第四話


 皆で帽子を被って祖父母の家を飛び出す。網戸の奥の座敷から父や叔父たちに「気をつけろよ」と声を掛けられた私たちは、めいっぱい手を振って「いってきます!」と返した。

 まるで冒険に行くようだった。夏休みも終わり、暑さも弱まって訪れた秋に、漠然とした悲しさがあったが、皆でいるだけで楽しく、わくわくして、私は知らずの内にスキップをしていた。

 母たちはどこへ連れて行ってくれるのだろう。そんなにドングリが落ちているのだろうか。ポケットに入るだろうか。ああ、おばあちゃんに袋を貰ってくれば良かった。色んな楽しい悩みや疑問がむくむくと沸き上がっていた。


 やがて私は母と叔母についていく内に、あの石碑のような墓に行く道だと気付いた。

 紅葉が始まり、どこからか銀杏の葉が頭上からひらりと足元へ落ちていく。少し坂を下りてUターンして、現れる小さな家々の間にしんと佇むその空間があった。

 祖父母と来たときと変わらず、真ん中の大きな墓石を取り囲むように、祠と小さな石碑群がずらりと乱雑に並べられている。

 夏に来た時よりも、不思議と「お墓」という感じがした。そしてその下には銀杏いちょうの葉が一面に広がって落ちており、所々にどんぐりが見え隠れしているのに気付き、健太郎がわっと声を上げた。


「ドングリだ!」


 ここからでも見えるのだから、銀杏の葉をどかせばもっと沢山のどんぐりが見つかるに違いなかった。私たちは地に蹲るようにしてドングリを漁り始めた。


「……久しぶりねえ」


 子供6人が一心不乱にどんぐりを拾い始める中、母が墓石を眺めながら呟いた。


「そうねえ。あら、お線香」

「分家の方が供えて下さったのかしら」


 母と叔母がそんなことを話している。

 真ん中の墓石の足元には線香が3本ほどあった。半分以上が灰になっており、僅かな細々とした煙が天に向かって伸びている。


「あら、舞子ちゃん!麗子ちゃん!」


 声が聞こえたかと思うと、道路側から近所のおばさんが手を振ってこちらに向かってきていた。私はあまり面識がなかったが、祖父母とも仲がよく、母も親しげに話す人であることは知っていた。


「あらー!飯塚さん!ご無沙汰しております」


 母の顔がぱっと明るくなる。


「お彼岸だものねえ。麗子ちゃんも帰ってきたのね」

「そうなんです。覚えて下さっていて嬉しい」

「覚えてるわよ。田村家の姉妹は賑やかだったもの。今日もちびっこたちがいっぱいでいいわねえ。こっちまで楽しくなるわあ」


 近くのコンビニで買い物をしてきたのだろうか、飯塚さんはぼこぼこと膨れたビニール袋を腕にかけていた。重そうだと、ドングリをポケットにひとつ入れながら思った。飯塚さんは私と目が合うと、にっこりを笑って手を振ってくれたので、「こんにちは」と笑った。くしゃりとした飯塚さんの笑顔は優しかった。


 母たちは飯塚さんとの会話を楽しんでいる。ただでさえ大きな声の母の笑い声はそこらに響いた。しかしそんなことはどうでもよくなる。私の目的はどれだけ立派なドングリを見つけられるかだ。

 一個、二個、これは駄目、これは大きいから三個目……なんて考えながら屈んだまま一歩一歩進んでいたら、いつの間にか中心の墓石の裏側に辿り着いて顔を上げた。苔が生えていて一部が緑色なのだが、逆光ということもあって、真っ黒にそびえ立つ四角い何かに見えた。何だか不思議だなあと眺めていると、背後から声がした。


「ひなちゃん、ひなちゃん」


 振り返った先に、満面の笑みの健太郎がいた。「これ、見て」と手の中のものを私に見せてくれる。そこにあったものに私はあっと声をあげた。


「うわあ、けんちゃんそれ大きいね。すごい」


 これでもかと立派などんぐりだった。つやつやと茶色が光り、ふっくらとしている。おそらくこのドングリ拾いの優勝者と言っても過言ではない、貫禄のあるドングリだ。

 秋風とも言える少し涼しげな風が吹いた。私が思わず立ち上がると、健太郎も立ち上がって、私のスカートのポケットを指さして笑った。


「ひなちゃん、ポケットいっぱいじゃん」


 確かにパンパンである。だが、相手の上着のポケットも負けてはいなかった。


「けんちゃんもでしょ」


 私たちはお腹を抱えてけらけら笑った。何がそんなにおかしかったのか分からないが、涙が出るほど笑ってはしゃいだ。そして健太郎が見つけた貫禄のあるドングリを妹たちに見せびらかしに向かった。

