春待防人物語―今と過去、ふたつの約束―

長月そら葉

序 約束

 ――あおい、いつかみやこにいくの。

 ――みやこ? あんなとおいところにか。

 ――そう。それで、しらないことをしりにいくの。

 ――ふーん、じゃあ……。

 幼い頃の思い出だ。あの山頂の景色は、忘れない。

 少年は少女の夢を笑うことなく、こう言った。

 ――おれが、つれていってやる。




 幼い日の夢を、見た気がした。

 それはとても大切で、温かくて。もう戻らない。

 ここは、古来より雪深い北陸の地。その端に位置する村の邸で、あおいは目を覚ました。

 外を見れば、ちらつく雪の中で大きく丸い月が見え隠れしている。まだ、夜明けには程遠い。

「……夜が明けなくても、いいのに」

 明ければ、別れが待っている。この先再び相まみえられるかもわからない、残酷な別れが。葵は寒さに震える体をふすまの中に押し込んだ。

 また、雪と風が強くなったようだ。邸が震えている。

 目を閉じて眠気を呼ぼうとするが、うまくいかない。それよりも、寒さよりも寂しさが身を凍らせる。

 明日、幼馴染が大宰府へと旅立つ。


 十五年ほど前のこと、この国はつ国といくさをした。官吏である父の話では、百済という国に助けを求められて出陣したらしい。

 けれど、勝つことは出来なかった。惨敗して百済は国を失い、この国は這う這うの体で帰って来た。

 それから、西の警備を強化する目的で『防人さきもり』が置かれるようになった。防人とは、東の人々を中心にした徴兵だ。それに選ばれると、三年間の警備につく。

 行きはまだいい。食事は自分でどうにかしなければならないというが、途中からは中央の役人が付き添うのだから。帰りは、全て自力だ。食べ物も、泊まる所も、全て。

 だから、無事に帰って来れる防人は幸運だ。途中で病を得たり獣に襲われたりして、命を落とす者も少なくないとか。


 考えていると、胸が締め付けられるようだ。

 葵は嘆息し、次いで何かの音を聞いて目を開けた。

 コン

「何……」

 何かが床を転がる。葵は体を起こし、それを拾い上げた。こんなものは、眠る前にはなかった。

「石? でも、一体何処から」

「葵」

 葵はその呼び声に耳を疑った。幼い頃から聞き慣れ、しかし遠ざかってしまっていた幼馴染の声だ。声変わりをしても、その穏やかで明るい声を聞き間違えることはない。

「―――ッ、千歳ちとせ!」

 きぬを重ね着して、葵は駆けた。部屋を飛び出し、雪の積もった庭に裸足で跳び下りる。しもやけなど、気にしていられない。

 寒さとは別の理由で赤くなった顔を上げ、葵は塀の上からこちらを見下ろす青年を見つめた。何年も会えなかった男の子は、その面影を残しながらも青年となっていた。

「千歳……」

「なんて顔、してんだよ。久し振りだな、葵」

「本当だよ。何年、経ったと思ってるの? 千歳とわたしが会えなくなって、もう五年は経つんだよ?」

 千歳と葵は同じ村に住みながら、立場の違いから滅多に会えない間柄だった。

 千歳は公民だが、葵は彼らをまとめ取り仕切る官吏の娘。幼い頃は分け隔てなく遊んだものだが、年頃を迎えるとその気安さはなくなった。

 そんなになるか、と千歳は笑った。その笑顔は彼の長所だが、今はそれが欲しいわけではない。葵は努めて不機嫌を装い、千歳に詰め寄る。

「『そんなになるか』じゃない。そもそも、どうしてこんな真夜中にここにいるの? 見つかったら、ただじゃ済まないことくらいわかるでしょ?」

「……葵に、会いに来た」

「え……?」

 さっきまでとは打って変わった千歳の切なげな表情。葵は虚を突かれ、言葉を失った。

「明日、おれは防人として旅立つ。正直、生きて帰って来れるかすらもわからない」

「……うん」

 わかっている。葵は、痛いほど。

 何年も前に夫を防人として送り出し、それ以後生きた姿を見られなかったという村の女性を見たことがある。彼女は穏やかな表情で友人と会話をしていたが、友人が去った後、唇をきつく結び、わなわなと震える声で呟いた。

 ―――次はあなたの夫かもしれないでしょう?

 その時の彼女の悲しみと切なさに溢れた顔を、忘れることは出来ない。

 だからこそ、千歳の次の言葉に驚いた。

「でも、おれは約束したから。お前を案内できるように、都の様子を見て来てやるよ」

「え……。な、何言ってるの? 千歳が行くのは、都の更に先でしょ」

「そうだけど、通り道だ。そして帰って来て、葵を都に連れて行く」

「っ。あの時の約束、まだ覚えてたの?」

 葵自身もさっき夢に見た、あの穏やかで何も知らない無垢な思い出。それを果そうと、千歳は言う。

「当たり前だろ? ……だから、必ず帰って来る。それに、すべきこともあるしな」

「『すべきこと』?」

 呟かれた言葉の最後を拾い、葵は首を傾げる。すると千歳は、月の光の中でもわかるほどに赤面した。そして、いたずらを思いついた子どものように笑う。

「まだ、秘密だ」

 ぼすん、と庭の木から雪の塊が落ちる。気が付けば、夜明けが近くなっていた。そろそろ葵は寝床に戻らなければならない。朝には、父や兄と共に防人となった男たちを見送る役割が待っている。

