第六話 彼はいない
あの日から、五年の歳月が流れた。
十五だった葵は、二十歳を迎えた。
肩までだった真っ黒の髪は、いつしか腰につくまでになった。それを後頭部で結い、残った髪は垂らしている。大きく黒目勝ちだった瞳は、その青色が濃く映えるようになった。
相変わらず、千歳を待ち続けている。その心が、ぶれることなどありはしない。
しかし、心のどこかで「もう帰って来ないのではないか」との不安が
葵の周りは、この五年で変わったこともある。
朱華と藤が結ばれた。子はまだいないが、遠くない未来だろう。
五年前、朱華には年上の恋人がいると噂になった。噂はほどなくして消えたが、葵は朱華自身に聞いて真実を知っていた。
あの祭りの夜、朱華を愛しげに見つめる兄の目は、疑いようもなかったのだろうが。
「あの日みたいな、雪」
しんしんと降り続く雪を見上げ、葵は白い息を吐いた。
まだ底冷えの残る朝、葵は夜明けを待たずに館を忍び出た。今日は、千歳と最後に会ったあの日から五年目の日。
防人の兵役は基本的には三年で終わる。それから兵役が延ばされるのか、解放されるのかが決まる。
もし解放されたとしても、それは自由と直結しない。帰郷と直接つながらない。
何故なら、帰り道は己の身一つだから。
食べ物も、着る物も、宿も、何もかも手渡されない。言うなれば、「どうぞご勝手に」である。
防人の終わりは死に簡単につながる。人里離れた森や山の奥を通れば、熊や猪に襲われて命を落とすかもしれない。川や海に落ちて溺れるかもしれない。食べ物も気力も尽きて、野垂れ死にするかもしれない。
だから、葵は毎年この日に山に登った。あの日、千歳を見送った山の頂で、神に願うのだ。
どうか、あの人が無事に帰ってきますように。
あの笑顔が、もう一度見られますように。
葵のこの習慣を、松葉も藤も知っているだろう。それでも、何も言わない。
毎年と同じように神に祈り、下山した葵は、日が昇るその方を眩しげに見た。手をかざし、日の光から目を守る。
「……え?」
瞠目し、硬直する。震えが体を走り、視線が固定される。
誰かか、こちらに向かっている。
(千歳?)
この五年で随分と成長したはずだが、その長く伸びた手足も、幼い頃のように忙しなく拍動する胸には敵わない。葵は千鳥足を踏むように、焦燥感に駆られながらもその人影に駆け寄った。
「あ……あなたは」
「お、お久し振りです、ね。葵さん……?」
千歳と共に防人として旅立った青年、梓であった。
その疲れ切った男を支え、自宅へとたどり着いた時、葵の胸には恐怖が去来していた。
梓は、とりあえず衣を着替えさせた。その際、川で体を清めさせもした。そうしてから、飯を与えた。彼の食べっぷりに目を見張った松葉が、恐る恐る警告する。
「梓、そんなに頬張ると喉を詰めるぞ」
「は、はい。でも、本当に久し振りなの―――ごほっ」
「ほら、言わんこっちゃない」
勢いよく咳き込む梓に白湯を与え、松葉は隣に座る藤と顔を見合わせた。
まだ、梓の他の防人がどうなったのかを聞いていない。一太の妻子と千歳の両親には、次期官吏である藤が会いに行くことになっていた。
葵は部屋の隅で、三人の様子を窺っていた。その顔は青ざめ、今にも倒れそうだ。
藤にも松葉にも、梓にさえ自室で休んでいるよう勧められたが、例え倒れたとしても、梓の話を聞かなければならない。そう言うと、梓は少し悲しげな顔をした。
飯を全て食べ終え、梓は松葉たちに礼を言った。
「官吏さま、ご馳走様でございました。ようやく、生き返った心地です」
「それはよかった。……して、梓。他の二人はどうしたのだ?」
「それ、は」
一気に顔を青くした梓は、急がなくていいと言う松葉の言葉に頭を振り、とつとつと話し始めた。
「ぼ……わたしたち三人は、確かに防人を務めました。しかし、一太さんはその途中で、病で倒れられました」
「何と……」
「細君が、どれほど悲しまれようか」
松葉と藤が言い合い、梓も首肯する。
「一太さんも、それを
梓が懐から取り出したのは、小さな布の袋だった。その中には、砂と白い貝殻が幾つか入っていた。
「一太さんが、細君とお子さんに、と」
最期の贈り物だった。
藤はそれを大切に受け取り、必ず一太の家族に手渡すと約束した。
「そして……千歳は?」
「あの子は……」
梓はちらりと視界の端に葵を認め、眉を寄せた。怒りではなく、困惑や悲しみを帯びた目だ。
「この村へと続く道を、千歳と二人で進んできました。とある山の中で、道が二つに分かれていました。それを左に行けば故郷へ、右に行けば都へ続く道でした」
葵の目が、目いっぱいに見開かれる。千歳の次の言葉が、わかってしまったから。
「……千歳は、右へ行きました。千歳は、都を見て帰る。そう、葵さんに伝えてくれとぼくに託して」
「……とせっ」
「葵……」
藤の支えもあったが、葵はそれをすり抜けて崩れ落ちた。
激流のように、気持ちが溢れる。どうして、と嗚咽が漏れる。目を真っ赤にして、大粒の涙を流し、葵は慟哭した。心でどれだけ否定しても否定しても、その可能性が大きく頭を占める。
「ちと、せ。千歳―――――ッ」
五年ぶりに流した涙は、理性ではどうしても止めることなど出来なかった。
その後のことは、あまり覚えていない。
ただ、幼い頃の約束よりも無事な姿を見せて欲しかったのに、と口に出した気がする。この村より更にたどり着くかもわからない都。そこへ向かったという言葉だけでは、彼と再び会えるかすら、彼が生きていると信じる事すら、今の葵には難しかった。
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