 そんなことをしている内に、まだ小さな末の妹たちが立派なドングリを見つけられないことに地団駄を踏み、加えて眠気に絶えられず、お喋りをする母と叔母に「抱っこして」とせがみ始めた。


「あら、もう16時じゃないの」


 末の妹を抱き上げた母が腕時計を見て驚いた。晴れ渡った空は、母の言うとおり夕方の色を帯び始めている。


「帰るよ。戻っておいで」


 同じように末娘を抱いた叔母が、未だに屈んでドングリを拾い続ける私たちに声を掛けた。妹たちがしぶしぶ立ち上がり、差し出されたそれぞれの母の手を握った。


「ほら、健太郎!」


 少し怒られるようにして呼ばれ、健太郎も頬を膨らませて立ち上がった。健太郎が帰るならと私も真似をして立ち上ってスカートについた落ち葉を払った。そんな私たちを見て、母と叔母はまた笑い声を響かせながら、墓石に背を向け、祖父母の家に向かって歩き出す。


 帰り道というのは切ない。理由は分からなかった。ドングリを拾うのがとても楽しかったからだろうか。

 私は健太郎の隣を歩いた。すると少し進んだところで健太郎はふと立ち止まり、あの貫禄のあるドングリを掌で転がし、やがて「はあっ」と大きく溜息を吐いた。すると、どんぐりをポケットに突っ込み、いきなり海老反りみたいな格好をし始めたのだ。


「けんちゃん?」


 健太郎は海老反りの格好でさっきまでいたドングリに溢れる空間をじっと見つめている。これはきっと帰りたくないという意思表明なのだと幼い私は思った。ふざけて、母たちの気を引こうとしているのかも知れない。なんて、けんちゃんらしいんだろう。

 何だかまた楽しくなり、何でもかんでも健太郎の真似をしてきた私は同じように海老反りになった。


 世界は反転する。

 前を行く母や妹たちの後ろ姿が見え、空が見え、雲が見え、そして樹が見えた。ドングリと銀杏の木だ。

 もっと背中を反らすと、逆さにあの墓石のてっぺんが見えた。苔が生えて少し緑がかった石。読めない文字。夕暮れが近いせいか陰って見える。ただ、まだ沈みきっていない太陽の橙が、地面に落ちたあたりの銀杏の黄色をこれでもかと輝かせているらしく、石にもその色が反射して映っていた。

 綺麗だなあと、阿呆な格好で私は思った。

 そのままどんぐりをこの体勢で見つけてやろうと思った私は更に体を反らせた。そうして見えたものに思わず、あっと声をあげた。


 左端の墓石の横に、小さな人影があった。

 小さな女の子だった。まだまだ沢山のどんぐりが落ちている黄色の地面に立ち、墓石の左側に寄り添うようにしてひとり佇む女の子。黒い髪が肩まであって、赤いセーターと灰色のスカートをはいている。微笑んでいるように見える、逆さまのその子は、私を見ていた。


──私がいる。


 咄嗟にその時そう思った。服も髪も背丈も今の自分と何もかもが同じだった。違うのは周りに誰もいないことだった。所々が黄金に輝くような地面に立ち、私が私を見ている。


 しばらく、逆さの自分ではない自分を見ていた。

 声が出なかった。怖いわけではない。自分はここにいるし、自分が見ているのだからそんなことはないと分かっていたのに、私はその子を自分だと確信した。その確信に驚いていた。


「お母さん」


 突如声が聞こえて、私は我に返って隣を見た。体が動いた。視界から女の子が消えた。声の主は健太郎だった。彼は先に海老反りをやめて、前を行く母と叔母を呼び止めていた。


「どうしたの、健太郎」


 叔母の声に、健太郎は振り返って、墓石を指さした。


「あそこにひなちゃんがいるよ」


 私は驚いて体を起こして健太郎を見た。


「ひなちゃんがまだあそこにいる」


 健太郎もまた私と同じものを見ていたのだと驚いた。同じものを見て、同じようにあの女の子を私だと、「田村陽奈子」であると言ったのだ。


「何言ってるの。ひなちゃんは隣にいるでしょう」


 叔母は笑って、「早くおいで」と手招きをした。

 体を起こした私は健太郎と目を合わせ、また二人で墓石を振り返った。逆さではなくなった墓石の左側にはもう誰もいなかった。秋風が吹いて、地面の銀杏の葉が数枚舞い上がっただけだった。


 ここからの記憶はない。

 おそらく健太郎と並んで母の方へ走っていき、父たちの待つ祖父母の家に戻ったのだろう。

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