも【珍味】の表示と食べ方くらいしか書かれてなかったよ」


 母はため息をこぼした。それも長く深く。これは嫌な前兆だ。母がこのため息をついた時は決まって話が長くなる。おまけに家までの道のりは、まだまだ先。下手したら家に着くまで延々と母の話は続く。項垂うなだれても、母の目には見えないらしい。気にもせず、よく喋る口を開いた。


「あの珍味は、なかなか手に入らない。それも製造過程に時間がかかる。食べ頃まで待つよりも、もっと長い時間を待たなくちゃいけないんだ。おまけに作り手が減って困ってる。若者はみんな、他所よそに出ちまうからね」


 皮肉の言葉と眼差しが運転席から飛んできた。こんな田舎で暮らしていきたいという若者はいないだろう。過疎化が進む地域は全国的にも増加している。致し方ないことだと思うが、残された大人たちからすれば、大きな問題だ。


「少しでも若者に戻ってきてもらえるよう、みんなで頑張ってるんだ。それで、あの珍味を生み出した」

「なるほど。あれを名産にして、町興まちおこしを考えたのか! いい案だと思うよ」

「けれど、作る側がもう……。そこで代変わりを」

「俺は無理だよ。そういう製造とかは向いてないから」

「大丈夫。難しいことは何一つない」

「そんなことないだろ。工程とか面倒な作業とか」

「いいや。アンタは結婚して、【旦那】になるだけでいい」

「……ごめん、母ちゃん。全然話が読めない」


 母は車を路上で停めた。県道だというのに前からも後ろからも車が来る気配がない。静かな車内にエンジン音だけが響いている。どういうわけか無性にこの場から逃げ出したくなった。だが、シートベルトに固定された体を動かすのがわずらわしい。結局、逃げ出せないまま、母の話を聞くこととなった。


「アンタが美味しいといって食べた物は……」


 母は服をめくり、腹部から下腹部を覗かせた。生々しい縦に入った手術痕。このとき、すべてを理解した。


 【長い時間待たなくては製造されないもの】 果たして、どれほどの時間を寝かせてから出荷したのだろう。


 ヒトという生き物は、どこまでも恐ろしい生き物だ。美味しいと分かれば、例え【同じ動物】でも食してしまうのだから……。




寝かせる【完】



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寝かせる 望月おと @mochizuki-010

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