第8話
ちりん……ちりん、ちりん。
遠く響くのは風鈴の音だった。
柿沼は、ぼんやりした意識の中で桶に沈んだスイカを見つめていた。蛇口から冷たい井戸水が絶えず流れている。
開け放たれた縁側に吹き渡る風にほんのり稲の匂いがまざった。
これは、小学生の夏。
滋賀県にあった祖母の家の風景だった。
虫かごをぶらさげた小学生の柿沼が、木の幹にとまった蝉に網をかける。
網の中で蝉の抗議の鳴き声が響いた。
「かわいそうだ」
突然、背後で声がしたので柿沼は飛び上がって驚いた。
そこには柿沼と同い年くらいの女の子と、小さい男の子が立っていた。
かわいそうと呟いたのは、男の子らしい。
「び、びっくりするじゃないか」
「ごめんなさい」
女の子が言った。木陰を吹き渡る風のような音色だった。
「驚かせるつもりはなかった」
「別に……いいけどさ」
思わずはにかんでしまったのは、女の子の姿にドキッとしたからだ。
凛とした切れ長の目と笑みを浮かべたピンク色の唇がとても大人びていて、およそ同い年の女の子には感じられない不思議な雰囲気があった。さらにひまわりの模様のワンピースに包まれた白い肌が真夏の陽光に輝いているのを見て、もしや人ではないのではと思わせるほど神々しさを感じたのだ。
少女にくぎずけの柿沼のよこで、捕獲された蝉が鳴き叫んで暴れた。
「早く解放してやれ。彼らが短い命をまっとうするのを邪魔するな」
男の子が偉そうに言った。
刈り上げ七三の黒髪に、どんぐり眼。襟付きのシャツに紺色の短パンはサスペンダーでとめられている。ちょっと良いとこのおぼっちゃまな感じだが、子供には違いない。
その小さな体に大人でも入っているのかと目を凝らした柿沼に少女が言った。
「教授はここの生態系がお気に入りだ。目の前で貴重な個体を奪われるのを我慢できなかったらしい」
「そんな、難しいことを言われても」
「その網から蝉を解放すればいいだけ」
「か、かいほう?」
「……逃がすのよ」
「ああ、そ、そうか」
変な圧力を感じて柿沼は網から蝉を逃がした。
ジジジと鳴きながら蝉は森の中へと消えていく。
「よし。聞き分けがいい」
男の子が笑顔を見せて言った。
「君は蝉が好きなのか?」
弾んだ声がこんどは馴れ馴れしい。
「どうなんだ、好きか?」
「蝉もいいけど……本当はクワガタやカブト虫が好きなんだ。けど、なかなか見つけられなくて」
「ふむ」
男の子のどんぐり眼が輝いた。
「そもそも活動時間の掌握が必要だ。吾輩がこの地を訪れてよりこの方、生物の生息分布と活動時間を念入りに調査したところ……」
男の子は馴れ馴れしく柿沼の手を引っ張って木々の根や、樹皮から染み出す樹液のあとを指さしながら、まるで研究の成果を発表するように柿沼に説明し始める。
柿沼を引っ張りまわす男の子を、優しい眼差しで見つめる少女に柿沼はまたドキドキした。
不思議な時間だった。
幻想の世界にいるような、淡い光景が柿沼たち包む。
そして夕暮れを迎え、別れの時。
黄昏色の空のもと、畦道で手をふる少女と男の子。それに応えて手をふった柿沼の視線の先で、背を向けたふたりがすうっと消えていくのを目のあたりにして呆然とした。
「え……うそ。なんで」
急激に日が沈む。
田んぼから無数の蛙が鳴きだして、怖くなった柿沼は一目散に逃げだした。
あとでそのことを祖母に話すと。
「そらぁ、キツネかタヌキに化かされたんやで」
と大笑いされたのだ。
これはもう四十年近く前の話だ。今になってあの時の記憶が蘇るなんて、どういうことだろう。
柿沼がその原因に思い至る前に目が覚めた。
「あ、目が覚めちゃったか」
操作盤に向き合っていた白衣の男が振り向いて言った。
「もう少し眠っていて欲しかったけど、仕方ないね」
両手両足を拘束されていることに気づき、柿沼は愕然とした。隣りには眠ったままの栗山が、自分と同じ状態で椅子に座っている。
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