「もう、日が昇るか」

 千歳も白んできた空に気付き、長く居過ぎたと苦笑した。ちらりと後ろを見て、降りる場所を探す。

 何か、言わなければ。そう思うのに、葵の頭は働かない。口も思うように動かない。焦っているうちに、千歳が軽く手を挙げた。

「じゃあ、また会おうぜ。葵」

「―――待ってるから。千歳が帰るのを」

「……おう」

 次の瞬間、ぼすっと向こう側に千歳が着地する音が聞こえた。幼い頃から身軽だったが、それは成長してからも変わらないらしい。きっと、積もった雪が千歳を受け止めてくれただろう。

 葵はくるりと庭に背を向けた。

 千歳を見送らなければいけない。それが、どんな形であれ。


 朝日が昇り、葵は官吏である父と跡継ぎである兄と共に、村の出入り口に立っていた。その場には何人もの村人が顔をそろえ、旅立つ男たちを見送ろうとしていた。

「実は、悔しいんじゃないか? 葵」

「何故ですか、兄上」

 兄であるふじの顔を見上げ、葵は首を傾げた。

「何故って、お前は昔から都に行くことが夢だっただろう? 都は大宰府へ行くまでに通る。先に千歳に行かれてしまうから、悔しがるんじゃないかと思ったんだが」

「……千歳は、先に見て来てくれるそうです。そして、帰って来たら連れて行くと、約束してくれました」

「……そう、か」

 どこか硬い表情の妹に再び声をかけようとしたが、村の方からざわめきが聞こえてきて、藤はそちらに目をやった。どうやら、防人たちがやって来たらしい。

「来たぞ!」

 集まっていた村人の誰かが叫ぶ。

「あ……」

 その中に千歳の姿を見つけ、葵は思わず――その場を走り去った。

「おい、葵!?」

「何処へ行くんだ!」

 父と兄の驚きの声が遠ざかる。きっと他の皆も、目を丸くしていることだろう。それがわかっていても、葵は止まれなかった。



 胸の奥が痛い。今にも何かが千切れてしまいそうなほど、痛い。息が切れる。のどが休息と水を欲している。それでも、立ち止まっている時間はない。肩が激しく上下する。数回荒い息を整えた後、葵はすぐに足を動かした。

 目の前にあるのは、雪で全身を化粧した小さな山。小さな頃、友だちと走り回った懐かしい地。

 葵はごくんとのどを鳴らすと、山頂へ向かって山道を登り始めた。


 山頂へは、子どもの足でもそれほど時間はかからない。

 しかし春を前にした冬のこの時期、本来ならば一人で山に登るなど、出来るわけがない。何故なら、雪で埋もれてしまうから。一歩踏み出せば動けなくなり、きっと冷たくなってしまうだろう。

 けれど、道をたどれば行ける。葵たちの村では、この山には土地の神が宿ると信じられてきた。その神に祈りを捧げる社やしろが山頂にある。

 その社へは、一日も欠かさず、毎朝決まった人物が朝一番の湧き水を捧げに行く。そのための道が整えられているのだ。

 毎朝毎朝、山に登る度に雪は除のけられる。道の両側には大人の背丈を越える雪の壁が出来るが、それが崩れるのさえ気を付けていれば、冬であろうと子どもが神に会いに行くことが可能なのだ。

「父上も、兄上も、呆れてる、でしょうね」

 走り出した時、父は目を見張っていた。あんな父の姿を見たのは初めてだ。始終冷静な父の意外な面を引き出してしまったかもしれない。兄も常に冷静な人だから、あんなに声を荒げるのは珍しい。

(わたしも、自分がこんなに身勝手だとは思わなかった)

 他の防人となった男性たちだけなら、ただ寂しさを思うだけ、彼らの無事を祈るだけでよかった。でも、防人の中で最も年下で、誰より大切な彼を目の前で見送ることは出来なかった。したくなかった。

 無理矢理笑ってくれる彼の、その笑顔を見たくなかった。

 その笑顔を見るのは、本当の笑顔を見るのは、今じゃない。

 自嘲する。こんな勝手なわたしは、わたしらしくない。役目を放棄して、父には申し訳ない。帰ったら謝らなくては。

 葵は時折浅く積もった雪や雪に隠された木の根に足を取られながらも、頂きへとたどり着いた。

「ここからなら、街道がよく見えるから」

 運よく、村から出た一団が山のすぐ下を通り過ぎて行く。その中に、千歳の姿もあった。仲間と話しているのだろう。彼ならきっと、そうする。

 自分よりも誰かを気にかけ、気遣う。それが美点であり、葵にとっては寂しい点だった。

 きっと驚いただろうな、と葵は思う。見送ると言ったのに、その場にいなかったのだから。それに対しては、謝らなければならない。

 けれど、それはあなたが約束を果たす時まで、取っておく。

「だから、必ず帰って来て。……千歳」

 いつしか集団は遠くに去って行く。けれどその姿は、霞んでしまってよく見えない。

「約束だから。必ず帰って、わたしを都に連れて行って……」

 大粒の涙は、雪の結晶のように輝く。

 夜に千歳と会った時には流れなかった、その感情の奔流が。

 葵は唇をかみしめ、千歳が行く道の先を見つめていた。


 これを最後に、葵は泣かなくなった。



 ❅❅❅


 葵が山に着いてからのほとんどは、『雪を溶く熱』の本文とほぼ同じです。

 あまり、ここは変えたくなかったので。

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