現の夢
命の危機
第三十四話 墨遣い
その間、特に変わったことなどはない。それが反対に不気味でもあったが、人の口に上る噂を集めるのには十分だった。
曰く、草壁皇子は夢に住み狂ったために
曰く、草壁皇子は幼稚な幻に追いすがっている。
曰く、それに比べて大津皇子は清廉潔白な偉丈夫で、大王に相応しい。
「……全て皇子様を貶め、大津
口惜しげに報告する兼良に、草壁は「そうか」と頷いた。自分が歓迎されていないのは承知していたが、ここまで貶められるといっそ清々しい。
「これを機に、都を出て何処かに行ってしまおうか」
「皇子様、冗談でも言ってはいけないこともあるのですよ」
「……すまない」
兼良に冷たい声で叱られ、草壁は明らかにしょげ返る。しかしそれ一時のことで、すぐに集めてきたことを頭の中で整理し始めた。
「兎に角、最近とみにわたしを貶める噂が増えたね。以前は、もう少し慎ましやかだったんだが」
「あちらも、なりふり構っていられなくなったのでしょうか?」
「ふふっ。簡単に倒れると踏んでいた皇子が、思いの外頑張るものだから焦ったのかな」
「……皇子様は、幼き時よりひ弱であられましたからね」
兼良は懐かしげに微笑み、回想する。
高い熱を出して生死を彷徨い、薬を盛られて死に際に立つ。その度に死ぬと噂されても、彼は何度も淵から這い上がった。
そんな草壁の過去を間近で見てきた兼良にとっては、草壁の成長は好ましいものである。と同時に、少し寂しくもある。
「あなたは、必ず大王になられます。そのために、そしてその後のために、僕や白兎たちがいるのですから」
「兼良……」
兼良の穏やかな笑みに、草壁は目を見開いた。次いで、柔らかく目を細める。
「ありがとう。精一杯、努め……ゴホッ」
「皇子様!?」
突然咳き込んだ草壁の背を、兼良が迷わずさする。摩擦で背中がじんわり温かくなるくらい温度が上がった頃、ようやく草壁は息をついた。
「……はぁ。助かったよ、兼良。ありがとう」
「全く、あなたは油断も隙もない」
「ふふ。手厳しいな」
兼良の心配の裏返しに苦笑した草壁は、己に課せられた仕事を片付ける為、改めて机に向かう。彼に背を向け、兼良もまた墨を筆に含ませた。
同じ頃、千歳と葵は都の別の場所にいた。
より深く調べるという白兎と別れ、二人は普段の仕事に励んでくれと頼まれたのだ。千歳の「気を付けて行けよ」と言う言葉に、白兎は緊張をはらんだ笑みで返す。
「葵はどうする?」
千歳は一度、近衛に話を聞きに行くという。これは毎日の日課みたいなもので、今更誰も怪しみはしない。
葵は少し考えた後、行き先を告げた。
「女官長の所に行ってくる。何か仕事があれば手伝って、なければ皇子様の所に戻るよ」
「わかった。……くれぐれも無茶はするなよ」
「千歳こそ」
自分よりも、千歳の方が危険に首を突っ込みやすいのだから。葵の突っ込みに、千歳は苦笑いするしかなかった。
「さて、と。──おはようございます、女官長様」
「おはようございます。おや、葵どのではありませんか」
千歳と別れ、葵は女官長の部屋に招き入れられた。
この都全体に女官を派遣する部門の長は、老年に差し掛かった穏やかな目をした女性だ。しかし若い頃は無茶もしたらしく、彼女を恐れる老年の男は多いとか。いつかその武勇伝を聞きたいと思いつつ、葵は別のことを切り出した。
「今日は何か、お手伝い出来ることはありませんか?」
「まあまあ、ありがとう。ではお使いをひとつ、頼まれてくれますか?」
女官長は微笑むと、一本の墨を葵に手渡した。筆と同じくらいの長さのそれを受け取り、葵は誰に渡せば良いのかと尋ねた。
途端に女官長はしまったという顔をして、すまなそうに葵を見る。
「それは……大津皇子様に子麻どのを通じて頼まれたものなのです。そういえば、あなたは草壁皇子様の側付きでしたね。あなたに頼むのは、余計な波風を立てかねないわ」
そう言って、女官長はしわの刻まれた手を差し出す。手の上に乗せろ、ということだろう。しかし、葵は首を横に振った。
「いいえ、わたしがお持ちします。訊きたいこともありますし。───では!」
「え? あ……待ちなさい、葵どの!」
女官長の制止を振り切り、葵は駆けた。こちらに来てからほとんど走ることはなくなっていたが、やはり舞うように走るのは気持ちが良い。
「っとと。ここ、だね」
以前に一度だけ出逢った大津皇子、彼の部屋の前へとやって来た。弾む息を整え、葵は「申し訳ありません」と声を上げる。
「女官長より、墨をお届けするようにと仰せつかりました。受け取っていただけませんか?」
「女官長から? おお、待ってい……」
ひょこっと顔を出した青年が、葵を見て目を丸くする。
「きみは……」
「申し遅れました。わたしの名は葵。……草壁皇子様のお世話になっている者です」
正直に名乗り、葵は深々と頭を下げた。目の前の青年がどれ程の地位にいるのかはわからないが、大津皇子の側近に間違いないだろう。これから訊きたいことのためにも、追い返されるわけにはいかなかった。
「葵……? もしや」
「子麻? お客人かい」
子麻と呼ばれた青年が慌てて振り返ると、そこには子麻よりも何歳か幼い少年が立っていた。
「大津皇子様……」
草壁と似ない快活とした目と、艶やかな黒髪。そして、兄とよく似た思慮深げな瞳の奥の光が見える。
思わず顔を上げた葵と大津の目線が交わる。尊い身分の大津と、ただの居候である葵。葵はぶしつけに見てはいけなかったと目を伏せるが、もう遅い。
「墨を持ってきてくれたんだな、助かった。ありがとう」
ひらりと砂の上に飛び降り、大津は葵の手元から墨を拾い上げた。そして、葵に顔を上げるよう促す。
「……子麻」
「はい」
じっと葵の目を見ていた大津は、子麻を振り返って告げる。
「この者を、客として招く。何やら、話があるらしい」
「──はい」
その場で深く訊くことなく、子麻は素直に大津の命を聞いた。彼の許可を得、大津は葵に手を伸ばした。
「入れ。そして、話を訊かせてくれ」
「はい。お願い致します」
覚悟を決め、葵は二人に従った。
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